マッドは、ソファの上にジャケットを脱ぎ捨てた。
 そして物々しい足取りで、風呂場に向かう。その途中、ぽい、とリボンタイを払い落とすのも忘れ
ない。
 ひらひらとタイが床に落ちるのを視界の隅に捕えながら、風呂場の扉を開ける。先程湧かしたばか
りの湯が、並々と湯船の中を波打っている。その水面に向けて、マッドは勢いよくシャワーを浴びせ
かけた。
 さあさあと雨よりも細かい音のする風呂場で、マッドは小さく溜め息を吐き、先程のソファの前に
添えつけられたテーブルの上に置いてあるものを思い出す。
 上手くいけば良いような気もするし、正直あまり上手くいってほしくない気もする。
 どちらに転んでも、マッドの精神が擦り減る事に変わりはない。
 それならば。
 上手くいったほうが良いに決まっている。 




 Insalata Caprese





 妙なことが起こるようになったのは、一カ月ほど前からだった。
 賞金稼ぎマッド・ドッグは、他の賞金稼ぎと同じように、あちこちに塒を持っている。
 塒というのは、言葉以上の意味はまるでない。読んで字の如く、寝泊まりする為の場所の事である。
 基本的に根なし草である賞金稼ぎ達は、何処か特定の場所に居着くことはない。賞金首を求めて広
い荒野のあっちへこっちへと駆け回るものだからである。西へ東へと走り回り、その時にきちんと町
に辿り着ければいいが、荒野は広く、そして町と町は遠く離れている。しかし、人間どうしたって野
営は出来る限り避けたい。
 そこで、賞金稼ぎ達は西部開拓時代の流れに乗ろうとして、しかし取り残されてしまったゴースト
タウンや、今にも人が此処からやっていこうと考えていたらしい、ぽつねんと取り残された小屋を、
仮初の宿として使うのだ。
 そうした仮初の宿の中にも、何度も何度も使っていくうちに気に入ってくるものがある。それらを
塒と称する。
 塒の中には、何人もの賞金稼ぎが使用しているものもある。人が辿る道というのは、如何に道なき
荒野であっても大体似通ってくるのだから、賞金稼ぎが同じ塒を使っている事は別段不思議なことで
はない。
 ただ、他の賞金稼ぎが使用している場合は、別の賞金稼ぎはその塒には立ち入らないという不文律
がある。利害が一致する時に手を組む事は合っても、慣れ合う事の少ない賞金稼ぎにとっては、この
不文律は侵さざるものだった。
 ただし一方で、賞金稼ぎが何かを持ち込み、そのままそれ塒に放置して立ち去った場合、次にその
塒を使用する賞金稼ぎは、以前塒を使用した賞金稼ぎのものを使用しても構わない、という妙な鷹揚
さもある。
 いずれにせよ、そうした決まり事を口にはしないものの守る事で、賞金稼ぎの塒の運用は、上手く
いっていた。
 一カ月前までは。
 さて、冒頭でも述べた通り、マッドも賞金稼ぎの御多分に漏れず、塒をたくさん持っている。そし
て、その中でもお気に入りの塒というものがある。
 恐らく、此処からフロンティアを一気に開拓しようと意気込んで作られたのだろう、小さな小屋。
小さいが、風呂も添えつけられているし、台所もあるし、厩もあるという機能性重視の小屋が、マッ
ドはお気に入りだ。
 マッドが入り浸っている事を知っているのか、他の賞金稼ぎがこの小屋を使った形跡は、あまりな
い。むろん、使うことに何ら問題はないのだが、特定の誰かが入り浸っているとなると、少々使いに
くいのだろう。
 なので、マッドは悠々と快適な小屋を一人占めしていた。
 とはいえ、マッドにも仕事がある。毎日毎日この小屋で寝泊まりする事は、当然、ない。小屋を置
き去りに遠くに離れ、何日も何か月も返ってこない事もある。
 だから、その間に置き去りにしていた小屋の中の葉巻がなくなっていたって、別にマッドは気にし
なかった。
 そう。
 それくらいで、マッド・ドッグは騒いだりしない。
 放置していた葉巻がごっそりとなくなっていても、どこかのならず者が持っていったんだろうな、
くらいにしか思わない。酒瓶がなくなっていても、まあある事だな、で終わる。備蓄がなくなってい
ても、むしろなくなっていたほうが衛生的にも食料的にもいいだろう。
 しかし。
 一か月前、マッドが小屋に辿り着き、誰もいない事を確認した上で小屋の中に入った時。
 マッドはまず最初にジャケットを脱ぎ捨て、そうして風呂の湯を沸かし始めた。風呂を沸かしてい
る間に、さくさくとハムを切り、チーズを間に挟み込み、バジルとかを乗せて適当な食事にする。そ
れをテーブルの上に乗せたまま、マッドは風呂に入ったのだ。
 そして、風呂から上がり、テーブルの上を見た時、ぎょっとした。皿に乗せたハムとチーズが、半
分、ごっそり消え失せていた。
 まず真っ先に疑ったのが、鼠だった。鼠がこそこそとやって来て、人間様の食事を勝手に頂戴する
事は、古今東西脈々と受け継がれてきたことだ。手口としてもよく似ている。
 そんなわけでマッドは罠を張った。夜中にハムを放置して、鼠が現れるのを待ったのである。しか
し鼠の気配が微塵もしない。それにあちこち調べてみたが、鼠が小屋にいる形跡が全くないのだ。
 では、と次に考えたのが、考えたくもない黒光りしながらカサカサと素早く動き、そして飛ぶ、G
と呼ばれる物体である。正直、そんな物体と料理をシェアしたくない。奴とシェアした料理など、そ
のまま廃棄処分したい。
 つまり、それくらい嫌っているGを、マッドがこの小屋に立ち入ることを許すわけがない。奴らは、
以前完膚なきまで、それこそ卵の一欠けらも逃さずに殺したはずである。なので、この線も薄い。
 ならば考えられるのは人間ということだが。しかし確かに小屋に置き去りのものは使っても良いと
は言っても、明らかに誰かが使っていて、しかも料理として完結しているものを半分だけ食い漁るな
んてこと、誰がするだろうか。
 けれども、悩むマッドを嘲笑うかのように、マッドの料理がつまみ食い――全部食われているわけ
ではないのだから、つまみ食いと称するのが正しいだろう――される事に変わりはなかった。ハムも
半分、野菜も半分、バゲットも半分。ちまちまと食われているのだ。
 マッドが風呂に入っている隙に、である。
 鼠ではない。Gでもない。
 マッドは、半分だけ食われたポテトサラダの周りをぐるぐると歩きながら、この不可解な現象に業
を煮やしていた――悩む時期はとうの昔に通り過ぎていた。
 苛々としながら懐に手を伸ばし、葉巻を取り出したところで、マッドはぴたりと動きを止めた。
 そして、くん、と鼻をひくつかせる。
 そして、眉間に皺を寄せた。




 そして一か月後の今日。
 マッドはトマトを入手していた。別にトマト祭りをするわけではない。珍しい事に、モッツァレラ
チーズが手に入ったので、オリーブオイルとあえてカプレーゼにしてやるつもりだったのだ。
 ………ついでに、つまみ食いの犯人も捕まえるつもりだった。
 まず、手始めにトマトを半分に切り、それを更に半月型に切っていく。そして、同じように、もち
もちのチーズも、もっちりと薄く切っていく。その上にみじん切りした玉ねぎをパラパラとふりかけ、
オリーブオイルとバジルを混ぜ合わせたものを垂らし込んで完成である。
 これをソファの前にあるテーブルの上に放置して、マッドは部屋から出ていく。この時、ジャケッ
トをソファの上に置いておくことを忘れない。
 そのまま風呂場に向かい、風呂に向けてシャワーの水滴を落とす。
 あたかも、マッドが、風呂場にいるかのように。
 そして。




   もぞもぞと毛玉が廊下を転がっていく。青い眼を光らせながら、茶色い毛玉が廊下を這う。もぞも
ぞと。
 もっさりとした動きで扉を開き、予断なく耳をあちこちに澄ませる。鼓膜を叩くのは、風呂場から
の水音だけだ。そちらを名残惜しそうに一瞥し、しかしあくまで目的を果たす為に、もぞ、と辺りを
見回しながら扉の隙間から、部屋の中に滑り込んだ。
 部屋の中には、トマトの甘いような酸っぱいような匂いが充満している。その匂いの元を視線で辿
れば、テーブルの上に、ちんまりと皿が置いてあった。その上に納まっている赤と白の縞々。トマト
とチーズが交替に互いを挟みながら、縞々を作り上げているのだ。
 それに、もぞもぞと近寄り、ふと気が付いたようにソファの上に放置されているジャケットに眼を
止める。青い眼を細め、ふんふんと匂いを嗅ぎながら、まずはジャケットに毛玉が擦り寄る―――。
 がしっ。
 ジャケットに擦り寄った瞬間、毛玉の動きが止まる。いや、無理やり止められる。毛玉の額には、
容赦なく硬めのブーツの裏側がめり込んでいた。
 毛玉が、じわじわと青い眼を動かして、ブーツの向こう側を見た。そこには、ソファの後ろ側で
今現在風呂場でシャワーを浴びていると思われていたマッドが、仁王立ちで立っていた。
 ぐりぐりと毛玉にブーツの裏側を押し付けるマッドは、こめかみに青筋を立てている。

「やっぱりてめぇだったか……。」

 呻くようなマッドの声に毛玉、もといサンダウン・キッドは、額をブーツで蹴られているにも関わ
らず、表情一つ変えない。変えずに、至極当然の疑問であるかのように問う。

「………なぜ、気が付いた?」
「ジャケットの中にあんたのヒゲやら葉巻の残りやらが落ちてたら、誰だって気づくわボケ。」

 サンダウンへの攻撃を緩めず、マッドが答える。
 そして、マッドは当然中の当然の疑問を問う。

「で、なんでてめぇはこんな摘まみ食いそのものな事をしてやがるんだ?ああ?そろそろ自分の賞金
額を吊り上げようと盗みを働いてるってわけか?」

 ぐりぐりと毛玉を潰そうとするが、毛玉は潰れない。
 潰れずに、まるで攻撃が聞いていない態で、答えた。

「お前が、私の事をただ飯食いと言うから、だからそうならないようにだな。」
「てめぇ、こっそり他人の家の中に入って、人様の飯を摘まみ食いする事を、ただ飯食いじゃなけり
ゃ何だって言うんだ?」
「泥棒だな。」

 やけにきりっとした顔でサンダウンが言った。

「分かってんじゃねぇか!この毛玉野郎!」

 狂犬が、泥棒に向かって吠えた。