Kiss Me Quick




  身体を緩やかに纏う温もりに顔を埋めた状態で、マッドは眼を覚ました。しばらくその状態のま
 ま、数回瞬きを繰り返していたが、青味がかった灰色の景色に、朝が来たのだと気がついた。
  そうして身じろぎした瞬間、腰から亀裂のように痛みが広がった。腰以外の部分からも痛みが走
 ったが有り得ない場所からだったので、思考がその部分であると判断するのを拒否したようだ。
  が、しかし、腰に手を当てて激痛をやり過ごしている内に、何が起こったのかを思い出し、何処
 の痛みが一番酷いのかは否応なしに眼を向ける事になる。
  そっと辺りを窺うと、部屋には自分しかいない。
  その事に安堵するとともに、微かな胸の痛みを感じたが、けれどもやはり安堵のほうが強かった。
  何せ、犯されたのだ。
  病に倒れて、抵抗できないのを良い事に。
  賞金首サンダウン・キッドに。
  そう、しっかりと自分の中に昨夜の出来事を言葉として刻み込んだ瞬間、どうしようもない気持
 ちが込み上げて来て、マッドはぐりぐりと顔を枕に押し付けた。

 「あうううう。」

  怒っているとか、傷ついているとかではない。むしろ、そんな感情が湧かないのが不思議なくら
 いだ。それどころか、流されてしまった、という気持ちのほうが強い。低い声で、何度も何度も受
 け入れて欲しいと囁かれて、その声に言われるがままに身体を開かされてしまった。
  確かに抵抗できなかった。サンダウンのほうが力は強いし、マッドは熱もあった。
  けれども、逃げようと思えば、逃げ出せなくはなかった。声を上げて、助けを呼ぶ事だって出来
 た。サンダウンはマッドを拘束したり縛ったりしていたわけではないのだから。
  つまり、要するに、強姦ではないという事だ。
  マッドは、そう結論付けるしかない。
  が、サンダウンがいないという事は、サンダウンは自分が強姦したと思っているのではないだろ
 うか。だから、逃げ出したのではないか。逃げた、と思うとマッドも流石に腹が立つが、仕方がな
 いとも思う。あれだけ切羽詰まった表情で襲いかかってきたのだ。傍目から見れば、どう考えても
 強姦だ。
  しかし、強姦した人間が、わざわざ犯した人間の身体を清拭してから逃げるというのも、おかし
 な話だが。
  マッドは、さらりとした自分の肌を見下ろして、意識が飛んだ後にサンダウンが自分の身体を清
 めたのだと理解し、ちょっとだけ頬を赤らめた。いや、既に全身を隈なく見られて舐められた後な
 のだから、身体を洗われる事くらいどうって事ないだろうと自分に言い聞かせる。
  が、その肌の上に、秘めやかに薄く残された痕を見つけてしまい、やっぱり顔を赤くする羽目に
 なった。
  そこは、サンダウンに執拗に触れられた場所。見れば、サンダウンがどんな経路でマッドに触れ
 ていったのかが嫌でも思い出される。
  首筋から鎖骨。胸骨の間から臍に。そして腰骨に強く吸い付いて。
  それを指先で辿っていたマッドは、少しの躊躇いを見せてから、一番奥まった部分に指を伸ばし
 た。そこは、サンダウンの指で散々掻き混ぜられた場所。

 「んっ……。」

  そこに、自分でも触れてみた。幸いにしてそこから走った激痛は最初の一陣だけのものだったら
 しく、触れただけでは痛みは無く、切れた気配もない。少しだけ腫れぼったいような気もしたけれ
 ど。
  しかしそれ以上に。自分で触れた瞬間、自分の口から想像していた以上に甘ったるい声が漏れて
 しまい、マッドはうろたえた。
  自分の身体が、まるで動かないといった大惨事となっていない事は喜ぶべき事だ。しかし、こん
 な甘ったるい声を出してしまうなんて。
  どうしよう。
  しかし、考えても仕方がない。
  のろのろと身を起こし、身体に痛みが走らない事に自分が意外と頑丈に出来ている事を改めて思
 い知った。そして、思い出したように額に手を置いてみる。昨夜、熱があったはずなのだが、それ
 はもはや、遠くに飛んで行ってしまったようだ。やはり頑丈なようだ。
  もしかしたら、今すぐにでも仕事に行けるんじゃね?
  そう思いながら、マッドはそろそろと身体を動かし、部屋の片隅に置かれていた服を身につける。
 けれども、仕事の最中に倒れてた時の言い訳が思い付かないので、やはり今日は大人しくしておこ
 うかな、とバントラインを腰に帯びようとして、少しの迷いを見せた。
  考えていると、閉ざされていた部屋の扉に、かつん、と何かがぶつかる音がした。そして、本当
 にじわじわと、動いているのかどうなのか分からないくらいゆっくりと開いて、小さな隙間が出来
 る。その隙間から微かに見えたのは、青い眼玉だ。
  マッドの様子を窺う眼玉に、マッドは昨夜の事を思い出して再び赤面しそうになったが、今赤面
 してみせたところで、強姦したと思いこんでいるサンダウンには何の事か分からないだろうと思い、
 堪えて、殊更ぶっきらぼうな声を掛けた。

 「んなとこでうろちょろすんな、鬱陶しい。入るならさっさと入ってきやがれ。」

    ぶっきらぼうな声には、幸いにして些かの甘さの欠片も入らなかった。それどころか、何かを堪
 えていた所為か、自分でもうろたえるくらい硬い響きを孕んでいた。
  もしかしたら、サンダウンは何処かに行ってしまうんじゃないか。マッド自身がそう思ってしま
 うくらい硬い声だったが、マッドの懸念を余所に、サンダウンはいつもの無表情で部屋に入ってき
 た。
  いや、無表情ではない。何処か、困っているようにも見える。
  サンダウンの表情を読み取れる事に、マッドが戸惑いを覚えていると、不意にサンダウンが顔を
 背けた。その横顔からも、困惑が読み取れる。それと、何故か苛立ちが。しかしマッドには苛立ち
 の原因は分からない。だから、いつものように軽い声を出せるように、いつものような遣り取りを
 口にする。

 「で?てめぇは俺の部屋の周りをうろうろして何してんだ?遂に、俺にその首でも差し出す気にな
  ったってのか?」

  普段通りの言葉が出てくる自分に驚き名がらも、マッドはサンダウンの顔色を窺う。サンダウン
 は僅かに視線をマッドに戻したようだが、しかしやはり困惑しているようだ。

   「もしもあんたが捕まる気になったってんなら、俺はいつだって良いんだぜ?昼だろうが夜だろう
  が、受け入れてやるさ。」
 「……マッド。」

  言いながら、何となく性的なものを匂わせてるなぁと自分でも思った。見れば、サンダウンも、困
 惑した表情を消して、苦いものを浮かべている。

   「……私を責めるのなら責めれば良い。ただ……自分を卑下するような事を言うのは、止せ。」
 「あん?何言ってんだ?」

  本気で、サンダウンが何を言っているのか分からなかった。すると、サンダウンは青い眼に絶望
 を灯してマッドに掴みかかる。

 「……お前は、まさか無かった事にするつもりか。」
 「な、無かった事って。」

  何を、と言い掛けて、この期に及んでそんなものは一つしかないと思い至る。
  というか、無かった事にしたいのは、そちらではないのか。

 「私は、取り消すつもりはない。」
 「なんで!」

  むしろそっちが驚きだ。無かった事にしたかったから逃げ出したのではないのか。
  しかし、サンダウンは首を横に振る。

 「お前が欲しい、と言っただろう。それとも、聞いていないとでも。」
 「いや、聞いたけど。」

    聞いたけれど、まさかサンダウンが、それを取り置いておきたいなんて言うとは思っていなかっ
 た。
  
 「私を責めるのも、無視するのも、憎むのも構わない。だが、無かった事にだけは、しないでくれ。」

  懇願は、何処か弱々しかった。マッドの顔色を窺うような色が、確かに見え隠れしていた。孤高
 不恭の男が、一夜の過ちとも言い切っても良い事を、それを否定しないでほしいと懇願している。
  それを聞いたマッドは、掴みかからんばかりのサンダウンの腕を静かに振り解き、首を傾げてサ
 ンダウンを見つめ上げる。じっと見ていると、サンダウンが居心地悪そうに身じろぎした。

 「あんたに、そんな事言う権利あんのか。」
 「………。」 

  実際のところ、マッドがサンダウンの懇願を切り捨てたとしても、サンダウンにはそれを罵った
 りする権利はないのだ。
  強姦である以上は。
  その事はサンダウンも承知しているのだろう。酷く困惑したような、苦しげな表情を浮かべて、
 それでもマッドの眼を見つめている。

 「俺が嫌だって言っても止めなかったあんたの為に、なんで俺がそんな事までしてやらなきゃなら
  ねぇんだ。俺が忘れたいって言っても、あんたの為にそれも捻じ曲げろってのか。」
 「………マッド。」

  振り解かれたサンダウンの腕は行き場を失い、虚しく宙を滑った。しかしまだマッドを捕まえよ
 うと、マッドの周りの空気を掴んでいる。

 「私は……それでも、お前との事は、何も無かった事にはしたくない……。お前の記憶から弾かれ
  るのも、嫌だ。……お前が、欲しいんだ。」
 「だったら。」

  マッドは宙を彷徨っているサンダウンの腕を掴んだ。そして引き寄せる。
  別に、マッドはサンダウンに抱かれた事を怒ってはいない。それどころか、嫌ではなかった。お
 そらく、サンダウンに口付けをされた日から、それは嫌ではなかったのだろう。
  けれど、マッドだって本当にそうだという確証はない。それどころか、自分の感情の所在もまだ
 確定していない。
  だから、それを確かなものとする為にも。
  マッドはサンダウンに顔を近付けて、言い放つ。

 「いつもしてるみたいに、眼が覚めたばっかりの俺に、キスの一つでもしやがれよ。」