その少女が何処からやってきたのか、それはきっと誰にも分からなかっただろう。
  凍てついた星の下、少女は白い爪先を露わにした素足で、霜の張った、しかし何故か乾いている
 荒野の砂を踏みしめて、黒い眼で空を眺めていた。




  天枢





  その少女を目にした時、物の怪の類か何かと思っても、それは間違いではないだろう。
  如何にサンダウンが長年荒野を放浪し、荒野に埋もれる不気味な残像を見てきたとはいえ、年端
 もいかぬ少女が、日の錦が帯すら見えぬ夜に素足で冷たい砂を踏みしめている光景というのは、そ
 うは見る物ではなかった。
  むろん、物の怪以外にも考え付くものはたくさんある。
  例えば、如何に人の数が増えたとはいえ、未だに町と町との間は遠く、その隙間にぽつりぽつり
 と人の住む小屋があるのが現状だ。その、町から離れた小屋の娘であると考えられなくもなかった 
 し、犯罪の横行しやすいこの土地では、人身売買も水面下では行われいてる。だから、売人から逃
 れてきた憐れな被害者という見方も出来なくなかった。
  ただ、サンダウンがそれらの選択肢を選ばずに、物の怪や精霊に近いのではないかと咄嗟に思っ
 たのは、単に少女の雰囲気にあった。
  何処かの町娘のような風貌でもなければ、逃げ出してきたという悲壮さもない。
  黒い長い髪を風に嬲られるがままに空に広げ、同じく黒い眼は遠く遠くを見つめている。しかし、
 その黒い眼が一体何を見ているのかは分からない。まるで何も見ていないとでも言うかのように、
 只管に茫洋と漂っているばかりなのだ。
  超然としたその仕草は、そこだけ刳り貫ぬかれたかのような別世界に見えた。
  何と言えば良いのか分からないが、とにかく見ている者を落ち着かぬ気持ちにさせるものが、そ
 の光景にはあったのだ。
  今にも空に溶け込みそうなほどか細い少女の姿は、しかし見ていればこちらの眼を盲目にしてし
 まいそうな奇妙な静けさがあった。
  そう思うのは、全く正反対の黒を知っているからかもしれなかった。
  闇であろうが光であろうが、何よりも一際飛び抜けて目立つ黒。それは荒ぶる魂が絶叫を上げな
 がら燃え盛っている様にも似ていて、確かに別の意味でこちらを盲目にしてしまいそうだった。き
 っと、何も知らずに直視したら眼を焼き切られるだろう。
  けれども、荒野にぽつねんと佇む少女は、その黒とは全く異色の黒だった。
  しかし、例え異色でなかろうとも、サンダウンは少女を見て狼狽えた事だろう。何せ、こんなと
 ころに少女がいるはずもないのだから。どう考えても薄手の白い服を一枚身に着けるだけで、足は
 痛いほどの白さを見せつける素足で。
  人間ではない。
  サンダウンがもう少し迷信深ければ、少女を化け物と見て取ったかもしれない。いや、迷信深く
 なくとも、サンダウンは短くもない人生の中、過去二回ほど人智を超える対象に出会っている。尤
 も、それら二つを帳消しにできるほどの悍ましさがサンダウンの中で呻き声を上げているのだが、
 それは今は関係のない事なので、特には語らないが。
  ただ、荒野に忽然と現れた少女は、サンダウンの中にいる悍ましい声とも、サンダウンが過去二
 回見た人智を超える存在とも違っていた。
  つまり、ただの人間であったのだ。
  物の怪の類に見えたのは、煌々と輝く夜の所為で、少女単体を切り取って見れば、姿こそ異様で
 はあったが、人間以外の気配はしない。
  サンダウンが狼狽えたのは、その少女を見つけたところでどうすれば良いのか、という事だった。
  サンダウンは人目を避けて逃げ惑う放浪者だ。
  逃亡者だ。
  首に賭けられた賞金は5000ドルという悪名高い賞金首サンダウン・キッドだ。
  荒野のど真ん中で少女に出会っても、それに対して何らかの行動をとる事は出来ないのだ。少女
 の身に、如何なる不幸な事が降りかかったのであれ。
  確かにサンダウンは過去は名高い保安官であった。しかしそれは過去の事で、今は人間への侮蔑
 と嫌悪を押し隠して逃げ惑う存在に成り下がっている。そんな輩が少女に何か齎してやれるわけが
 ない。仮にできたとしても、恐らく通常の犯罪者がするような、もっと不幸な何事かだろう。
  しかし、それでも少女から眼を逸らせなかったのは、弱き物に降りかかる不幸に眼を瞑れないと
 いう過去の己の本分の所為だろう。保安官であったサンダウンは、未だに何処かに銀の星が転がっ
 ていないかと探しているのだ。
  浅ましい。
  だが、少女を見過ごせない、もっと別の理由は、更に浅ましかった。
  長く黒い髪と黒い眼の少女の色が、全く毛色が違うとはいえ、同じく目立つが故にサンダウンが
 良く知る黒を想起させたからだ。
  今はサンダウンの前にいない黒を思い出した所為で、サンダウンは銀の星を乞うよりも浅ましい
 態で少女の前に馬を向かわせるしかなかった。自分でも苦々しく思いながらも、それは仕方がない
 と諦めるより他ない。
  苦渋に満ちた心根で、只管に表情のない人形のような顔の少女を馬の上から見下ろせば、月の光
 を遮られた事に気が付いたのか、少女はようやくサンダウンに眼を向けた。
  普通、少女の眼から見れば夜の闇にそそり立った男の背の高い影は恐怖の対象であるに違いない。
 しかし少女は人形のような顔を一つとして動かさず、相変わらず茫洋とした眼差しでサンダウンを
 見上げた。
  黒い、表情も光もない硝子に良く似た眼に見上げられ、サンダウンはやはり盲目になったようだ
 と思った。眼を焼かれたのではなく、ただ何物も見ていないような気分になる。
  何とも座りの悪い気分になりながらも、サンダウンは少女を見下ろして問うた。

 「………一人か?親は?」

  サンダウン自身も分かるほど、少女に語りかけるにはあまりにも無愛想な声だった。普通の子供
 なら逃げ出してしまうかもしれない。
  だが、少女の反応は相変わらず薄いものだった。
  一瞬、この少女は白痴なのではないかと思うほど、少女は表情を動かさず、ぼんやりとした眼を
 していたのだ。

 「………私の言っている言葉が聞こえているのか?一人なのか、と聞いている。」

  ゆっくりと再度問いかけると、しばらく間を開けた後、少女は細い首をゆっくりと縦に振った。
 頷いた少女は、やはり表情を変えずにサンダウンを見上げると、星の瞬きのような声で、囁いた。

 「兄、を、探しているの。」

  その声は星のようであったが、しかしそれ以上でもそれ以下でもなかった。それ以外の何かに変
 貌を遂げてサンダウンの中に納まる事もなかった。
  だからサンダウンも、何の感慨も覚えずに、兄、と繰り返しただけだった。サンダウンの繰り返
 された言葉に少女は再度頷く。

 「探して、いるの。」
 「……何処で離れた?」
 「赤い土の、場所。」
 
  赤い土。
  それが指すのはコロラドの事だ。
  しかし、何故そんな場所から。
  思って、口減らしか何かだろうか、と思った。それか、或いはやはり売り払われたか。もしもこ
 の少女が白痴であるのならば、悲壮感のなさも理解できた。それはまた別の意味で、悲壮ではあっ
 たが。

 「兄、のところに、連れて行って、くれるの?」

  たどたどしい口調で首を傾げる少女に、サンダウンは微かに迷った。
  しかし、硝子の糸のように揺れる黒の髪が、酷く自分の中を揺さぶった。サンダウンの好悪に関
 わらず。
  鋭い躊躇いを覚えながらも、サンダウンは黒い眼の少女に手を差しだす。
  サンダウンのかさついた手に、少女の骨のように白い小さな手が重なった。
  その手は、しっとりと、雪解けの中にあった水藻のように凍り付いていた。