朝、眼が覚めると、腕の中に抱き込んで眠っていたはずの賞金稼ぎの姿は何処にもなかった。
  勝手に何処に行ったんだと思い、のそのそと起きて身支度を整え――と言っても服を着る以外は
 特に髭を剃ったり櫛を当てたりするわけではない――賞金稼ぎの姿を探す。
  昨日あんなに啼かせたのに、動き回れるなんて元気だなと、当の賞金稼ぎが聞いたら、飛び膝蹴
 りでもかましそうな事を考えつつ、台所へと向かう。もしかしたら朝ご飯を作っているのかもしれ
 ないと期待しつつ――自分で作ろうという気は全くない――扉を開く。
  その途端、ふんわりとコーヒーの匂いが漂ってきた。





 Coffee






  マッドは紅茶が好きだ。
  こだわりがあるのか、それとも色んな種類を試してみたいのか、あちこちから買い漁ってきては
 片っ端から試していく。おかげで、塒から紅茶の茶葉が消える事はない。
  サンダウンは特にそうしたこだわりはない。強いて言うなら、砂糖を一つとミルクを入れる事く
 らいか。これはどんな茶葉であろうと同じ事だ。尤も、マッドに言わせてみれば、茶葉の香りを掻
 き消してしまうような牛乳を入れるのは邪道であるそうだが。
  それは置いといて、とにかくマッドは紅茶派だった。

  しかし、そんなマッドが何を思ったのか、最近になってコーヒーサイフォンを買ってきた。多分、
 新しい型のものでも見つけたから手を出してみたとか、そんなところだろう。そしてマッドは、買
 ってきたサイフォンの性能を推し量るべく、連日のようにコーヒーを入れている。今までの紅茶好
 きが嘘のようだ――が、だったらアルコールもカフェインに置き換わっているのかというと、そう
 いうわけでもないようだから、骨の髄までコーヒー一色に染まったわけではないようだ。おそらく、
 一過性のものだろう。
  それに、サンダウンは別に、塒にある茶葉の備蓄がコーヒー豆に変わったところで特に困りはし
 ない。酒がコーヒーにすり替われば流石に抗議の一つもするかもしれないが、今のところその傾向
 にはないので、問題ではない。
  サンダウンにしてみれば、マッドがサンダウンの為に入れたものならば、紅茶だろうがコーヒー
 だろうが抹茶だろうが何でも良いのだ。そこに、牛乳と一つの角砂糖さえ入っていれば。

  そんなわけで、サンダウンは楽しそうにサイフォンを弄っているマッドを、舐めるように眺めて
 いた。幸いにしてサイフォンに夢中になっているマッドは、サンダウンの視線には気付いていない。
 こぽこぽと音を立てながらコーヒーの匂いを放つサイフォンが、マッドの視線を全て奪っている事
 に、微かな嫉妬を覚えないわけではなかったが、そこまで口にするとマッドの眼が冷たく光る事は
 分かっているので、サンダウンは嫉妬を心の中でだけに留め置く事にした。どうせすぐに飽きるだ
 ろうという推測も、サンダウンの欲望に歯止めを掛けた。

  コーヒーサイフォンに、無意味且つ無駄な嫉妬をしているサンダウンを余所に、よもや自分が追
 いかけている賞金首がそんな事をしているなど思いもよらぬマッドは、着々と手際よく朝食の準備
 をしている。
  もはや二人分の朝食を作る事が当然になりつつある事を、マッドは既に嘆く気にもならないよう
 だった。嘆く暇があるならば、少しでも自分が楽しめる方向に持っていこうという気質の強いマッ
 ドは、追いかけている賞金首の朝食まで作らなくてはならないという状況を少しでも楽しもうと、
 調理器具や食材には、非常に凝るようになった。
  尤も、それはサンダウンの腹を満たして喜ばせるという状況を生み出し、結果的になんの打開策
 にもなっていないわけなのだが。

  とは言っても朝は忙しいのでマッドとてそれほど手の凝ったものは作れない。代わりに、紅茶や
 コーヒーに拘っているのだ――その努力がサンダウンには伝わっているかどうかは、甚だ怪しいが。
  黄色の鮮やかなプレーンオムレツとトマトのサラダを、今のところ何もしていないサンダウンの
 眼の前に置き、マッドはサイフォンの中で沸き立っているコーヒーの準備に取りかかる。マッドが
 コーヒーを注いでいる間、食事に手を付けないのが唯一のサンダウンの美徳だった。

    そうして差し出されたコーヒーが、微かに白味を帯びている事に、サンダウンは満足する。対す
 るマッドのコーヒーは、黒に近い茶色をしているはずだ。サンダウンとは違い、マッドは紅茶にも
 コーヒーにも何も入れない。何かを入れる事で香りが邪魔されるのが嫌なのだ。食事も、ドレッシ
 ングなどを付け過ぎる事はあまり好まない。
  それは、長い間傍で見てきたサンダウンが知るマッドの好みだった。
  そしてマッドも、同じようにサンダウンの好みを知っている。サンダウンがマッドにそれを口に
 した事は一度もない。いつの間にかマッドはサンダウンの好みを読み取って、サンダウンの好みに
 あった食事を作っているのだ。それは、紅茶一つ、コーヒー一つにしても同じ事だ。マッドはそれ
 らに、ちゃんと角砂糖を一つと牛乳を入れてサンダウンに手渡す。

  が、本日はそういうわけにはいかなかった。
  サンダウンは手渡されたコーヒーを一口飲んで、顔を顰めた。
  甘い。
  サンダウンが好む味よりも、幾分か甘いのだ。どうやら、角砂糖が一つよりも多く入っているら
 しい。マッドはサンダウンの好みは知っているはずで、それを外した事はこれまでになかったのだ。
 それが、何故か今日になって覆された。
  そうして、ようやくサンダウンは、マッドが実は上の空である事に気か付いたのだ。
  まさかコーヒーサイフォンに、それほどまで気持ちを傾けているのか。

  おもしろくなかった。
  非常におもしろくなかった。
  サンダウンの好みまで忘れ去るほど、何かに気を傾けているマッドは、サンダウンにとって非常
 におもしろくない。
  これが何処かの街中であるならば、多少の我慢は出来た。マッドは仕事を持っている。ならば、
 仕事仲間と話をしたり飲みに行ったりするのは仕方のない事だった。その時だけならば、サンダウ
 ン以外に心を傾けても仕方がないと思う事にしよう。
  しかし此処は街中ではない。マッドの仕事仲間である賞金稼ぎもいなければ娼婦もおらず、賞金
 首だって自分以外にはいない。荒野のど真ん中にある小さな小屋の中には、サンダウンとマッド以
 外には誰もいないのだ。
  そんな、互いの事だけを考えれば良いだけの場所で、マッドは明らかに上の空で、サンダウン以
 外の事を考えている。

  非常に不愉快な事態に気が付いたサンダウンは、手の中にある非常に不愉快なコーヒーをテーブ
 ルに置いて、マッドを見る。マッドはマッドの好みにあったコーヒーを啜っている最中だった。

 「………何を考えている。」
 「ああ?」

  藪から棒なサンダウンの発言に、マッドはたった今サンダウンがそこにいる事に気が付いたと言
 うような表情で、サンダウンを見た。それがまたサンダウンに苛立ちを募らせる。

 「コーヒーが甘い……砂糖を多く入れただろう。」
 「だったら自分で入れ直せよ。」

  にべもないマッドの台詞に、まさかわざとではないだろうな、とサンダウンは不安に思う。わざ
 とであるならば、原因は己にあるはずなのだが――もしかしたらサンダウンの気を惹く為に、とい
 う甘い考えを抱くには、マッドの返事は素っ気なさすぎた――残念ながらサンダウンには思い当た
 る節がなかった。

 「………何か、考え事をしているんじゃないのか。」
 「俺はてめぇと違って毎日色々と考える事があるんでね。」
 「マッド。」

  サンダウンはそんな言葉遊びがしたいわけではない。マッドが自分の事を考えていないと言うの
 なら、考えさせるように動かねばならない。その為には、マッドが今何を考えているのか知る必要
 があった。そしてそれが如何に考える必要のない事なのか、マッドに滔々と説明せねばならない。
 「何を、考えているんだ。」  「なんだって良いだろ、別に。」  「良くはない。」
    これ以上言わないつもりだったら、その手の中にあるコーヒーを奪い取って、押し倒すつもりだ
 った。

 「………てめぇには関係ねぇだろ。」
 「ないと思っているのか?」

  既にほとんど一緒に暮らしているようなものなのに。

  そう言うと、マッドはコーヒーに落していた視線をようやく上げる。その眼に微かな怯えが浮か
 んでいるのを見て、サンダウンは薄っすらと嗜虐心に襲われた。これでマッドが黙っていたら、押
 し倒そう。  
  そんなサンダウンの決意を読み取ったわけではないだろうが、マッドの唇が震えた。

 「……………あれ、が。」
 「あれ?」
 「……………あれが、出たんだよ!朝飯作ってる最中に!カサカサと!」
 「…………。」

  ぎゅっとコーヒーカップを抱え込んで訴えるマッドに、サンダウンは何が言いたいのか速効で理
 解した。マッドがあれ呼ばわりするものなど、あれしかいない。

  ゴキブリだ。

  ただし、その名前を口にすると、声を発する前にビンタで止められるので、サンダウンはそれを
 心の中でのみ呟いた。
  そしてマッドは、声に出した所為で色々な物が堰を切ったのか、眼がうるうるしている。悲しい
 かな、何故かゴキブリが嫌いというマッドは、どうやらそれでもなんとか自我を保って朝食を作り
 上げ、しかしゴキブリが存在しているという耐えがたい状態に心が奪われてしまっていたのだろう。
  眼を潤ませているマッドの姿は、非常に、押し倒してしまいたいくらい、可愛らしいのだが。
  しかし、このまま押し倒せばマッドが嫌がる事は眼に見えているし、ゴキブリ一匹にマッドの心
 が奪われたままというのも非常に癪な話である。それに、今ここでゴキブリを倒してしまわねば、
 この先マッドがゴキブリにばかり気持ちを向けてしまう事は、眼に見えている。それはサンダウン
 としては避けたい話だった。

 「倒してこよう………。」

  今後の生活を破壊しない為にも、サンダウンはそう告げて、コーヒーの匂いが漂う中、ゴキブリ
 が現れたという台所へと脚を運んだ。