Arm und Nacken die Begierde





  男の背後には、これでもかというくらい巨大な夜空が座している。
  だが、いつものように晴れ渡った空はあっと言う間に見えなくなった。
  代わりに視界を塞いだのは、青い瞳。真昼の荒野の空色。
  中途半端に短いかさかさの草が生えた砂地に横たえられて、空を仰ぐ頭の下にはサンダウンの腕
 が敷かれていた。敷かれた腕の手と、組み合わせられたもう一本の腕は輪を作り、マッドを閉じ込
 めている。そして投げ出されたマッドの手の中には、冷たく光る黒い銃が。
  男に組み敷かれるという、マッドの中では最も唾棄すべき状況。
  手に吸い付くように馴染んだ銃の形があるのならば、今すぐにでも撃鉄を起こして撃ち抜けば良
 いのだ。
  撃ち抜くのは何処だって良い。
  致命傷を与えられずとも、男の手が止まる一瞬の時間稼ぎにはなるだろう。
  これまでも、そうしてきた。
  だが、人生の中で一番の脅威に曝されている今、身体は動こうとしない。
  嫌なら、撃ち抜け、と。
  そう言った眼前にいる男は先程、マッドの肌を無理やり荒野の真っただ中で露わにしている。唐
 突に行われたその行為は、少なからずともマッドに衝撃を与えた。
  男にそんな事を許した事は一度だってないのだから、当然と言えば当然なのだが、衝撃の中にあ
 ったのは怒りでも嫌悪でも怯えでもなく、信用していた相手に裏切られたという驚愕だけだった。
  本心からの拒絶を捩じ伏せられ、何よりもこんな事は絶対にしないであろうと信用していた男に、
 衣服を剥ぎ取られ、肌を余すところなく見られた事に、傷ついたような気もしたけれど、だが、と
 てもではないが嫌悪を抱く事はできなかった。
  むしろ湧き上がるのは、今まで嫌だ嫌だと言ってきた行為をされて、その癖嫌悪を持たない自分
 への嫌悪だ。今すぐにでも撃ち抜くべきなのに、銃を手にしながらも引き金を引こうとしない理
 由は、最終的には一つのところに落ち着くしかない。

 「はっ。この俺に丸腰の相手を撃てってのか?ふざけんじゃねぇ。」

  辛うじて吐き捨てたのは、言い訳というにしても、あまりにも陳腐なものだった。強がりにすら
 ならない。
  銃を持っていないもう一本の腕が、サンダウンに導かれるままその肩に縋りついて今も離れてい
 ない時点で、言葉が本心と真逆を向いている事は明白だ。
  だが、今や吐き出した言葉以外に逃げ道となるようなものは残されていない。
  銃把を握り締めて、どうにかサンダウンの眼を睨み返すと、その耳にカチリという慣れた金属音
 が届いた。何なのか確かめる間もなく、僅かに身を起こしたサンダウンの手には、魔法のように銀
 に光る銃が現れている。
  艶めいた銀の銃口は、ぴたりとマッドの額に向いて、触れるか否かの微妙な位置で止まる。それ
 でも感じる冷たく、しっとりとした感触に、マッドは思わず息を零した。

 「これで、躊躇する理由は、ないだろう……?」

  耳元で、有り得ないくらい優しく囁かれて、マッドは自分が言い捨てた言葉が完膚無きにまでに
 破壊された事を悟った。
  額に触れる銃口は、突き付けられるというよりも、口付けられているような甘さがあるが、それ
 でも銃で脅されているという事実を生み出すには十分だ。銃で脅されて、組み敷かれて、しかもそ
 の相手は賞金首だというのなら、もはや撃ち抜くのにはなんの躊躇いも必要ない。

 「マッド………?」

  耳を甘噛みするような声音で、サンダウンは返答を促す。それに伴って、額に落とされていた銃
 口が米神に滑っていく。サンダウンがこれまでしてきたように、ピースメーカーの銃口も米神から
 目尻を柔らかくなぞり、頬の輪郭に銀の筋を零す。
  そして、唇に。

 「んっ………。」

  熱には最も敏感な器官にひんやりと、だが優しく触れる感触に、マッドは微かに息を詰める
  しばらくの間、唇の弾力を楽しんでいたそれは、ゆっくりと顎を舐めて、その下にある生命にと
 っては重要な血管が無防備に浮いている首筋へ、ねっとりと這っていく。
  びくりと震えたマッドの反応を宥めるような優しさと、更に深く感じさせようとする熱っぽさが
 同居する白銀の口に、マッドは否応なしに息が上がっていく。
  喉仏では軽く抑えられて息苦しさを与えられ、頤を掠められると身体が跳ねる。
  今にも銃弾を吐き出せるそれが、裏腹の優しさと柔らかさを以ている事が、マッドを余計に反応
 させるのだ。
  咄嗟に手の中にある自分のバントラインにしがみつく。
  マッドに残された選択は撃ち抜くか、撃ち抜かないかの二択しかない。その二択を以て、サンダ
 ウンはそれをマッドの返答と見做すつもりだ。何の返答と受け取るかなど、言わずもがなだ。
  だが―――。

 「っ……なん、で?」

  首筋に落とされる銃口の艶めかしさに、やや喘ぐように、マッドは有りとあらゆる疑問を凝集し
 て問うた。
  本来ならばもっと早くするべきだった問い掛け。怠惰と優越感にかまけて、だらだらと引き摺っ
 てきた。今訊くのは、きっと卑怯だ。
  だが、今訊かなければ、もっと卑怯だ。
  何故自分なのか。
  何故こんな事をするのか。
  何故そんなに傷ついた眼をするのか。
  何がそんなにお前を苛むのか。
  一体何があったのか。

     ――――それは自分でなくては癒せない事なのか。

  短い問いの中に孕んだ幾多もの疑問に、気付いたのだろうか。艶やかに動いていた銃口が、凍て
 ついたように固まった。見上げた先にあった男の双眸に、はっきりと歪な傷が見えた。そこから零
 れ落ちた昏く深い淵は、あの夜感じ、思わず眼を逸らしたものと同一で、だがあの夜以上にはっき
 りと見える。
  転瞬、くるりと回転して喉元に突き付けられた銃口には、先程までの熱っぽさはなく、ひたすら
 に冷たい。サンダウンの眼を覆う淵と、同じ色をしている。冷ややかに弾けた銀の光の先で、今に
 もひび割れて砕け散りそうな青い眼が、はっきりと告げた。

 「お前だけだ。」

  冷然とした声は、些かの熱にも浮かされていない。むしろ、身の内から冷え込んだような凍えを
 孕んでいる。それに伴い、無表情の下で歪んでいくものが、決して動じようとしない男の心臓に絡
 みつこうとしているのを感じた。
  その心臓の真ん中に、瞳にあるのと同じ、覗きこめば盲目になってしまいそうなくらい、暗くて
 深い穴がぽっかりと開いている。

 「お前しか、いない。」

  あの夜、熱を込めて何度も囁かれた言葉。
  それが今、恐ろしいほど感情を欠いて抑揚すらない声音で紡ぎだされる。
  甘い檻のような様相はなく、首に突き付けられている銃口と同じ、死神の翼の羽ばたきのようだ。
 だが、羽ばたきの裏に、確かに破滅に向かう軋みがある。そしてそれに、必死に抗おうとしている
 絶叫が、延々と繰り返されている。
  何故そんなに傷ついた眼をするのか。
  何がそんなにお前を苛むのか。
  一体何があったのか。 
  それは、その、明瞭にする事にさえ出来ない破滅の所為なのか。
  何故こんな事をするのか。
  答えは、その、破滅に抗う為か。
  何故自分なのか――――それは自分でなくては癒せない事なのか。

「お前だけだ。」
「お前しか、いない。」

  瞬間、マッドは感じた事もないくらいの優越感の波に呑まれ、同時に吐き気がするほどの自己嫌
 悪に襲われた。
  どれだけ自分は浅はかで欲深く、そして罪深いのだろう。いっそこのまま此処で、塩の柱にでも
 なってしまえば良いのだ。
  喉の奥で低く自嘲の笑みを零し、彫像のように硬い表情を浮かべているサンダウンを見上げた。
  その肩に縋りついて、結局今まで離れなかった指。その事にもう一度嗤い、マッドはその指を素
 早くサンダウンの首に回し、回した腕と腹筋に力を込めて身を起こす。ひらりと銃口を躱し、眼の
 前の身体に自分を引き寄せる。
  視界の端で糾弾するように光ったバントラインを砂でも零すように指の間から落とし、空になっ
 た手も首に回す。
  こんなはずではなかった、と思ってみても、もう、仕方がない。絆された時点で、この男が破滅
 に抗おうとするのを、見て見ぬ振りなどできるものか。
  顔をぶつけるように近付けて、噛みつくようにその唇に口付けた。
  見開かれた碧眼から傷が消え去ったのにほくそ笑み、マッドは舌で歯列をなぞりその先を促す。
  この瞬間にその銃弾で撃ち抜かれても構いはしない。
  一瞬口を離し、もう一度口付けて、引き攣ったような笑みを浮かべて言った。

 「へへっ………いつか寝首掻かれても、後悔すんじゃねぇぞ。」

  最後の最後に、自己嫌悪の中から辛うじて残っていた強がりを掻き集めて、破滅の色が遠ざかり
 始めた顔に叩きつける。
  直後に、絞め殺されるのではないかと思うくらいの勢いで抱き寄せられ、口を塞がれる。
  これまで与えられてきた、触れられるだけのものとは違う。舌が絡め取られ、口腔内を蹂躙され
 る。角度を変えて深くなるそれに、肺が悲鳴を上げ、視界が暗くなる。
  窒息寸前になってようやく解放され、マッドは必死で空気を取り込む。
  その耳朶に、低く声が落ちる。

 「許せ………。」
 「な、に………?」

  呼吸困難で噎せかけた声で謝罪の意図を問い掛けると、眼元に指が這う。
  眼を瞬かせて視界をクリアにすると、あの暗い淵はなりを顰めているが代わりに何かを耐え忍ん
 でいるような眼とぶつかった。

「そんな眼を、するな。」

  啄ばむように瞼に口付けられる。その仕草に、マッドは身震いした。   見透かされたのか、この身の内に蟠る、嫌悪の理由に。
  その想像を確定するように、サンダウンはマッドの頭を宥めるようにぽんぽんと叩く。

 「お前が、自分を、責める必要はない。」

  囁かれて、自己嫌悪を柔らかく撫でられて、ひゅっと喉の奥が鳴った。
  自分の内面は、そんなにも簡単に零れ落ちていたのだろうか。
  呆然としている身体に、優しく指先が欲しいと告げてきた。それと同時に、首筋にきつい痕が付
 くくらいに、一つ。

 「私が、お前を、欲しがっているだけだ。」

  だから、と。
  噴き上がった気配は、生命として根本的な恐怖を引き摺り出すものだ。それは違える事なくマッ
 ドの心臓を刺し貫いている。辛うじて踏みとどまったが、身体は竦んで動かない。
  そこに声が降りかかり、再び引き裂く勢いでジャケットが剥がされた。

 「…………許せ。」
 

















腕と首なら欲望のキス