賞金稼ぎマッド・ドッグが、賞金首サンダウン・キッドを撃ち取ったのは、色づいた木々の葉が
 その死に化粧を振り落とし、長く暗い冬の眠りに落ちる目前だった。

 

 
  夜のない夜





  マッドがサンダウンを撃ち取った証として、使い古されたピースメーカーを持ってきた時、誰も
 が目と耳を疑った。
  マッドがサンダウンを長い長い間追いかけている事は、荒野でならず者として、或いはそれと紙
 一重として生きる者達ならば誰でも知っている。
  名実共に西部一の賞金稼ぎであり、賞金稼ぎの頂点に君臨するマッドは、その名に恥じぬ銃の腕
 前でありとあらゆる賞金首を撃ち取ってきた。負け知らずのマッドに獲物として標的にされる事は、
 全ての賞金首にとって、もしくはならず者にとって、確実な死を意味する。
  その死の牙から、唯一逃れていたのがサンダウン・キッドだった。
  5000ドルという賞金首としては最高の賞金を懸けられた男は、その賞金が過剰ではないと知らし
 めるほど、そしてマッドの牙から逃れる事が出来るほど、一流のガンマンだった。マッドなど歯牙
 にもかけぬ男は、延々とマッドの銃を撃ち落とし、ただ逃げ続けているという。
  殺しもしないその様は、マッドの事など眼にも留めていないと言わんばかりだ。そんな扱いを侮
 辱と思わぬほど、マッドの誇りは低くはない。以降、マッドは延々とサンダウンを追いかけ続けて
 きた。
  しかし、その様子は、マッドが決闘なんて態度を取り、それをサンダウンもわざわざ受けた上で
 逃げ出すものだから、それほどまでの必死さは見えなかった。まるで犬のじゃれあいのようだった。
 サンダウンとマッドも、それを楽しんでいる節があった。
  けれども、マッドはサンダウンを撃ち落としたという。
  自慢げではなく、ただただ淡々とそう告げて、古びた傷だらけのピースメーカーを放り出したマ
 ッドは、しかし悲しんでいるふうでもなかった。何を考えているのかさっぱり分からない。それが、
 保安官事務所に賞金を受け取りに来たマッドの表情だった。
  サンダウンを撃ち落としたマッドに、その時の光景はどんなだったのかと聞く人間は多かった。
 それはそうだ。高額の、それも孤高に誰一人として寄せつける事のなかった賞金首を打ち取ったの
 だ。武勇伝を聞かせ願いたいと思う者は大勢いる。
  一体どんなふうにサンダウンを撃ったのか。その時のサンダウンの様子はどうだったのか。
  こぞって聞きたがる皆に対して、しかしマッドは口を噤んだっきりだった。ただ、

 「俺がそいつを持ってきた。それ以外に語る事はねぇよ。」

  そう言って、マッドは主を失ったピースメーカーを指し示すばかりで、それ以上は口を閉ざした。
  もしかしたら、マッドはサンダウンを撃ち落としてなどいないのかもしれない。そんな囁きも聞
 かれたが、しかしそれならばピースメーカーはどうしたのかという説明がつけられない。盗んでき
 たのかとも言われたが、賞金首サンダウン・キッドが、銃を奪われるなどという失態を犯すはずも
 なかった。つまり、サンダウンを殺しでもしない限り、彼のピースメーカーは奪い取れない。
  つまりは、やはりマッドはサンダウンを撃ち殺したのか。
  そう噂して、一週間二週間と経つうちに、これまで時折耳に聞こえていたサンダウン・キッドの
 情報が何処からも聞こえなくなった。ぱたりと聞かれなくなったサンダウンの噂に、はやりマッド
 はサンダウンを撃ち殺したのだと、皆が納得し、頷いた。
  しかし、そうなると気になるのは、最近のマッドの動向だった。
  マッドはこれまで通り、淡々と賞金稼ぎとしての仕事をしている。その銃の腕は相変わらずで、
 負け知らずの名を更新し続けている。
  だが、此処最近、マッドの顔色は優れない。
  もともと色は白いが、それが更に白く、血の気が失せてきた。眼の下には薄っすらと隈があり、
 問えば夜眠れないのだと答える。睡眠不足の所為か昼間はぼんやりとする事が多くなり、食事の量
 も減っている。
  どこか、身体を悪くしているのだろうか、とも思うのだが、熱やら咳やらはない。
  一体どうしたのかと訝しんでいると、不意に誰かが、こう囁いた。

 『そう言えば、マッドがおかしくなったのは、マッドがサンダウンを撃ち殺してからだ。』

  と。
  マッドはサンダウンを追いかける時は、どんな時よりも生き生きしていた。けれどもサンダウン
 を撃ち取ってしまい、マッドが一番悦ぶ時間は途絶えてしまった。
  マッドは今、サンダウンを撃ち殺したその瞬間を、後悔しているのかもしれない。
  しかし、マッドはそんな事は一言も口にしない。それどころか、以前はあれほど喧しく口にして
 いたサンダウンの名前など、一度も声に出さない。まるで、その名前など最初からなかったように、
 忘れてしまったかのように。
  いや、本当に忘れてしまったのかもしれない。サンダウンがいない世界に耐えかねたマッドの精
 神は、その存在を丸ごと忘れる事で、均衡を保とうとしたのか。
  しかしそれらは何れも憶測の域を越えず、皆が手を拱くうちに、マッドの肌はいよいよ白くなっ
 ていった。
  秋の木々が死に化粧として錦を飾り、そしてそれら全てを削ぎ落して樹氷となるように。
  まるで、マッドが長い長い眠りにつこうとしているかのようだ。




  眠れない。
  マッドはぽってりとベッドに倒れたまま、そう思った。
  どれほど疲れていても、昼間倒れそうなくらい眠気を感じても、いざ夜になって眠りにつこうと
 すると、静寂も相まって色々な事を考えてしまい、眠れないのだ。今までの事、これからの事が脳
 裏に閃いては閉じてを繰り返し、昼間、あれだけ波のように押し寄せてきた睡魔は、あっと言う間
 に遠ざかる。
  特に、これからの事を考えると、神経が昂ぶって眠れない。
  これからどうしようか、とマッドは思う。
  もちろん、大体の事は計画している。きっと、上手くやっているだろうという自信もある。けれ
 ども、同時に微かな不安も感じるのだ。
  全く道筋の見えないこれから、果たして自分はどうなるのだろうか。
  間違いなく、天と地が引っ繰り返ったように、がらりと様変わりするこれからの生活の事を考え、
 マッドは身震いをした。
  きっと、自分は、自分で思っている以上に不安なのだろう。神経の昂ぶりは、不安の所為だ。考
 えても仕方のない事だと思っても、考えずにはいられない。それほどに、この先は道が見えず、不
 安だ。
  だが、もう、後には戻れない。これは、マッドが望んだ事だった。マッドが望んで、これから先
 の道は掻き消されて、全く別の顔色になってしまったのだ。だから、今更引き返せるはずがない。
  ぎゅっと、ベッドの上でシーツを握り締める。
  と、その手に背後から太い腕が伸びてきて、かさついた手が重ねられた。そして、ぎゅうと抱き
 締められる。その力強さに、マッドは一瞬、う、と息を詰めた。が、マッドを湯たんぽのように抱
 き締める男は、おかまいなしに身を寄せてくる。

 「マッド……。」

  耳元で息と同時に声が吹きかけられる。それに身を震わせるよりも早く、続いて聞こえてきた、
 むにゃむにゃという寝ぼけて言葉にならない言葉が吹き込まれ、マッドは脱力した。
  そんなマッドの脱力が伝わったのか、再度男が、むにゃむにゃと呟く。ただし、今度は少しばか
 り言葉の形を成していた。

 「……眠れないのか?」
 「あんたは寝てろよ。」

  というか、昼間あれだけ眠っていて、なんでこの男は夜も普通に眠れるのだろうか。
  半ば本気でそう不思議に思っていると、男が背後でもぞもぞと動いた。

 「お前も、寝ろ……。」
 「うるせぇな……。」
 「眠らないと、身体がもたん。」

  寝ぼけているのに、正論を吐く。
  その事実に些か機嫌を悪くして、マッドは吐き捨てた。

 「眠くねぇんだよ。」

  その声には、少しばかり我儘めいた色が浮かんでいた。その所為だろうか、先程までむにゃむに
 ゃと呟くだけだった男が、不意に我に返ったような気配を醸し出した。

 「マッド。」

  宥めるような色を孕んで、男の声が甘く耳朶を噛んだ。

 「うるせぇって言ってんだろ。大体、俺がこんなに忙しいのに、てめぇはゴロゴロしてるだけじゃ
  ねぇか。」

  先日、男のピースメーカーを保安官のもとに持って行ってから、男はまったくと言っていいほど、
 表をうろつき回らなくなった。以前から人目を避けるように生きてきたが、今はそれに輪をかけて
 いる。
  それは、これからの事を考えれば仕方のない事なのだが、その所為で、全ての仕事がマッドにか
 かるようになってしまった。以前からマッドが担当だった家事は当然の如く、荒野では一番億劫な
 買い物も全てマッドが行うのだから、マッドへの負担は増える一方だ。
  それを指摘してやれば、分かっていると言わんばかりに男は囁く。

 「………お前の体調が、心配だ。」

  今の私はお前を助ける事はできないから、と昼間ゴロゴロしている事に後ろめたさはあるのだと
 男は告げる。だから、せめて夜くらいはゆっくりと休ませてやろうと考えているのだと続けて告げ
 る。それは、暗に夜の求めを減らしているのだと言っている。
  言われてみれば、確かにそうである事に気付いた。が、だからといって顔を赤らめて羞じるのも
 癪だ。
  だからマッドは、つん、として男から眼を逸らした。

 「別に、てめぇが心配したって仕方ねぇだろうが。それに、原因だって分かっているんだ。」
 「原因?」

  思わず口を突いて出てしまった言葉を、聞き咎められてしまった。
  マッドが後悔した時にはもう遅く、原因があるのなら、と男は解決に向かう方法を探ろうとして
 いる。しかし、よもや不安なのだと言いたいわけもなく、マッドは押し黙る。しかし、意外なとこ
 ろで頑固な男は、黙り込んだマッドに強い口調で先を促した。
  言い出したら――恐ろしく寡黙な癖に――きかない男は、放っておいても鬱陶しいだけなので、
 マッドは早々に白旗を上げて白状した。

 「………不安なだけだ。」

  口にしてしまえば、赤面ものの台詞だ。いい歳した男が、何が不安か。
  けれどもマッドを掻き抱く男はそうは思わなかったようだ。少し表情を硬くして、何がだ、と真
 面目に問い掛ける。

 「……この冬を越えるのが。」

  マッドが呟くと、眼に見えて男の眉間に皺が寄った。
  その表情のあからさまな変化に、マッドは慌てた。まさかそこまで気にするとは。だから、慌て
 て付け足す。

 「別に、てめぇの所為なんかじゃねぇぞ!ただ、これまでの生活がなくなるってんで、俺がだな…
  …。」

  そんな醜態の極みな事まで発言したのに、男は項垂れるばかりだ。何処か、果てしなく自分自身
 に自信を持っていないことには気付いてたが、その引き金が今だとは。
    どうせ私は、とまで呟くおっさんは、下手をしたら、今更になって全部なかった事にしようとま
 で言いかねない。そんなの、駈落ちの相手に当日やっぱり家族は見捨てられないと言われるような
 ものではないか。

   「おい、おっさん!いい歳こいていじけんな!俺は別に不安に思ってても、ちゃんとやっていける
  自信だってあんだぞ!どんな場所に行ったって、俺様はてめぇなんかよりも数百倍上手くやるぜ!」

  そう叫んでみても、男の顔色は晴れない。
  確かに自分の言葉の成果のかもしれないが、こんなに俺が言っているのに、とマッドは思う。そ
 う思えば謝るのも癪だ。かと言って、放っておくわけにもいかないから、男の鼻先や髭の生えた顎
 に口付けた。
  すると、ぎゅうっと抱き締められる。そうして、耳元で、今にも泣き出しそうな何かを孕んだ声
 で、良いのか、と囁かれた。
  自分で良いのか、と恐れるように、それでも問い掛ける男に、マッドは小さく答えた。
  どうせ、もう、戻れないだろう、と。
  マッドを手に入れる為に、長年使っていた銃を切り捨てた男に、戻る場所があるようには思えな
 い。賞金首としての立場まで失った男は、マッドまで失えば、ただの死人でしかない。
  抱き締める腕の強さは、最後の寄る辺に縋りつくようだった。
  縋りつかれたマッドは、孤高である男にそうさせてしまった以上、その手を振り払う事はできな
 い。

 「……離れないでくれ。」
 「……離れねぇよ。」

  懇願に、同じくらいの懇願を以てそう返した。
  マッドとて、口で言うほどの自信があるわけではなかった。不安のほうが勝っていた。だが、そ
 れでも自信を失わないのは、近くにこの男がいるからだった。それはただの強がりや負けず嫌いで
 あるのかもしれないけれど、それほどまで力を奮い立たせる事ができるのは、この男の傍にあるか
 らだった。
  きっと、この男が傍にいれば、夜の道であっても夜でないように歩けるだろう。太陽は傾いても、
 沈み落ちるその瞬間で留まり続け、不安でありながらも呑み込まれはしないはずだ。
  抱き締める男の背を抱き返し、マッドは男の胸に耳をひっつける。そうする事で、ようやく気分
 は落ち付き、静かなまどろみを見つけた。
  今、ありとあらゆるどの場所にいても、マッドは不安で眠る事が出来ない。唯一、マッドの為に
 死者に成り下がった男の傍だけが、マッドの絶対的な安心圏だった。




  冬を越え、氷が割れ始める頃、雪が解けるように賞金稼ぎマッド・ドッグの姿は消え去った。
  何もかもをそのままに残し、何もかもを置き去りにして消え去った彼の安否を案じても、その行
 方はようとして知れず、消える前の肌の色の白さが皆の不安を物語る。
  もしや、彼は何処かで長い眠りについてしまったのではないか、と。
  彼が撃ち取った賞金首が、もしかしたら、彼のその頭上に偉大な死の茨の冠を手にして現れたの
 ではないか。
  現れた死人の姿を見て、マッドは恐れ慄いただろうか。
  いや。
  きっと、喜び勇んだに違いない。銃を手にして、悦んでその後を追いかけてしまったのではない
 だろうか。
  その時、その白い頬は紅潮し、いつものように生き生きとしていたに違いなかった。
  けれども、その姿をもはや誰も見る事は出来なかった。
  冬が終わり、花が咲き誇っても、誰も、マッドの姿は何処にも見つける事は出来なかった。




  そして、春のある日。
  遠い地へ向かう船に、壮年の男とまだ若い男という一組の組み合わせが乗り込んだ。