ふに、と柔らかいものが唇に当たる。
  顔の前に広がっているのは黒い髪と黒い眼で、サンダウンはその光景に眼を瞠る。その様子に、
 まるで勝ち誇ったかのような笑みが口の端に浮かんだのを見て、サンダウンは溜め息を吐いた。
  一番最初に、掻き抱いたのは自分だ。その時に、彼が酷く驚いて抵抗した事は、サンダウンも覚
 えている。
  そして最初に口付けたのも自分からだ。女にでもしておけよ、と何度も口にするマッドに、それ
 は出来ないと思い、けれどもその理由を口にする事が出来ず、ただ抱き締めて掠めるように口付け
 た。その瞬間に、彼が、その黒い眼を今の自分と同じように大きく見開いた事も、覚えている。
  ただ、彼がとても負けず嫌いな人間である事を失念していた。サンダウンに翻弄されて、それで
 良しとする人間ではない。
  そして、もう一つ、心に留め置かなくてはならない事があった。それは、彼には、サンダウンし
 かいないわけではないという事だ。




  Love Bite 3





  マッドは酒瓶を傾けて、こくこくと酒を飲みほしていた。荒野の夜は寒いが、けれども背中にぴ
 ったりと男が張りついているので、マッド自身はあまり寒さを感じない。
  ぺたんと地べたに腰を下ろしたマッドは、男の長い脚に挟まれるようにして抱え込まれ、背後か
 らは腰を拘束するように腕が伸びて、かさついた手が腹の上で組まれている。背後からマッドを抱
 き締めるサンダウンは、時折掠める程度の口付けを耳朶に落としていく。
  賞金首と賞金稼ぎが、それ以前に男同士でそんな事をしている時点で、非常に奇妙不可解な事な
 のだが、慣れとは恐ろしいもので、当初の暴れっぷりは何処へやら、今やマッドは夜露から自分の
 身体を守れるのを良い事に、サンダウンのポンチョに包まれる事を良しとしていた。
  確かにサンダウンは、マッドの頬や額に口付けを撫でるように落としていくが、それ以外はただ
 抱きつくだけで、特に何をするわけではない。
  寧ろ、図体のでかい身体に抱え込まれている事は、荒野の容赦ない風を凌ぐ事に適しており、触
 れるだけの口付けは大型犬に甘えられているのだと思えば、我慢できない事もない。
  そもそも、マッドは環境に適応する事が、得意でもあった。
  南北戦争からゴールド・ラッシュの波が過ぎ去るまでを、若いとはいえ潜り抜けてきた彼は、そ
 の場その場の環境に適する事の重要性を、知らず知らずのうちに知っていたのかもしれない。それ
 に、人間が馬になろうが、自分の愛馬が人間を経験していようが、拘らない人間である。根本的に
 能天気なのかもしれない。
  そんなわけで、長年追いかけている賞金首が抱き付いて口付けてきても、なんだかんだの内に、
 あっさりと慣れてしまった。正に、環境適応型人間の極致である。
  だから、今現在サンダウンの脚の間に挟まれるように座っていても、もはや特に何も思わず、く
 いくいと酒を飲みほしている。サンダウンがいるから、襲撃に気を配る必要もない。サンダウンの
 胸に背中を凭れさせて、だらけきった様子でマッドは星を眺めていた。
  しかし、やられっぱなしでは気が済まないのもマッドの性分だ。
  賞金首の腕の中でだらけきってはいても、マッドは名うての賞金稼ぎである。貞操の危機がない
 とは言え、賞金首にずっとやられっぱなしではマッド・ドッグの名が泣く。だから、さっきから酒
 瓶を傾けながらも、絶賛サンダウンを跳ね返す方法を考え中であった。
  そして、首を傾げて考えているマッドの項には、サンダウンが顔を埋めている。

 「おい………。」

  寒い、と言いつつ抱きついてきた男の、それにしてももう少し他にやりようがあるだろうという
 行為に、マッドは少し低い声を出す。少しでも身じろぎすれば、サンダウンの髭が首にあたり、く
 すぐったい。

 「ちょっとは離れろよ、てめぇは。」

  相変わらず、鳥もちのようにべったりとはりつく男は、マッドの声にだんまりを決め込むつもり
 のようだ。もしかしたら、いつもよりも拘束は弱い、くらいの事を思っているのかもしれない。確
 かに、腹の上で手を組んでいるそれは、しがみつくような強いものではないけれど。
  だが、代わりに口付けを頬や額に落としているのだから、帳消しだ。それに拘束を弱めたところ
 で。ならばマッドが離れて行く事を許すのかと言えばそうではない。その瞬間に自動的に拘束力が
 強まり、マッドはサンダウンの胸の上に倒れ込むだけだ。
  よくよく考えれば、帳消しにも何もなっていない。ただ、口付けが上乗せされただけの事だ。
  けれども、それを許しているのは、紛れもなくマッド自身なわけで。
  慣れた、という言葉の隙間から、これはおかしいと呟く声がじんわりと滲み出る。
  すると、まさかそんなマッドの心境の転調に気付いたわけではないだろうが、不意にサンダウン
 のマッドを硬く拘束していた手が、別の動きを見せた。
  完全に無防備なマッドの腹の上で組まれていたかさついた手は、その硬い拘束を緩やかに解くと、
 マッドの腰に添えられた。
  腹の上にあった小さな重みが消えた事に、マッドが不審に思う暇もなく、その手はゆっくりとマ
 ッドの身体を、上へ上へと張っていく。一本は腰から脇へと、もう一本はもう一度腹へと戻ると胸
 へと登っていく。
  その手の動きに少しだけ身体がぞくりと震え、マッドは慌ててその手を掴んで止めようとする。
 すると、耳朶を食んでいたサンダウンの唇が、項へと照準を変えた。突然敏感な部分に触れられて、
 今度こそマッドの身体は跳ねた。

 「馬鹿、何すんだ!」

  緩んだ拘束の中で身を捩って睨み上げれば、ひんやりとした光を放っている青い双眸にぶつかる。
 その眼にマッドが口を閉ざしたのは、そういう眼をしている時のサンダウンは何か酷い焦燥に捕ら
 われている時だと、いつだったか気が付いたからだ。
  何処までも飄々としているはずの男が微かに見せる焦りは、堕ちてきた流れ星のように何の価値
 もないが稀有だ。そしてその稀有な光を受け止めたマッドは、それに何かを見つける事が出来る唯
 一の人間だ。
  長い付き合いは、僅かと雖も情と馴れを生み出す。そこから、マッドかサンダウンの無表情から
 何かを読み取る事を学んだとしても、それはなんらおかしい事ではない。

 「………何がしてぇんだよ、てめぇは。」

  確かめるように身体の線をなぞる男に、マッドは小さく問う。その言葉になんらかの回答が得ら
 れるなど期待していない。代わりに与えられるのは、北風のような吐息ばかりだ。
  そんな冷たい溜め息を零して、光の差さない深海の如き視線で、しかし焦がれるようにサンダウ
 ンはマッドを見下ろしている。身体をなぞる指先も、そうする事で何かを得ようとしているような
 必死さがある。
  本来ならば、すぐにでもそこから逃げ出すべきだったのかもしれない。だが、マッドはそれをし
 なかった。理由は至極簡単だ。負けず嫌いの――特にサンダウンに対しては子供の如く――マッド
  が、サンダウンからの眼差しに屈して逃げ出すなど、あってはならないからだ。
  ぐっと息を飲んで、マッドはサンダウンの焦熱の籠った視線を睨み上げる。すると、マッドの身
 体を確かめるように這っていた腕が大きく動いて、マッドを引き寄せる。先程までの緩やかな拘束
 が、一転してきついものに変わる瞬間。
  そのままサンダウンの胸に倒れ込むところを、サンダウンの胸に腕を突く事で阻止し、マッドは
 いきなり激しい抱擁を求めてきた男に鋭い視線を向けた。それには、いつも不意打ちを仕掛けてく
 る事への文句も込めている。
  が、マッドがどれだけ睨みつけてもサンダウンは何処吹く風だ。相変わらずの、じりじりと内側
 から焦げ付いている氷のような眼でマッドを見ている。その眼を叩き壊したなら、焦がれの意味が
 分かるだろうか。
  常に無表情の男が、こうして片鱗を覗かせているその感情は、氷山のように潜ればもっと巨大な
 形をしているのだろうか。
  そんな事を思っていると、サンダウンの顔が降りてきて、マッドの唇に軽く口付けた。
  マッドの顔に掠める程度の口付けを落としていく男は、本当に時々、触れるか触れないか分から
 ない程度の口付けを唇に落とす。
  吐く息の感触と混ざってしまって、本当に触れたのかと疑うようなそれは、しかし唐突に訪れる
 為、マッドに驚愕を齎すには十分だ。
  そしてそれらは、マッドにとっては面白くない。
  焦がれるような眼をするサンダウンの感情が読めない事も、言いたい事を口にしないサンダウン
 も、それに良いように翻弄されている自分自身も、気に入らない。
  ぷくっと頬を膨らませると、マッドは今にも何かを言いそうで一言も声を漏らさない男を睨む。
 そして、男の胸に突いていた手を放すと、片手をその首に回して全体重を掛けてサンダウンの顔を
 引き下ろす。
  マッドの行動に微かに怪訝な色を浮かべたその顔に、マッドは軽く口付けた。軽い、と言っても、
 きっちりと触れている事が分かるような口付けを。
  瞬間、眼の前にあった青い双眸が見開かれた。その光景に、マッドの溜飲が恐ろしい勢いで引き
 下がる。ようやく、これまで自分に抱きついてきたりして――もう馴れたとはいえ――こちらを翻
 弄してきた男に、一矢報いる事ができたのだ。
  唇を離すと、マッドは会心の笑みを口元に浮かべ、サンダウンを見る。すると、サンダウンは複
 雑な表情を浮かべて、溜め息を吐いた。どうやら、マッドの思惑を理解したらしい。憮然としたサ
 ンダウンをマッドは鼻先で笑い、サンダウンの首に回していた腕を解く。
  転瞬、視界が翻った。
  どさり、という音を立てた背中と、視界に広がる大きな夜空。そこにぬっと黒い影が生えて、マ
 ッドは押し倒されたのだと理解した。
  乱暴に地面に投げ出されて、何をするんだと怒鳴ろうとすると、それよりも早く闇を纏ったサン
  ダウンが圧し掛かってきた。落ちかかる影はマッドの身体をあっと言う間に雁字搦めにするや、先
 程触れ合ったばかりの唇に触れてきた。
  ただし、あの、触れるか触れないかの怯えたような口付けではない。重力に従って押し当てるそ
 れは、マッドの唇を割り開くと舌まで捻じ込んできた。咄嗟の事に対応できないマッドの歯列を潜
 り抜け、上顎を擦る。

 「んっ!ふ、うんっ!」

  ぞくりとする感触が鼻にまで突きぬけ、マッドは身を捩ってくぐもった声を漏らす。だが、拘束
 はいつもよりも激しい。抵抗する両腕は一纏めにされて、腰を噛む指先は甘い。

 「ん、ふっ……!んうっ!」

  舌を引き摺り出されて、息をする暇もないほど徹底的に責められて、マッドは息苦しさで意識が
 ぼやけてくる。責められている舌も、慄き始めている。
  それに気付いたのか、ようやくサンダウンはマッドを解放した。二人の間で引いている糸を舐め
 とり、呆然として荒い息を吐くだけのマッドを見下ろすと、男は小さく舌打ちした。だが、再び激
 しい抱擁をする事はなく、代わりにいつものようにマッドを抱きこむと、今度は触れる程度の口付
 けを落とす。

 「な、に、考えてやがるんだ、てめぇは!」

  ようやくマッドが声を絞り出した時には、サンダウンは既にマッドを拘束しており、マッドは逃
 げる事ができない。
  サンダウンの腕が身体に絡んで、顔は胸へと導かれる。胸に顔を埋める直前、サンダウンの横顔
 に、硬い色が見えたような気がしたが、それをはっきりと確かめる前に視界は閉ざされる。
  代わりに、酷く苦いものを孕んだ声が、耳朶を打った。

 「お前が…………、お前の、所為だ。…………。」