マッド・ドッグは、こんな話を聞いたことがある。
 まだ、マッドが幼い頃。外の世界が何かも、銃も女も血の匂いも知らない子供の頃の話だ。
 イギリスのあちこちで、こんな伝承が――そして噂話が漂っていた。マッドがどうしてイギリスの
話を知っているのかについては、本題ではないのでどうだって良い。とにかく、マッドはイギリスの
噂話を聞いたことがあるのだ。
 話は十三世紀まで遡る。
 それが、事の発端であったのかどうかは分からないが、マッドが知る限りではそれが一番古い噂話
だった。
 十三世紀の首都イギリス。場所は、ニューゲート監獄跡地という、なんともおどろおどろしい所が、
噂の発信源だった。
 監獄跡地というくらいだから、当然、その土地には数多くの囚人が囚われていた。監獄から出る事
叶わず、そこで潰えた者もいた事だろう。
 イギリスというのは妙なお国柄で、そういった場所には必ず幽霊が出るという噂話が立ち込め、イ
ギリス人の大半が幽霊というものに、やたらとステータスを感じる気質だった。なので、監獄跡地な
どは、格好の幽霊発祥スポットであるわけだ。
 ただ、そこに現れる幽霊は奇妙なものだった。
 普通に考えれば、現れる幽霊というのは獄死した囚人のものだろう。いや、そこに間違いはない。
出るのは囚人の幽霊だ。
 ただ姿形が、そう、ではないのだ。
 どういうわけか知らないが、獄死した囚人の魂が変じて、黒い犬となって口から血を滴らせながら
徘徊するというのだ。
 黒い犬というのは、黒い猫と同じく、不吉なものとされていた。そしてこの黒い犬は、ニューゲー
ト監獄跡地だけではなく、ケンブリッジやバッキンガムシャーでも、度々、目撃されるようになった。
 といっても、黒い犬が現れて、だからどう、というわけではない。
 これはあくまで伝承であり、幽霊好きのイギリス人が生み出した新しい幽霊の形である可能性が高
い。
 この犬を見て、何をどう不吉だという話になったのか。
 むろん、監獄跡地発祥である事を踏まえれば、それだけで十分に不吉だと思われるかもしれないが、
おそらく確固たる不吉の起源は、マン島のピール城に現れる黒い犬の伝承だろう。ピール城の薄暗い
通路に、夕暮れと共に現れるこの犬は、出会った番兵一人の命を奪っている。
 尤も、犬自らが手を下したのではなく、おそらく下手に犬に手を出したのであろう番兵が、三日後
に醜く四肢を歪めて死んでしまった、というものだ。
 つまり、下手に手を出さなければ、この黒い犬は襲い掛かりはしないのだ。
 あんたの見た犬とは、少しばかり勝手が違う。
 マッドは、男にそう言った。
 そして、けれども、と続けた。
 次代は少し下って、十四世紀になると話は違ってくるのだ。
 十四世紀イギリス――イングランド地方のデボン州にて、殺人事件があった。誰が殺されたのか、
までは詳しくは伝えられてはいない。ただ、人が殺されたのだ。
 それだけならば、困った事に良くある話だ。十四世紀のイギリスの治安までマッドは知らないが、
まあ、さほど良くはなかっただろうから、殺人事件もあった事だろう。
 その後、十六世紀のサフォーク州のブライスバーグ教会でも殺人事件が起こっている。こちらは二
人が殺されたと、幾分か詳しく話は残っている。

 ………犬か?

 男の低い声に、マッドは眼を細めた。そして、お察しの通り、と頷く。
 最後に話した二件の殺人は、犬によるものらしい。黒い、巨大な犬が人に襲い掛かり、噛み殺して
いったのだ。
 イギリスでは、こういう黒い犬による事件――伝承かもしれないが――が多い。これらの犬は黒妖
犬や、ヘルハウンドなどと呼ばれ、死の予兆であると言われている。

 ………その犬が、先程話した事件の、犯人だ、と?

 男の問いかけに、マッドは首を傾げた。
 それはどうだろうか、と。
 いや、もしかしたらその犬の眷属であるのかもしれないが、まるきり同じであるとはマッドには思
えない。 
 そもそも、イギリスの伝承にある犬でさえ、根本が何であるのかよく分からない。
 いや、根本は、紛れもなく恐怖や畏怖や、そしてそれでもそこから眼を逸らせない人間の好奇から
生み出されたものだろう。
 例えば監獄跡から漂う死と怨嗟に、或いは古城の古びた通路に見出せる異世界の空気に、片田舎の
閉鎖的で窮屈な習慣に、一つ人間の好奇の眼差しが混ぜ合わされ、それが偶々、犬の形をしていただ
け。
 黒々と人の思惑を呑み込んで、時には徘徊して人に恐怖を植えつけ、時に不用意に手出しをした者
に狂気を与え、時には鋭い殺意として人に襲い掛かる。
 きっと、あれは、そういうものだ。
 だから、見える人間にしか見えないし、見えない人間には見えないだろう。恐怖と畏怖と怨嗟の中
に好奇の眼差しを注がなければ、見えないのだ。
 あんただって、見たことはないだろう?
 マッドは問いかける。

 ……………。

 答えは沈黙だった。
 男も、結局は犬の姿を見たことはないのだ。話に聞くばかりで、その姿はその眼には映らなかった
はずだ。痕跡がないのは当然で、あの黒い犬はあらゆる感情が混ざり合わされ、それがある適切な量
に達した人間にしか見えないのだから。

 ……………お前、は。

 低い声。
 唸るような声の奥で、青い眼がぎらりと瞬いた。
 獣の、匂いがする。

 お前は、見たことがあるのか。
 その、犬を。
 
 マッド自身ではない。マッドは人間で、そして恐怖と畏怖と怨嗟の中に、好奇を混じらせるような
人間ではない。
 だから、黒い犬の姿など、見たこともない。
 だから、マッドはゆっくりと首を横に振った。
 犬は、見たことがない。
 しかし、と青い眼がぎらつく方向を見る。深い闇が広がる中に、男の影があるはずなのだが、それ
は闇に呑まれて輪郭が見えない。あるのは、ただただ闇の中でも光る青い眼と、獣の匂い。その輪郭
を、なんの形かと問われれば、マッドには答えられない。
 マッドはただ、葉巻を燻らせながら、闇の中に蹲って蠢く影を見つめる。影の中で青い眼が、マッ
ドを見つめ返している。
 犬は、見たことがない。
 マッドは繰り返した。犬の姿は見たことがない。マッドが見ているのは、輪郭の分からぬ、獣の影
ばかりだ。
 気負いを見せずに葉巻を咥え、マッドは青い眼の獣の向こう側を見つめる。その向こう側に置き去
りにされた過去を見出す事は困難だが、語られた話の中から、いくつかの推測をする事はできる。
 ならず者を食い千切った黒い犬。
 痕跡のない黒い犬の姿。
 男はその姿を見たことがないという。
 それはそうだろう、とマッドは思う。
 如何なる人間でも、化け物でも、神であっても。自分の姿を自分で見ることはできないのだから、
と。
 傍らで、青い眼をした、獣の声がする。