サンダウンの懸念は、根拠が薄弱だ。
  そもそもサンダウンが思いついた事は、ほとんどが妄想に類するものであって、推理ではない。
 推理するだけの状況も情報も、サンダウンの手元にはないのだ。
  サンダウンの手の内にあるカードといえば、黒髪と黒い眼をした偏平顔の白痴である少女と、少
 女が紡ぐ、結びつける事の出来ない点ばかりの言葉達だけだった。
  日の光に曝されて魔法を解かれた少女は、どう考えても美しくもない平凡な顔立ちで、サンダウ
 ンが何処かで見た事があると思う以外に大した情報を齎さないし、少女の紡ぐ言葉もコロラドとそ
 こに住まう兄、そして刺繍の事だけで、それ以上の事になれば口を噤んでしまう。
  はっきりと言ってしまえば、それだけの事象しか起きていない。
  けれども、サンダウンには起こらぬ事象ほど、恐ろしいものはなかった。まして、それが普段か
 ら齎されている物事であり、それが唐突に立ち消えてしまったとなれば。
  賞金稼ぎマッド・ドッグ。
  彼の姿を、ここ最近、見ていない。




 廉貞





  むろん、目の前にいる黒髪の少女と、マッド・ドッグの不在を結びつけて考えるのは、到底無理
 な話であった。マッドがサンダウンの前に姿を現さなくなった時期と、この少女に会った時期とで
 は、期間が開きすぎている。
  しかし、それはもはや直感としか言いようのない事実だった。
  保安官として町を守ってきた時から培ってきた他者の命の震えを察する能力と、荒野を駆ける事
 で否が応にも長ずる危険を察知する能力と、そしてもともとサンダウンの中にいた貪欲に口を開い
 て獲物を待ち構えてその獲物を横取りされまいとする嗅覚と、それらが如何なく発揮されて、マッ
 ドの身に起きたであろう物事と、少女がサンダウンの前に現れた事実が決して無関係ではないと喚
 いている。
  恐らく、とサンダウンは少女の細い白い首を見ながら、思う。
  サンダウンのかさついた大きな手なら片手で締め上げられるであろう少女の首を、今すぐにでも
 ぽっきりと追ってしまうべきなのかもしれない、と。
  しかし、それをしたところで何の効果も得られないという事も分かっている。
  目の前の、憐れにも先天的にか後天的にかは分からないが、知恵の遅い少女は、きっとサンダウ
 ンが首を締め上げようと、どれだけ脅そうと、或いは徹底的に痛めつけようと、何も語らないだろ
 う。語るだけの力を持っていないだろう。
  サンダウンが首を締め上げても、何も知らないという、自分は完全に如何なる罪も知らないのだ
 という偽善に満ちた眼をするばずなのだ。
    無垢である事と、罪を犯さない事は同義ではない。
  それは、時として、無垢ではない者にとっては腸が煮えくり返るほど憎々しい事でさえあるのだ。
  己が罪を犯した事が理解できないという人間に、罪を与える事はあまりにも滑稽だからだ。
  むろん、この少女が罪を犯したという証拠は何処にもない。サンダウンの言い分はあまりにも、
 非人道的だろうし、鼻先で嗤われてしまうようなものだろう。
  しかし、サンダウンにとってはそれらはどうでも良い事だった。
  はっきりと言ってしまえば、保安官でもないサンダウンに、通常の罪の有り無しを説いても、意
 味はない。いや、それ以上に、腹の中に爆弾よりもおぞましい魔王を抱えたサンダウンが、しかも
 その魔王が芽吹きつつある状況では、少女の罪の根拠など、目の前を歩く蟻の命ほども意味のない
 ものだった。
  少女の固い匂いの中に、マッドの残り香と思しき匂いを嗅ぎ取った。
  魔王にとっては、それだけで十分だった。
  ただし、一方でサンダウンは少女を殺したところでマッドの行方が分かるわけではないとも理解
 している。
  それが、サンダウンを凶行に走らせない唯一の足枷であった。
  もしも少女を殺す事で、全ての事実が明るみになるというのなら、サンダウンはすぐさまそうし
 ただろう。サンダウンには戸惑う必要もないからだ。少女の容姿も、既にマッドの幻影よりも、お
 そらく不愉快であろう知り合いの面影が色濃くなりつつある。
  相変わらず、しきりに粗末な服の裾から見える刺繍を揺らめくように振っている少女は、サンダ
 ウンの思惑など解していないようだった。
  それについて、サンダウンは残念になど思いもしなかった。
  サンダウンはすでに少女から何かを聞き出すのではなく、少女を利用する事へと心を傾けていた
 からだ。
  少女の裏にいるのが、少女を荒野に野放しにした人物か、それともコロラドで待ち受けている兄
 か、それともそれら二つは同一人物であるのかは分からないが、しかしとりあえずコロラドにいる
 兄とやらを捕まえれば、何らかの進展はありそうだった。 
  だが、少女に言われるがままにコロラドに行けば、それは相手の思う壺だろう。
  だから、何らかの形で相手の裏をかく必要があった。
  勿論、これらはサンダウンの勝手な思い込みであり、賞金稼ぎマッド・ドッグは普通に何処かで
 平気な顔で狩りをしており、少女は善良なる市民であるかもしれなかった。
  けれどもサンダウンが何らかの対処法をしたとしても、少女や少女の兄が善良であったなら、何
 ら問題はない。サンダウンにも、善良な市民をどうこうする趣味はなかった。そこだけは、サンダ
 ウンの中にかつてあった保安官としての本分が守られていた。
  だが、サンダウンが嗅ぎ取った懸念が事実であるならば、誰であろうと、例え少女が何もわから
 ぬ白痴であろうとも、サンダウンは許すつもりはない。
  しかし、サンダウンのその考えは、どうやらサンダウンよりも狡猾であったらしい何者かによっ
 て覆される事となった。
  辺りは日の光を浴びて白々しい。
  その白々しい中で、偏平な顔立ちの少女が、譫言を繰り返している。
  それらを鋭く切り裂くような、黒い風がけたたましい馬蹄の音と共に駆け寄ってきた。その気配
 と音を、サンダウンが間違えるはずもない。
  はっとして顔を上げてそちらを見やれば、視線の向かう先には想像した通りの姿があった。
  日の光だろうと、月の光だろうと、如何なる光の下でも突き破ってみせる黒い炎。
  そして、サンダウンが先程まで、その安否を気遣い、不安に思い、魔王が腹の底で爆ぜようと哄
 笑していた。
  賞金稼ぎマッド・ドッグの姿だ。
  眩しいものでも見るかのように眼を細めたサンダウンに、同じく黒い馬の上から黒い視線を向け
 たマッドは、いつもと変わらぬ風情をしている。しかし、一方で何処か胡乱な気配を放っていた。
  軽い舌打ちをしたマッドは、馬上で器用に葉巻を取り出すと、鮮やかな手つきでナイフで切り口
 をつけると火で炙り、口に咥える。
  出会うなり、開口するマッドにしては、非常に珍しい態度だった。
  サンダウンがその行動に、妙な狼狽えを感じていると、マッドはサンダウンを睥睨して呟いた。

 「まさか、本当だとは思わなかったぜ。」

    唐突な言葉はいつもの通りだった。その内容をすぐに理解できないのも、いつもの通りだ。ただ、
 マッドの声に奇妙な響きがある。

 「あんた、俺が何しにきたのか、分かってるか?」

  マッドがサンダウンの前にやってくる理由など一つしかない。その牙を以て、サンダウンの喉笛
 を食い千切りにやってくる為だ。
  しかし、マッドは首を横に振っている。

 「俺は、仕事をしに来たんだよ。」

  むろん、賞金首サンダウン・キッドを捕える事も、賞金稼ぎであるマッドにしてみれば仕事であ
 った。だが、マッドの声は何処か浮かない。

 「俺に仕事を依頼したのは、一人の男だ。」

  マッドの台詞に、サンダウンは眉を顰めた。
  サンダウンを撃ち取る事に、マッドは一切の依頼を必要としない。それはサンダウンが既に賞金
 首である事、そしてマッドがサンダウンを獲物と定めている為である。
  では、一体何の仕事を依頼されたのか。
  怪訝に思うサンダウンの前で、マッドは緩やかに黒光りするバントラインを掲げる。いつもの気
 障ったらしい動きではなく、死神の大鎌を振り被るかのような動きだった。

 「その男はな、俺に、妹が一人攫われたから、それを取り返し、攫った男を撃ち取れと依頼した。」

  そして、と低い声で続ける。

 「妹を攫った男は、サンダウン・キッドだと言った。」