木を組み合わせて作られた家は、お世辞にも風通しが良いとは言えない。冬場の降雪を考えて造
 られた家が、夏場の事も想定している事など有り得ないのだ。それでも、普段は魔力によって不快
 な暑さを分散させている為、夏場であろうとローブを深く着こんだストレイボウがへばる事はなか
 った。
  しかし、生憎と、今の彼には小さな漣程度の風すら起こす事が出来ない。空気の流れのない家の
 中は、ひたすらに熱気が籠っていて、しかも何処にも逃れる場所がない。
  魔術師であるストレイボウにとって、太陽の光は忌むべきものだ。別に、闇の眷族だからとかそ
 んな大層な理由ではない。単に、日の光はストレイボウが集めた古書を痛めるから、窓は出来る限
 り北側に配置するように作ってある。だから、日差しによって部屋の中に熱気が籠るという可能性
 は少ないはずなのだが、夏場の太陽という物は天井を平気で突き破るものらしい。そう言えば、こ
 こ数日間ずっと窓も開けていなかった。
  籠りに籠った熱気。しかも、熱源が忌まわしい太陽だけではない事を、ストレイボウは知ってい
 る。
  恨めしげに天井を睨みつけるストレイボウの耳に、更に神経を逆撫でするような鼻歌が聞こえて
 きた。ふんふんと上機嫌な鼻歌は、不意に途切れたかと思うと、やはり上機嫌そのものの声でこう
 言った。

 「いやあ、しかし君が風邪をひくなんてね。夏風邪は馬鹿がひくもんじゃないんだね。」

  昨年夏風邪をひいた時に散々馬鹿にした事への腹いせだろうか。そんな事をのたまうオルステッ
 ドに、しかしストレイボウは言い返す気力もなかった。






 Rice Gruel








  きっと、あの雨の日に、すぐに身体を乾かさなかったのが悪かったのだ。
  ストレイボウは、雨の中、手に入れたばかりの古書が濡れている事にショックを受け、それを乾
 かす事に専念しすぎて自分の身体を乾かす事を忘れていた日の事を思い出し、遠い眼をする。その
 所為で、今自分はベッドの中で転がって、茹るような暑さの中悪寒に身体を震わせているのだ。
  しかし、ストレイボウにとってはあの古書を濡らしたままにしておく事などできなかった。何せ
 あの古書は、ずっと欲しいと願っていた魔術書の、それも原書だったのだ。そんな貴重な物を――
 もしも教会にばれたなら即死罪になりかねない物ではあるが――濡らしたまま放置しておく事など
 出来るはずがない。
  魔術師であるストレイボウは、教会に支配されたこの時代では異端と言われても仕方がない存在
 だ。それ故、異端として眼を付けられぬように、教会の行事には積極的に参加してきたし、魔術師
 としての本分は、家の中以外では出来る限り目立たせぬようにしてきた。
  それでも魔術書や魔道具に触れる時、どうしてもそれが自分の本分であると思わずにはいられな
 かった。もしも自分の家系が、王族や貴族に囲われるような偉大な血筋であったなら、こんなふう
 に生きる必要はなく、思う存分に魔法の勉強も出来ただろうし、力も振るう事が出来ただろう。
  だが、ストレイボウの血筋はルクレチアという田舎に生まれ、そして決して権力も大きくない王
 族に囲われたところで、逆に教会に眼を付けられ、ストレイボウは災いの種に担ぎ上げられるだろ
 う。そうなってしまえば、ストレイボウに未来はない。この田舎を支配する国王に、教会に抵抗す
 るような気概を求めるのは無理な話だ。
  それ故、ストレイボウは己を隠し、それでも魔術書を集め、自分の本分を忘れぬようにしている
 のだ。

     もっとも、その所為で、こうして風邪をひいて倒れているわけなのだが。

     うぐ、と喉に詰まった痰を吐き出した途端、喉に痛みが走った。どうやら炎症を起こしているら
 しい。完全に真っ赤に腫れ上がった喉は、誰がどう贔屓目に見ても、呪文を唱えるには相応しくな
 い。おかげで、ストレイボウはコップ一杯の水を作り出す事も、部屋の中に空気の通り道を作る事
 も出来ないのだ。
  それどころか、身体を動かすのも億劫だ。
  部屋の中と同じくらい熱の籠った身体は重くてだるく、上半身を起こそうとしただけでくらりと
 目眩が起こる。ベッドから一歩でも動きたくない身体は、その通り一歩も動かず、何の手入れもな
 かった部屋の中は数日間の放置の所為で、あっと言う間にすさんでいった。

 「しかしあれだね、ストレイボウ。君でも、風邪をひくなんて間抜けな事をするんだね。」

    そのすさんだ部屋の中で、腹立たしくなるほど能天気な声を上げているのは、幼馴染であり且つ
 親友であるオルステッドだった。
  ストレイボウが熱に倒れた次の日、何処でその噂を聞きつけたのか土足で上がり込んできた男は、
 何故かこうして居座っている。しかし居座ったところで、すさんでいく部屋の中に歯止めがかかっ
 たようには見えないので、あまり役に立っていないような気がするのは木の所為ではないのだろう。
  お前は一体何をしにきたんだ、と突っ込んでやりたくでも喉の痛みの所為で出来ないストレイボ
 ウを余所に、オルステッドは安心するんだ、と意味もなく胸を張った。

 「私だって、お粥くらいは作れる。」

  実に、どうでもよい自慢だった。
  しかも、そう言ってお粥を作ろうとした矢先に、ストレイボウが作り置きしていた薬に手を伸ば
 そうとした。

 「馬鹿……がはっ…けは、ごほごほ……!」

  毒草を煮詰めたその薬は、作ったストレイボウ以外の人間が触れるのは非常に危険なものである。
 それに無防備に何の考えもなしに触ろうとするオルステッドに慌て、思わず痛む喉を忘れて怒鳴り、
 思いっきり噎せた。
  そんなストレイボウをオルステッドは呆れたように眺める。

 「何をしてるんだ、君は。魔法も唱えられないのに、そんな大声を出すなんて。」

  誰の所為だ。そう言ってやりたいが、噎せに噎せた喉は、それを口にする気力もなかった。
  その後も、ストレイボウの集めた薬草や毒草、それらから作った粉末や軟膏にオルステッドが手
 を向けるたびに、ストレイボウは何度も怒鳴り散らしてやりたい気持ちに駆られたが、先程の噎せ
 で胃まで何だか掠れたような気分になっていた為、それは辛うじて堪えた。

  そんなこんなで数十分後。
  いらない所に手を出そうとする以外は、意外と手際良くお粥を作り上げたオルステッドは、満面
 の笑みを見せてお盆に乗せたお粥をストレイボウの元に持ってきた。そして、木の匙で――待て、
 それは薬剤を量り取る薬匙ではないのか――お粥を掬って、ストレイボウの口元に持ってくる。
  薬匙については綺麗に洗っているからまあ良いとして、その行動は如何なものか。まるで小さな
 子供に食べさせるような行動を取るオルステッドを、ストレイボウは本当に馬鹿なんじゃないかと
 思った。
  ふん、と鼻を鳴らし、ストレイボウはオルステッドから薬匙を奪うと、自分でお粥を口に運び始
 めた。オルステッドが何となく傷ついたような表情を浮かべたが、それは丸ごと無視する。そして
 口にしたお粥は、意外と食べられるものだった。
  もしかしたら、腹も減っていたのかもしれない。熱を出して倒れてから、水以外のものは口にし
 ていなかったような気がする。空腹は最大の調味料だ、と頷き、ストレイボウは用意された水も飲
 み干す。
  その様子を、薬匙を奪われたがっかり感を消して、代わりに安堵感を浮かべてオルステッドは眺
 めた。





  夜になってもオルステッドは帰らなかった。時折ストレイボウの額に濡れた布を置いては取り替
 え、ストレイボウの脇に腰掛けていた。
  ホゥホゥと梟の鳴き声と、ジージーという虫の鳴き声だけが聞こえる夜の中で、オルステッドが
 遠い眼をして呟く。膝の上に置かれた彼の手は節くれ立って、正に剣士として生きるオルステッド
 を象徴していた。

 「先日、司祭様に聞いたんだけれどね。昔、山の向こう側の土地では、竜が暴れていたそうだね。」

  御伽噺でも話すかのような口調で呟いたオルステッドは、おそらくそれを御伽噺か、或いは聖書
 の一節だとでも思っていたのかもしれない。

 「その時、数多くの聖騎士達の先頭に教皇聖下が立たれて、そして竜を討伐しに行った。けれども、
  竜はとても強くて、教皇聖下のお力を以てしても、斃れなかった。そこで、聖下は神に祈りを捧
  げた。その祈りは聞き届けられ、神は一振りの剣をお与えになった。その剣を聖下は一人の騎士
  に下賜し、騎士は神の加護を得た剣によって、たった一人で竜を打ち滅ぼした。」

  まるで、出来の悪い物語。けれども、それを語る時のオルステッドはうっとりとしていた。

 「竜か。物語りでは良く聞くけれど、一体どんな生き物なのだろうね?ルクレチア周辺には、異形
  と呼ばれる生物が数多くいる。それは魔王山の所為だ。けれども、魔王山にも竜はいない。教皇
  聖下でも斃せなかった生き物。そして、それを斃した騎士というのは、一体どんな人物だったの
  だろうね。」

  子供のように、司祭の話を信じるオルステッドに、ストレイボウは微かに皮肉な笑みを浮かべた。
 それはオルステッドに対して冷ややかに思ったのはない。オルステッドにその話を教えた司祭に対
 して思ったのだ。

  山の向こうの地で起こった竜討伐。それは、遠い昔の話ではない。つい最近の出来事だ。それに
 対して教会が騎士団を組んだのも本当だが、教皇は先頭には立っていない。そして組まれた騎士団
 も、ほとんど戦いはしなかった。
  ただ、たった一人の騎士が、竜を打ち倒したというのは本当の話。
  きっと、司祭はわざと、話を捻じ曲げたに違いない。教皇を、引いては教会の威光を遮らない為
 に。そして、わざわざ昔話としたのは、若者達をこの地に縛りつける為だ。今時分の話とすれば、
 若者達は竜を斃した騎士に憧れる。憧れて、この国を出て行ってしまう。それは国力の衰えに繋が
 る。だから、わざわざ昔話にしたのだろう。
  その剣の腕が国外に流れる事を惜しまれたオルステッドは、その真実を知らされない。
  もしかしたら、竜を一人で斃せる力があるのかもしれないのに。
  そしてそれは、ストレイボウも同じ事だ。

  結局自分達は、自分の本分を噛み殺すしかないのだ。国と、時代とに絡め取られて。それはまる
 で、生まれながらにして不治の病を背負わされたよう。癒す術はなく、何処にも逃げられはしない。

  遠くに思いを馳せるオルステッドを見上げながら、ストレイボウはいつか来るであろう破綻の時
 を思っていた。