黒髪の少女の背後から、ちらつく黒い賞金稼ぎの幻影を振り払う事に成功したのは、少女を連れ
 て荒野を渡り始めてから、三日も経とうという時だった。
  まるで、これみよがしにサンダウンの前で白く細い指を蠢かせる少女が、ぽろりと零した言葉で
 サンダウンはひとまずは、この少女の求めるコロラドの兄が、件の賞金稼ぎには重ならないもので
 あると判断したのである。
  むろん、少女に白痴の気がある以上、真実は未だにどちらにも転ばないのだが。

 


 禄存





 「兄、は、七人いるの。」

  荒野の黒い風に髪を靡かせて、少女はぽつりと呟く。
  昼間、ずっと走らせてきた愛馬を休ませ、しずかに野営の準備を始めるサンダウンに、果たして
 聞かせるという意図があるのか、それとも白痴に多い独り言なのか、サンダウンには判断がつきか
 ねる。
  ただ、白い指で空を叩く仕草が誰かを彷彿とさせ、しかし一方で少女が吐いた台詞はサンダウン
 の幻影を否定するものであったから、サンダウンは思わず野営の手を止めて、少女を見た。
  野営の橙の炎を無表情に見つめる少女は、指を空に翳して囁いている。炎のうねりに飲み込まれ
 そうな声で、一人、二人、と呟いているのだ。

 「私の、兄は、一人、二人、三人、四人、五人、六人、そして七人、いるの。そして、もう一人、
  一番小さくて、魔法使いの兄が。」

  奇妙な旋律で呟かれた少女の声に、サンダウンは眉を顰めた。
  少女の言葉に、それは兄は八人いるのだ、と返すべきなのか、と微かに迷いながら。しかしサン
 ダウンの煩悶を無視して、少女は強固に、兄の数を七であると述べている。最後の一人は、数に入
 れていないのか。
  それと、唐突に出てきた魔法使いという言葉。
  お伽噺や伝承には良く出てくる言葉だ。時に、ウィッチやウィザード、シャーマンなど、話の内
 容や経歴によって呼び方は違えど、意図するところは同じだ。所謂、普通の人間にはない力を持っ
 た存在。
  勿論、現実にはそんな存在はいない。
  少なくとも、サンダウンは知らない。
  もしもこれが、普通の街中で聞いた台詞ならば子供の放つ戯言として切り捨てたであろうが、何
 事にも虚ろな少女の口から出てきた事は、妙に不気味であった。
  しかし、不気味に思う一方で、やはり現実逃避を続ける白痴の一人なのか、とサンダウンは結論
 付ける。
  仮に少女が生まれた時からそうした虚ろな世界に生きていなかったのだとしても、少女がそれか
 らの生き方によって精神を捻じ曲げられてしまったというのなら、生まれながらの白痴と同様の狂
 いを体内に取り込んだとしてもおかしくはなかった。
  尤も、サンダウンにとって少女の障害が後天的であれ先天的であれ、どうでも良い事であったが。
  ただ、サンダウンが重要視するところは、少女の語る兄についてであった。
  野営の焚火が彩る橙の炎に顔を照らされた少女は、その顔につけた陰影は決して深くはない。要
 するに偏平なのだ。のっぺりとしている、と言えばいいのか。
  白く細長い指と、印象深い髪と眼の色によって、そしてこんな荒野にはあるはずのない少女の出
 で立ちによって惑わされていたが、少女の顔立ちは決して飛び抜けたものではなかった。
  ありていに言えば、可もなく不可もない、平凡な顔立ちだったのだ。
  それを、眼の色でなんとか平凡でないものにしていると言っても、それは決して良い意味ではな
 い。むしろその逆――虚ろであるが故に、一度ヴェールをはがされてしまえば地面に叩き付けられ
 てしまった神像のように、無価値な物に成り下がってしまうのではないだろうか。
  しかし、サンダウンが先程まで少女の背後に見つめていた幻影は、それとは全くの逆だ。
  もともとヴェールになど覆われていない、如何なる光も必要とせず、もしもあればただただ己を
 礼賛するものへと変貌させる力を持った男だ。如何なる場所でも、絶叫や嬌声よりも生々しく、峻
 烈に生きる男だ。
  それに何よりも、あの男はこんな偏平な顔をしていない。
  髪も瞳も指も唇も皮膚も、爪の先まで、劇的に強烈なのだ。一歩間違えれば醜さになる苛烈さは、
 何故かあの男の身体の中では共鳴し合って一つの音楽をなぞるように美しくある。
  要するに、少女とサンダウンが思い描く男は、まるで似ていないのだ。
  眼の向く方向が逆である事が、少しだけその逸脱さから似ているのではないかと思ったが、しか
 し、そうではないのではないだろうか。
    むろん、少女の言葉を鵜呑みには出来ないし、サンダウンの想い込みを絶対的に正とする事は出
 来ない。
  だが、冷静な眼で見れば、少女はサンダウンの知る誰にも似ていないような気がする。
  いや。
  ちらりと、心の奥底、本当に過去で見た誰かに一致する部分があったような気がしたが、一致し
 たのが誰かも分からぬほどに遠い過去である上に、思い出す必要もないほどとるに足りないもので
 あったような気がしたので、サンダウンは思い出す事も止めた。
  少なくとも、直近で知る人物ではなかったので、興味もなかったのだ。
  そんなサンダウンの前で、少女は未だに白い指を掲げている。確かに白く細い指であったが、け
 れども骨ばっていて、それが少し不恰好だった。

    「兄、は、どうして、あたしを、置いていってしまったのかしら?」
 
     囁く問いかけに、サンダウンは小さく首を横に振った。
  サンダウンに分かるわけもなかった。サンダウンはおそらく少女の兄というものを知らないし、
 仮に、もしかしたら少しだけ幻影を見た相手が少女の兄であったとしても――七人いるという時点
 で違うだろうが――その心根は想像もつかないことであった。

 「あたしは、兄、が欲しくて、ずっと探しているのに。」

  少女の奇妙な言い分に、サンダウンは再び眉を顰めた。
  欲しい、とは。
  だが、サンダウンの怪訝さなど、少女には愚にもつかぬ事なのだろう。まるで相手にせず、指で
 空を叩き続ける。掲げた手の袖の裾から、ふと身に羽織る少女の粗末な服とはまるで違う、豪奢な
 刺繍の施された裾が見えた。
  少女が粗末な服の下に着込んでいるらしいその刺繍に、サンダウンは少女の出で立ちとはまるで
 正反対のものを見てしまい、ますます顔を顰めた。
  そんなサンダウンの視線に――少女の虚ろを考えれば奇妙な事であるが――気が付いたのだろう
 か。少女は刺繍の施された袖をひらひらと振りながら、指で空を叩く。

   「あたし、は、刺繍が得意なの。」

    それは、豪奢な刺繍に対する言い訳だったのだろうか。それとも、想像出来る少女の生い立ちが
 少女に身に付けさせた徳木であるのだろうか。

   「この刺繍を、見て、兄は、あたしを褒めてくれるの。」

  想像とも期待とも事実とも取れぬ言葉を囁く少女に、サンダウンは返す言葉は何もなかった。野
 営の灯りだけがある闇の中では、揺れる刺繍はサンダウンに、奇妙な残像を見せるばかりだった。