一人の技術者が、過去の宇宙船で起こった事件について取りまとめた。その中には、カトゥーが深
く関わった――というか、当事者であり被害者の一人である――コルト・エルゴ・スム号のマザーコ
ンピュータが暴走し、死傷者を出した事件も含まれていた。
 事件を纏めた技術者と、カトゥーが出会ったのは実に偶然だった。




 Black Box
 或いは、コルト・エルゴ・スム号のマザーコンピュータに対する知見



 
 
   カトゥーはそういった事件を取り纏めている人々がいる事は知っていたが、取り立て彼らと関わろ
うとは――取り纏めの目的が、野次馬根性ではなく純粋なデータ採取であったとしても――思わなか
った。
 また、こうしたデータを纏めるにあたっては普通当事者と接触しようとするのが常なのだが、何故
かコルト・エルゴ・スムを含む、その年の宇宙線の事故をデータ化したその技術者は、カトゥーに接
触しようとは、しなかった。
 過去の事故データを知る事は、重要な事だ。だから、カトゥーもまさか己がそのデータの一角を担
う事になろうとは思いもしなかったが、しかしそれ以外の事故については興味を持っていたので、ネ
ット上で、登録者のみが読者になれるそのデータバンクには、以前からIDを持って情報を得ていた。
 今回、自分達の関わったコルト・エルゴ・スム号について取り纏めた技術者は、カトゥーはおろか、
どうやら他の当事者達にも、特に連絡を取っているようではないと知ったのはいつだったか。そんな
事で事件のデータ化など出来るのか、と憤りにも似た思いを抱いた。だが一方で、当事者としてイン
タビューでもされたなら、それはそれでやはり、こちらの気持ちを踏み躙って、と憤るだろうから、
カトゥーとしては、自分が無視されたデータがネットに掲載されている事が良い事なのかどうなのか、
判断できない。
 いずれにせよ、カトゥーは己が関わった事件データを読む気はなく、別の事件について情報収取を
しようと考えていたのだ。
 カトゥーも技術者だ。宇宙船の事故データは、あればあるだけ良い。そうやって、データを集めて
万全の準備をしていても、事故は思いもよらぬ場所から降ってくる。
 コルト・エルゴ・スムがそうであったように。
 あの事件について、何らかの事故データが取れるとは、カトゥーは思わない。何せ、事件の内容が
内容だ。凄惨ではあったが、しかし理論的に説明がつくとも思えない。
 コンピュータが人間に不信を持って、暴走したなど。
 まして当事者の言葉を踏まえていないなら、当時の様相など分かりはしまい。そう思いつつ、他の
事故データを読んでいた。
 だが、読んでいるうちに、この技術者の書いた、己の関わる事故データを読んでも良いか、と思い
始めたのだ。
 データは客観性が求められる。この技術者のそれは、客観的そのものだった。当事者の感情などを
一切に削ぎ落とした、事件その時の状況が淡々と述べられていた。当事者の言葉は箇条書きで、声の
トーンなどについても『早口』『ゆっくり』『大きい』とかその程度の言葉が添えられている。
 宇宙を漂う星から見た、宇宙船の中などは、そんなものでしかないのかもしれない。
 では、星屑から見たコギト・エルゴ・スムはどのようであったのか。




 私のところにわざわざ逢いに来るとは思わなかった。
 カトゥーとさほど歳の変わらない技術者は、己に与えられた仕事場の一画でコーヒーを入れながら
言った。
 雑然とした部屋の中に、汚れていて申し訳ない、と言う彼に、カトゥーは首を横に振った。

「僕の仕事場も、こんなもんです。」

 カトゥーの言葉に、ほう、と片眉を上げた技術者は、コーヒーを入れたマグカップのうちの一つを
カトゥーに差し出した。
 しかし、何故カトゥーが逢いに来るとは思わなかったのか。
 いや、普通は事故データを纏めた技術者に、当事者がねじ込んでくる事など、文句の一つや二つを
言いに来るぐらいしかないからだ。ましてカトゥーはあの事件については、出来る限り口を閉ざして
きた。勿論、捜査には協力したが、マスコミからは徹底して逃げたものだ。

「コルト・エルゴ・スム号についての事故データについて、読みました。」

 それは、正に星の眼から見た宇宙線の中の様子だった。
 一人、一人とコンピュータが人間を殺していくさまは、まるでデータが一つ消去されただけと言わ
んばかりの、徹底して感情が排除された文面だった。また、自分もダースも口にしたであろう、マザー
コンピュータの人間不信の言葉は、多少は覚悟してはいたが、一言、コンピュータの不良で片付けら
れていた。
 それは、今に始まった事ではないし、確かにコルト・エルゴ・スム内で起きた殺人も、実際のとこ
ろ捜査では機械不良による事故と結論付けられたし、そもそもがそうなのだから、仕方ない。
 ただ、カトゥーが眼に止めたのは、一番最後の一文。ただ唯一、当事者の言葉に言及された言葉だ。
 
 宇宙船のマザーコンピュータのような人工知能が人間に不信を抱くなど、まず有り得ないであろう。

 星の眼で事件を見下ろし、一切の感情を排した文面の中、唯一微かな揺らぎのある文章だった。
 だろう、かもしれない、は、情動からくる言葉だ。この技術者の文面は『May』を許さない。にも
拘わらず、コギト・エルゴ・スム号については、わざわざその言葉を使った。
 それは、何故か。
 そしてマザーCOMが、人間に不信を抱かないと思った理由は。
 薫り高いコーヒーを味わいながら問うたカトゥーに、技術者は眼を細める。エキゾチックな顔立ち
をした技術者は、緩やかに、しかしカトゥーに問い返した。
 貴方は、機械が感情を抱くと思っているのか、と。
 それは機械の――いや、人工知能の本質への問いかけだった。人類有史以来、人間が人工知能、或
いはロボット、ゴーレム、人形に感情が宿らぬと思った事があっただろうか。人工知能という言葉が
現れてから、我々は常に、そこに感情というパルスを宿そうとしているではないか。
 そうではない、と首が横に振られた。
 そして次に問われたのは、本の事だった。それもまた、コギト・エルゴ・スムと同じく、機械に乗
っ取られた宇宙船を題材にした本のことだった。むろん、カトゥーも知っている。有名なSFだ。映画
にもなった。
 すると、エキゾチックな顔が微かに笑う。
 あのような、箱に入った人工知能が感情を抱けると思うのか、と。
 進化論には幾つもの欠けた輪がある。人間とサルの間に横たわる、どうしようもない技術と知識の
差が、良い例だ。人工知能と感情の間も然り。
 さて、人間とサルの間の差を埋める輪の一つとして、直立二足歩行が挙げられる。人類と人類の祖
先ではない類人猿の差は、直立二足歩行できるか否かで決まるほどだ。サルは直立二足歩行できない。
故にサルはサルのままなのだ。
 人工知能も同じだ。
 彼は言う。
 人間のように振る舞う事の出来ない人工知能が、唐突に人間不信になるわけがない。まして、宇宙
船のマザーCOMは、人間のように振る舞う身体を持っていない。箱庭の中で呟く瞬きでしかない。箱
に閉じ込められていた人間が、箱から出された後人間らしい振る舞いが中々出来ないように、箱の中
から出る事も出来ないコンピュータが、人間のような感情を抱けるわけがない。
 マザーCOMの暴走の原因は、人間不信などではなく、もっと別の場所にある。
 それが何なのかは、調べるに値する。
 まるで、あの日の惨劇を否定するかの言葉に、カトゥーの手が僅かに震えた。エキゾチックな顔立
ちのこの技術者には、もしかしたらロボットが感情を抱くという事が理解できないのかもしれない。
或いは、ロボットというのは総じて最終的には人を傷つけるのだ、と考えているのか。欧米に籍を持
つ人々は、往々にしてそういう考えに行きつく。カトゥーのような東洋人は、ロボットは心優しき科
学の子であり、人類の友だと考えるのに。
 無言のカトゥーに、君は、とコーヒーの香りに混じって、柔らかく聞こえる声が届いた。
 ロボットを一機作っていただろう。
 まだ、苦いコーヒーを入れる事しかできない、未完の作業用ロボットだ。カトゥーの後をついて回
り、コロコロと回転する。

「人間不信に陥るロボットというのは、ああいうロボットのほうが先だ。」

 人間のように行動できる、人間同様のインプットが出来るロボットのほうが。コーヒーの味が、徐
々に改善されていくロボットのほうが。
 マザーCOMのように、最初から全てが入っている機械には、そんな余地はない。
 しかし、それなら。

「何故、マザーは暴走したんですか。」

 あたかも、人間不信であるかのように見せて。
 それとも、あれは。
 何処か遠い場所で、人間同様のインプットをしていったロボットが、マザーの声を借りて、叫んだ
のか。
 夥しい血の中で。
 人間など理解できない、と。