自称魔王に無理やりルクレチアとかいう国に連れて行かれた所為で、長らく家を留守にしてしま
 った。
  一ヶ月近く無断で留守にしてしまった事に、いかんいかんとサンダウンは急いで塒の扉を叩く。
 何せ、サンダウンの妻、ではなくて、嫁、でもなくて、恋人――と本人が言っていたからそう呼ん
 でも差し支えはあるまい――は、非常に寂しがり屋だ。サンダウンに一週間逢わなかっただけで、
 酷く怒る。その度に、サンダウンは機嫌を取るのに必死だ。おそらく今回も、臍を曲げているに違
 いない。
  尤も、サンダウンにはそれも愛くるしく見えるので、あまり大きな問題にはなっていないのだが。

  ぷっくりと頬を膨らませて、子供のように突っ掛かってくるであろう恋人を想像し、鼻の下が伸
 びそうになるのを堪えながら、サンダウンは塒の扉を叩いた。
  が。
  何度叩いても、扉が開かれる気配はおろか、返事が帰ってくる気配もない。怪訝に思って、扉に
 触れると鍵はかかっていなかった。不用心な。少しは自分の身の危険も考えたらどうだ、とサンダ
 ウンは、少し叱る必要があるかもしれないと思いながら塒の中に入る。
  しかし、いつもいるはずのキッチンには、その姿はなかった。ソファの上にもいない。では風呂
 場だろうかと思って除いてみるも、そこは綺麗に掃除された形跡があるだけで、人の気配はなかっ
 た。
  では何処に、と思っていると、寝室のほうから気配がした。
  なるほど、そっちか、とサンダウンは脚をそちらに向ける。まだ日は高いけれど、不規則な職業
 である以上、昼間から睡眠を取る事は別に珍しい事ではない。それに、そのまま久しぶりの情事に
 雪崩れ込むにはそのほうが都合が良い。
  そんな、些か不道徳な事を考えながら寝室の扉に手を掛けて、サンダウンは眉根を顰めた。
  寝室からは、確かに恋人の気配がする。が、それ以外にも何かの気配がする。それだけでもサン
 ダウンの機嫌を損ねるには十分なのに、次いで聞こえてきた喘ぎ声に、はっきりとこの先に何が待
 ち構えているのかを、リアルに想像できた。
  いやそんな馬鹿な、とその想像を打ち消すように首を一振りし、恐る恐る扉を開く。

  すると、そこにはベッドの上で男と絡み合っている無防備に裸身を曝したマッドの姿があった。
  残念ながら、サンダウンの想像と一分の狂いもない格好で。





  Chastity Belt









  目の前が真っ白になるという経験を、サンダウンは生まれて初めてした。
  久しぶりに家に帰ってきたら妻ではなくて恋人――でもなくてライバル――が男と絡み合ってい
 る姿を目撃するという、まるで三文小説のような体験をしてしまったのだ。眼の前が真っ白になら
 ぬほうがおかしいというものだ。
  嬌声を上げるマッドは、明らかに男と繋がっている動きをしている。

  酷い裏切りだ。
  サンダウンは、そのまま魔王になってアメリカ西部の全人口を虐殺できそうな、それこそルクレ
 チアなんていう小国を破壊した魔王も真っ青なくらいの憎しみを背負えそうだ。

 「んぁ……?」

  不意に、眼の前で絡み合う二人の動きが止まり、そしてようやくサンダウンに気付いたかのよう
 に、マッドがその黒い眼にサンダウンを映した。

 「そんなとこで何してんだ、てめぇ……。」

  眉間に皺を寄せて、明らかにサンダウンを真似かねざる客と見做した表情で告げるマッド。しか
 しサンダウンとしてはマッドにそんな表情で見られる謂れはなく、何よりもマッドの台詞はそっく
 りそのままサンダウンが口にするべき台詞だ。

 「お前こそ、何を………。」

  怒りとショックで言葉も出ないサンダウンは、それでも辛うじてマッドに言い返す。すると、マ
 ッドは何を言っているんだと言わんばかりに顔を顰めた。

 「ああ?見りゃ分かんだろ?俺はお楽しみの真っ最中なんだよ。外野はすっこんでろよ。」
 「な………!お前は、私の………!」

  妻、嫁、恋人――それらの言葉がぐるんぐるんと頭の中を回転し、どれを口にするのが一番正し
 いのかを考えているうちに、マッドが眼に険を灯して、一ヶ月間も家を留守にしていたサンダウン
 を詰り始める。

 「今更、何言ってやがる。一ヶ月間も俺を放置しておいた癖に、今更亭主面かよ。自分は好き勝手
  にしてる癖に、俺は一人で家に閉じこもってろってか?」
 「違う……!私は、お前しか……!」
 「うるせぇな!てめぇみたいな自分勝手なヒゲのおっさんに、俺がいつまでも構ってると思ってた
  のかよ!」

  俺は気付いたんだよ、と怒鳴って、マッドは今現在自分を抱いている男にその身を寄せる。いつ
 もなら、それはサンダウンの特権であるはずなのに、今は見知らぬ男にそれを奪われてしまってい
 る。
  サンダウンが自分だけに許されていると思っていた権利を、あっさりと別の男にも許しているマ
 ッドに、サンダウンは更に打ちのめされた。

 「あんたみたいなヒゲにばっかり眼を向けてんのが、どんだけ馬鹿らしい事なのか!世間にゃ、も
  っと良いヒゲだっているんだ。あんたみたいにヒゲしかないような男じゃなくってな!」

  そう言って、マッドは自分を掻き抱く男にしがみ付く。その行為に、内心声にならない悲鳴を上
 げながらも、サンダウンは自分からマッドを奪い去ろうとしている男を睨みつける。
  マッドの貞操を奪った挙句、たった今マッドからの抱擁まで頂戴した男は、砂色の髪と髭を持つ、
 碧眼の男だった――というか、薄っすらと自分に似ているような気がする。そうか、これらのアイ
 テムはマッドの好みなのか。
  頭の片隅で妙に冷静に納得しながらも、よもや自分がそれだけで今までマッドに追いかけて貰え
 るというおいしい立場にいたのだとは信じたくない。
  というか、さっきからマッドはヒゲを連発しているが、ヒゲだったら何でも良いとでも言うのか。

  そんな事は信じたくないサンダウンに、けれどもマッドは容赦なかった。 
  いつもはサンダウンが啄ばんでいる乳首を男の胸に擦りつけ、サンダウンを親の敵のように睨み
 つけている。

 「あんたが無断でどっかに行って、俺を放置してる間、こいつはずっと俺に優しかったんだ!あん
  たみたいに、所構わずさからねぇし、俺の意志を尊重してくれた!」
 「さかるような態度を取るお前が悪い!」
 「ほら見ろ!そうやって都合が悪い事は全部俺の所為にしやがって!」

  マッドの眼が潤んだ。
  その表情に、しまったと思った時にはもう遅い。マッドの眼からはぽろりと涙が零れ落ちている。
 その滴を慌てて掬おうとしたが、しかしその役目は今現在マッドを抱き竦めている男に奪われてし
 まう。
  優しくマッドの頬に口付けて涙を吸う男に、サンダウンの腹の底は一気に煮えくり返った。

  マッドの物は、例え髪の毛一本であろうとも、サンダウンの物なのに! 

  しかし、そんなサンダウンの心の叫びを完全に無視して、マッドは涙に濡れた顔を男の胸に埋め
 ている。自分の特権がまたしても奪われた事に、サンダウンはもはや怒りのあまり声も出せない。

 「分かったか!こいつは、あんたと違って俺に優しくしてくれるんだ!」

  何を言うか、サンダウンだってマッドが泣いている時は――主に原因はサンダウンだが――抱き
 締めて涙を受け止めてやっているではないか。
  そう反論しようとしたサンダウンに、マッドは畳みかけるように叫んだ。

 「あんたみたいにソファでごろごろするだけで何もしないわけじゃない!食べ終わった後の皿だっ
  て、そのまんまにせずにちゃんと自分で洗うし、洗濯物を干すのだって手伝ってくれる!俺の具
  合が悪い時は洗濯物を取り込んでくれたりもするし、風呂掃除だってしてくれる。料理も作って
  食べさせてくれる!あんたは一度だって、俺にそんな事してくれた事ねぇじゃねぇか!」
 「それは、お前が、何も言わないから………。」

  マッドの悲鳴のような叫びに、しかしサンダウンはそれが正当な言い分であるが故に、強く反論
 できなかった。そしてその反論でさえ、正当性には欠く。事実、それを聞いたマッドは涙の残る眼
 でサンダウンを睨みつけてきた。

 「そうやって、てめぇは逃げるんだよな!自分は悪くないみたいに!そういうの得意だもんな、て
  めぇはよ!」

  他に縋る者がないと言わんばかりに、眼の前に男に縋りつくマッドは、もうサンダウンに触れら
 れる事さえ拒絶している。

 「言わなきゃ分からねぇってあんたは言うけどよ、じゃあなんで言わなくても俺のやってほしくね
  ぇ事は出来るんだよ!俺がゴキブリ嫌いな事知ってる癖に、小屋の中に何度も入れるよな!」
 「あ、あれは……!」

  怖がってサンダウンに縋りつくマッドが可愛いから。
  いや、それよりも、マッドにばれていたとは!気付かれないようにこっそりとやっていたつもり
 だったのに!

 「そんな、嫌がらせしかしない奴と、ずっと一緒にいたいなんて思うわけねぇだろ!そんな奴なん
  かよりも、自分に優しくしてくれる奴に惹かれるのは当たり前だろ!」

  もう、あんたと一緒にいるのは苦痛なんだよ。

  その苦さをこれでもかと言わんばかりに孕んだ悲鳴に、サンダウンは気分が地球の裏側まで沈み
 込んだ。脳天を殴られたように、眼の前が真っ白になって、次に真っ暗になる。マッドに嫌われた
 ら基本的に生きていけないおっさんは、マッドが裏切り行為をしている事でも十分にダメージを受
 けていたのに、そこに更にマッドに苦痛に思われている事を知らされて、虫の息だった。
  そんな、瀕死の重傷を負ったサンダウンに、マッドは更に追い打ちをかける。

 「俺は、都合の良い抱き人形じゃねぇんだ!自分の良いなりになるもんが欲しいってんなら、それ
  こそ人形でも買って抱いてろよ!」
 「マッド!」

  お前を抱き人形だなんて思った事はない。
  そう言おうとしたけれど、何故か言葉が出てこなかった。自分以外の男が良いと言って、別の男
 に抱きつくマッドは、もうサンダウンを見ようともしない。サンダウンと一緒の部屋にいる事さえ
 嫌だと言い、抱き締める男に此処から連れ出してくれと請うている。

 「マッド、待ってくれ!」

  何処かに飛び立とうとしている賞金稼ぎに、サンダウンは惨めったらしく叫んだ。
  そこまでお前の負担になっているとは知らなかった。これからはもっと気を付けるから、だから。
 行かないでくれ、と叫ぼうとして、けれどもまた言葉は出てこなかった。喉に何かが詰まったよう
 に、息が吐き出せない。

 「二度と逢わない。」

  最後にマッドが一言呟いた。
  それは、サンダウンから全てを奪い去るには十分だった。その腕を掴もうとした手は、虚しく宙
 を掻いて、何も手の中に残らなかった。

 「マッド………!」

  一人取り残された部屋の中で、追いかけなくてはと思うのに脚は鉛のように重くて動かない。動
 く事が出来ないサンダウンは、迷子のように名前を呼び続ける事しか出来なかった。




 「ねぇ、アキラ………。」

  レイが、何か不気味な物を見た後のような表情をして、アキラに話しかける。

 「サンダウンが、さっきから嫁の名前を呼び続けて魘されてるんだけど……あれ、起こしたほうが
  良いのかい?」

  珍しく眠りの中にいる最年長者は、今も何かに縋るように腕を動かして、マッドマッドと魘され
 続けている。
  それをちらりと見たアキラは、何かに当てられたような顔をして、けっと眼を背けた。

 「良いんじゃね、別に?どうせ元の世界に戻ったら、また仲良くやるんだろーし。夢の中でくらい
  夫婦喧嘩してろよ。」
 「しかし夫婦喧嘩で先に折れるとは、サンダウン殿は愛妻家でござるなぁ。」 

  夫婦仲が良いとは感心感心と頷くおぼろ丸を尻目に、アキラはつまらなさそうに、けれども切実
 な思いを込めて叫ぶ。  

 「ああ良いなあ嫁がいるって!」

  未だ女性とのお付き合いを経験した事のない超能力少年は、しかし非モテ最後の矜持を振り絞っ
 て、サンダウンの夢の中身を覗こうとはしなかった。
  それによって、サンダウンの嫁の秘密は保たれ、しかし同時にあからさまな勘違いを彼らは続け
 る事になるのである。





  そして、ハリケーンショットの一撃で魔王を倒し、いそいそと西部の荒野に帰ってきたサンダウ
 ンは、その日のうちにマッドに逢いに行った。

  で。

 「なんか、気色悪いな。てめぇが皿洗いしてるのって。」

しかも風呂掃除まで自発的にするなんて。

 「どういう風の吹きまわしだ?なんか変なもんでも食ったのか?」

  怪訝な表情をしているマッドの視線を背中に感じながら、サンダウンは黙々と皿洗いを続けた。