少女が、唯一の自慢であると語る刺繍は、確かに見事なものだった。
  少女が粗末な上着の下に着込んでいる長袖の肌着の袖の裾に、金の螺鈿を思わせるような細かい
 刺繍が、何重にも施されている。
  ただ、本当にこれは、この少女が縫い付けたものなのか、という疑いが、当然のように湧き上が
 ってくる。
  何せ、やはり少女は普通の子供よりも反応や言葉が鈍い。
  そんな少女が、どうやって宝石の煌めきよりも繊細な刺繍を縫い付ける事が出来るのか、と思う。
 長い長い時間をかけて、針の一つ一つの動きに何時間もかけて縫い付けて、それで一体どれだけの
 模様が作れるというのだろうか。
  別に、手間暇をかける事を無下にするつもりはないが、少女のそれは手間暇をかけているわけで
 はないのではないだろうか。それとも、例えば白痴が往々にして人並みの能力と引き換えに、何か
 飛び抜けた能力を手に入れるが如く、少女も刺繍の能力を受け取ったのだろうか。
  ちらちらと袖の裾から金貨を零すように見える金の刺繍を眺めながら、けれどもサンダウンは欠
 伸を噛み殺した。
  少女の白い指先が、刺繍の為のものであって、それ以外の事には使われていないのだという話を
 聞いてから、そして少女の顔立ちが昼間の日差しの中ではとても偏平である事から、サンダウンは
 少女の向こう側に残像を見なくなっている。
  もう、サンダウンの興味は少女から遠く離れてしまっている。

 


 文曲





  コロラドまでの行程は既に半分を過ぎ去った。あと二、三日で到着するだろう。尤も、コロラド
 に到着して、それで少女をどうするのか、サンダウンは決めていない。というか、少女がどうする
 のか、分からないのだ。
  コロラドに兄がいる。
  少女はそう言うが、コロラドのどの辺りに兄がいるのか、少女は知っているのだろうか。
  コロラドとは町の名前ではない。一つの州の名前だ。その州の中には幾つもの町と、荒野と、無
 数の人間が蠢いている。その中から特定の人間を見つけ出すのは、腕利きの賞金稼ぎでもなければ
 不可能に近い。
  よもや、コロラド州との境目に、兄がいるというわけではないだろう。仮にそうであったとして
 も、どの境目にいるというのか。
  それとも、賞金稼ぎのように、兄を見つけ出せるとでもいうのだろうか。
  或いは。
  思って、サンダウンはそれは非常に滑稽な思いつきなように思えたし、一方で酷く良い思いつき
 にも思えた。
  もしも、兄が賞金稼ぎであったなら、確かにサンダウンの傍にいれば見つかりやすいかもしれな
 い。きっと、今も何処かでサンダウンの行方を追いかける賞金稼ぎは大勢いるのだ。少女の兄が賞
 金稼ぎだというのなら、サンダウンの傍にいれば出会う可能性は高いだろう。
  しかし、少女にそれだけの事を思いつくだけの知恵があるとは思えなかった。
  では、誰かに入れ知恵されたのだろうか。
  しかし、誰に。
  まるでぶつ切りにしかならない自分の想像に、サンダウンはふいと区切りを告げる。
  これ以上は何を考えても無駄な気がしたからだ。少女の過去も事情も何もかもが不安定な状態で
 何をどれだけ考えても、結局は想像の縁を越える事は出来ない。
  ただ、唯一分かるのは、もしも少女の兄が賞金稼ぎであったとしても、その賞金稼ぎは間違いな
 くサンダウンの喉笛に一番近い場所にいる賞金稼ぎとは別人であるという事だ。
  もしも彼であるならば、とサンダウンは思う。
  恐らくとうの昔にサンダウンを見つけ出しているだろう。だが、それがないという事と、そして
 日の光に曝された少女の顔はのっぺりとしていて彼の面影が全くない事から、サンダウンは少女の
 背後には残像も見ない。
  しかし、少女は誰かに似ているような気もするのだが。
  けれど、サンダウンはその面影を追う事はさっさと止めにした。追いかけたところで、それはサ
 ンダウンにとっては不快な記憶でしかないだろうという気がしたからだ。
  面影の気配を感じる、という事は、サンダウンの中に何かを残したという事だ。そしてサンダウ
 ンに何かを残すという手段は、基本的に銃弾か血の跡くらいしかない。その後に待っているものと
 いえば死しかないのだから、間違いなく不愉快なものだろう。
  死を思わせながらも不快でなかったのは、件の黒い賞金稼ぎくらいしかいない。
  それ以外の痕跡――賞金首に成り下がった後ならば、撃ち落した賞金稼ぎかならず者の親類縁者
 であり、恨み辛みを投げつけてくる相手だろう。賞金首になる以前、保安官の頃の記憶など、それ
 こそ怨嗟の極みではないか。
  保安官になるよりも、もっと遠い過去に遡れば、そうした怨嗟はなくなるだろうが、同時に面影
 などまるで覚えていない霧のようなもので、やはり少女の面影は保安官になってから以降に出会っ
 た誰かのものだろうと思う。
  つまり、この少女の元の顔は、サンダウンを恨むか憎むか蔑むかの、いずれかの顔をしているの
 だ。
  サンダウンには、不愉快でしかない記憶という事だ。
  おそらく、このまま少女を連れていけば、サンダウンにとっては不愉快な現象が起こるのではな
 いだろうか。
  少女の望む、コロラド州に入った辺りか、入る直前か、或いはその境目で。
  サンダウンは自分がどうなっても良いという自暴自棄なところが幾分かあるが、けれども自分か
 ら不快な眼に会おうという心づもりは全くない。死に場所を探し求めていて、そして最終的には鉛
 玉に貫かれるか、行き倒れるかのどちらかで決まるだろうとは思っているが、しかしその場におい
 ての心内は出来る限り穏やかであれ、と思っている。
  不愉快さを腹の底に秘めたまま斃れたいとは思っていない。
  だから、サンダウンはコロラドに着く頃、この少女を手放すつもりだった。延々と連れて歩くわ
 けにもいかない。そんな事は、コロラドに連れて行くという少女の冷たい手を取った時から分かっ
 ていた事だった。
  それが、ただ早まるだけの話。
  いや、もしかしたら、本当は今すぐにでもこの少女を置き去りにした方が良いのかもしれない。
 もしも少女が、サンダウンの星回りに関係している存在だというのなら、一刻も早く。
  そうすべきだ、とサンダウンの頭の奥で、警鐘が鳴っている。
  サンダウンは、たった今、気が付いてしまったのだ。
  少女の面影の主が誰なのか、にではない。
  そんなものは過去で足踏みをしているだけの残像だ。サンダウンがその気になれば、腹の底で蠢
 く巨大な口腔によって飲み下す事が出来る。過去のの傷跡が化膿して作り上がったサンダウンの中
 にある、どす黒い兆しはいつでも何かを飲み込もうと、サンダウン本人でさえ飲み込んでしまおう
 と、その隙を窺っている。
  もしも少女の面影が誰なのかが分かり、その影がサンダウンの脳天に斧を振り下ろそうとしてい
 るというのなら、サンダウンは誰よりも酷薄にそれを捩じり切るだろう。
  サンダウンにとって、保安官時代の残像は、飲み下して踏み躙りたいものなのだ。だからきっと、
 躊躇しないだろう。
  少女の面影など、どうでも良い。
  それが、サンダウン以外の何かに食らいつくのでない限りは。
  サンダウンが恐れているのは、過去の残像がサンダウンに食らいつこうとする事ではなくて。
  何故、今まで気づかなかったのかを、罵りたい。
  黒い賞金稼ぎの姿を、ここ最近、見て、いない。