ゆらりゆらりと水面が揺れ、黄色い灯をガラスの側面に塗し付けたランプが、水面にその光を弾
 かせては、砕けていた。
  けれども砕け散った光の欠片は、見ている者の眼を貫く事はなく、水面からもうもうと立ち昇っ
 ている白い湯気の中で、更に細かく砕かれている。砕かれたそれらからは鋭さは何処にもなく、ま
 るで長い間波に浚われて丸みを帯びたガラスのように、微かに曇った、まろやかな色を生み出して
 いた。
  これらの丸みを帯びた光は、小さな部屋の中に閉ざされて外に出ていく事はない。それは水面も
 同じ事。閉ざされた空間で、小さく揺れる水面の音は、思いの外、高く、大きく響き渡る。
  それは、鋭さのない光と、立ち込める湯気の所為かもしれない。
  湿度の高い、そして日差しとはまた異なる熱さが湧き上がる部屋の中で、マッドは水面に映る自
 分の顔を見つめていた。

    


  Bath Room

 
 



  久しぶりに、それなりの宿に泊まる事ができた。
  一見乾いた砂しかなさそうで、南部や東部、北部の都市に住む人間にしてみれば、荒野の街など、
 どれもこれも同じだろうと思われているかもしれない、だから、宿に良しも悪しもないだろう、と。
 しかし、都市に行けば浮浪者が泊まるような公共の無銭宿から、果ては貴族や成金が滞在する格式
 高いホテルまであるように、荒野にある宿にも階級がある。
  荒野に――西部に一度も来た事がないという人間は、未だに西部は荒れ果てた未開の地であり、
 日に焼けながら金鉱山と鉄道製造所で働く荒くれた男達がいるだけだと思っているのかもしれない。
  確かに、西部にはそうした一面がある。
  どれだけ大陸を横断する鉄道が敷かれようとも、金鉱山のある街の周辺に巨大な、それこそ他の
 地域に見劣りしないような都市が出来ようとも、乾いた砂が未だ強く支配する西部からは、前時代
 的な印象は拭い去れない。
  一面に広がる水分の少ない背丈の低い草原。砂塵混じりの風。砂埃を巻き上げながら駆け抜ける
 カウボーイ達。金鉱山で働く男達は荒くれており、金の一粒が掴めるのはごく一部だ。大部分は貧
 しく、汗だくになって働く。そんな彼らを慰めるのは身体を売る娼婦達だ。酒場では煙草と賭博、
 そして時には阿片が横行する。薬に狂った連中は時には殺人を犯し、それを捕える為に賞金稼ぎが
 現れる。
  西部に抱くイメージは、大概がそんなものであろうし、そしてそれらは決して間違ってはいない。
  現に、西部には金鉱脈の発見と同時に移民がぞくぞくと集まって来たし、大陸横断鉄道が完成し
 た後は、新天地を求めて冒険家や投資家だけではなく、これまで生きてきた土地にはいられなくな
 った犯罪者達もこぞってやって来た。
  ごった返す人々は、それ故に無秩序になり、だからこそ治安の悪化を招く。
  また、中央政権から離れた位置にあった事も、治安の悪化に拍車をかけたのだろう。裁く者を監
 視する機能は中央から離れれば離れるほど低下する。監視の失せた裁判官、検事、保安官が堕落し
 ていくのは当然の事でもあった。
  働かぬ司法の代わりに、恨みを持つ私人が金を出し、復讐を果たす。そんな機能は自然と芽生え、
 結果、賞金首と賞金稼ぎという関係を生み出してしまったのだ。
  とは言っても、マッドはその社会機能自体を悪し様に言うつもりはなかった。
  所詮、マッドもそのシステムに乗って生きている賞金稼ぎの一人なのだし、そのシステム自体を
 嫌悪するならば、腐敗した司法を変えなくてはならない。司法がきちんと稼働すれば、賞金稼ぎな
 ど必要なくなるだろう。
  が、実際は腐敗は止まらず、結果的に賞金稼ぎという職は今や荒野の頂点に君臨している。なら
 ず者と紙一重であるはずのその職は、結局のところしかしそれ以外に腐敗を止める手立てがない故
 に、のさばっているのだ。
  こうした事柄を知らずとも、やはり他の地方に住む人間からしてみれば、西部の治安は悪く見え
 るだろう。南北戦争が終わったばかりの南部とて、治安は決して良くはなかったが、南部はそれで
 も貴族が住んでいた土地という実績がある。
  その一方で、インディアンが暮らしていた西部は否が応にも野蛮であるという認識が根ざしてし
 まっているのだろう。
  しかし、そのような印象とは裏腹に、西部の主要都市は人の流入の多さにより発達していった。
 むろん、中には金を取りつくす為だけに作られた、ゴールド・ラッシュの波が去って行った後は寂
 れて、遂にはゴースト・タウンとなった街も無数に存在する。
  それでも、生き残った街は大きく発展していった。
  それに伴って、勿論、宿のレベルも大きく変化していく。寂れた街にある宿は風呂もない、ただ
 寝るだけの宿であり、大きな街に行けば厩の充実した二部屋以上ある宿もある。
  そして今宵、マッドは格式の高い、風呂が完備してあるダブルベッドのある部屋に泊まっていた。
 本当に久しぶりの事だった。
  普段から、こういった宿に泊まろうと思えば泊まれなくはない。だが、賞金稼ぎという仕事は根
 無し草だ。犯罪者が良く集まる街というのは基本的に決まっている為、その街によく訪れて顔馴染
 みの娼婦がいたりもするのだが、だがそれは絶対ではない。時によっては何日も荒野を彷徨わなく
 てはならない時もあるし、そもそも犯罪者の集まる街や偶々訪れた街というのが格式高い宿のある
 街であるとは限らないのだ。むしろ、鄙びていたりする事が多い。
  そうなれば必然的に泊まる宿は安宿となってくる。むろん、馬泥棒という荒野の男にとっては最
 も憎むべき犯罪者がいる以上、厩には気を配らなくてはならない。その為、時には厩をしっかりし
 たものを選ぶ為に、肝心の人間が休む所は劣悪という事だってある。
  しかし、今回は流石にそれなりに大きな街であった為か、厩もしっかりとしたものであったし、
 部屋も貴族が泊まる部屋とまではいかないが、それなりものだった。
  落ち着いたベージュの壁に囲まれたダブルベッドに腰を下ろして、ようやく安堵の息を吐けたよ
 うな気がした。
  実際、ここ最近は野宿が続き、ろくに休めてもいなかったのだ。
  野生の獣や馬泥棒だけではなく、賞金稼ぎであるマッドを恨みに思いつけ狙う輩もいる。そうい
 った連中に囲まれて眠る荒野の夜は、本当に身体を横たえるだけの浅い眠りだ。微かな物音にさえ
 反応し、眼を覚ます。
  これで弱音を吐くほどマッドはやわではない。伊達に長年賞金稼ぎとして生きているわけではな
 いのだ。その程度の事に耐えられないような軟弱な身体はしていないつもりだ。
  しかし、疲れが溜まらないわけではない。四六時中気を張っている荒野ならともかく、こうした
 安全な、柔らかい色合いの中に包み込まれていると、このまま白いシーツに沈み込んで眠りたくな
 る。
  だが、流石にこのまま眠ってしまうのは気が引けた。何せ、たった今この部屋に辿り着いたばか
 りなのだ。服は何日も荒野を駆け抜けたものだし、風呂にも入っていない為、身体中が埃っぽい上
 に肌には溜まり込んだ皮脂が凝集されているような気がする。
  尤も、周囲にしてみればどちらかと言えば葉巻の独特の匂いのほうが強く薫っているのだが、そ
 れはマッドには分からない事である。それに、臭いがしようがしまいが、風呂に入っていないとい
 う事実は覆らないのだ。
  今にも沈み込んでしまいそうな身体を引き起こして、マッドはのろのろと服を脱ぎ、この服も洗
 濯を頼んでおこうと考える。そして脱ぎ捨てた服を置き去りにして、部屋に添えつけられた風呂場
 へと向かった。
  風呂場は人一人が入る程度の大きさのものであったが、白いタイルが床に敷かれた白い陶器の湯
 船はそれだけでも十分に高価に思えた。壁の四隅には火を灯したランプが埋め込まれており、風呂
 場を柔らかい黄色の光で満たしていた。
  白い陶器の湯船にはいっぱいに湯が張られており、水に困らないこの辺りの豊かさが見て取れる。
  磨かれた白いタイルに脚を乗せると、そこは既に、温められており、湯気の熱との差を感じる事
 はなかった。 
  これから、マッドは垢すりで身に溜まった皮脂を削ぎ取っていくわけで、白い、どう見ても新品
 に見える石鹸に手を伸ばす。つるりとしたその形状は、ざらつきや硬さなどは見受けられず、手の
 中で転がせばすぐに泡が立ち上がった。
  それを肌に滑らせて、マッドは湧き上がる石鹸の匂いにほっとした。
  高級ホテルでは時として、きつい匂いのする石鹸を置いているが、マッドはそれはあまり好きで
 はない。匂いのついていない、本当にただ石鹸だけの匂いのするもののほうが好きなのだ。
  幸いにしてこのホテルでは、匂いがする事を目的とした石鹸を置いていたりはしないようだ。白
 い石鹸は、その姿に相応しい白い匂いがする。
  尤も、白い石鹸の匂いは、荒野の男にしてみれば軟弱な香りに分類されるものなのだが。
  汗臭く、埃っぽい自分の姿を思い出し、マッドは顔を顰めた。
  西部の男達が良しとするのは、男臭く、力強いものだ。汗と血と、酒と葉巻と。これらの匂いが
 好まれる。香水などは女の残り香ならともかくそれ以外は貴族や軟弱者のつけるものだと思われて
 いる節がある。石鹸の匂いも同じようなもので、乳臭いガキだと思われるかもしれない。
  しかし、マッドは汗臭いのはごめんだった。
  むろん、仕事で汗だくになるのも、返り血を被るのも厭いはしないが、それを纏わりつかせて喜
 ぶほどマッドは不衛生ではない。元来綺麗好きのマッドは、普段から小奇麗な恰好をする事を好む。
 酒や葉巻の匂いは嫌いではないが、洗練されたそれらの匂いならともかく、ただただ安っぽいだけ
 の臭いだけのものなどは嫌いだ。
  そんなだからだろうか。マッドも最初のうちはやたらと軟弱者と見られたものだ。
  痩せているわけではないし、筋肉も人並み以上についているが、しかし西部の荒くれ男に比べる
 と圧倒的に質量のない自分の腹と脚に石鹸の泡を滑らせて、マッドは顔を顰めた。不恰好ではない
 が、細身の身体は一見すれば軟弱者に見えるだろう。マッドもそれは理解している。
  が、ただひたすらに筋肉をつけても重量が重くなるだけで意味がない事をマッドは知っている。
 速く、そして長く賞金首を追いかけるには馬に負担をかけぬ重さである必要があるのだ。マッドが
 他の誰よりも賞金稼ぎとして名を馳せているのは、その所為もあるのかもしれない。
    だが、どれだけ強くても小奇麗で細身の身体が、他の男達に比べればひ弱に見えるのは必然だっ
 た。
  それだけならまだ良い。
  西部に来たばかりの頃、マッドは自分が男に言い寄られる回数が異常に多い事に面食らったもの
 だ。
  自分が男に言い寄られそうな体躯をしている事は、マッドも自覚している、西部に来る前から、
 何度か言い寄られた事もあった。しかしそれにしたって、西部はそれを超えている。女の数が少な
 い所為もあるだろうが。
  泡を首筋から滑らせて、何人の人間がこの身体を綺麗だと言ったか、とマッドは思い出す。
  マッドが抱いた女達は、一様にマッドの身体を気に入って、何度も何度も愛撫して、こぞって痕
 を付けたがった。もしも既に別の痕がついていたなら、その上に何度も口付た。
  手を欲しいと言った男もいた。唐突にマッドの手を掴んだかと思えば、この手が欲しいと頬ずり
 してきた。マッドは自分の手など好きではなかったが、くれてやるわけにもいかなかったので振り
 払って丁重にお引き取り頂いたのだが。
  人間を切り刻む事で欲望を満たしていた賞金首は、眼が欲しいと言った。その眼を刳り貫いて、
 保管しておきたいと、自分の蒐集物の一つとして手元に置いておきたいと。そういう男の家の中は
 腐臭で満ち溢れ、瓶の中に崩れた眼球らしきものが詰められていた。
  足の指の隙間を通る泡を見つけ、そういえば跪いて脚に口付けようとした輩もいたと思い出す。
 硬いブーツの上から口付けようとした男は、血走った眼をしていて、おそらくもはや正気ですらな
 かったのだろう。
  そんなにこの身体が欲しいものなのか。 
  泡を一気に洗い流し、湯船に肩まで浸かりこんで、水面に映った自分を見下ろした。
  白い肌と黒い眼と黒い髪。男にしては華奢な手。筋肉は付いているが細身の身体。どちらかと言
 えば母親によく似た身体は、西部で生きていくには頼りなく見える。それが良いのか、だから、惹
 かれるのか。
  女も、男も。

 「つっても、あんたは欲しがらねぇじゃねぇか。」

  湯船につかったまま独り言を吐けば、それは思いの外、大きく反響した。
  その残響に少しばかりばつが悪くなったが、しかしそれはマッドの掛け値なしの本音でもあった。
 マッドを欲しがる女も男も星の数ほどいるが、だがマッドが欲しがっている相手は、マッドに食指
 を伸ばそうともしないのだ。
  皆がこぞって欲しがる体躯は、あの男にはなんら魅力がないという事だ。 
  それほど、意味がない事はない。
  それはそうだ。いくらマッドが男に言い寄られる事が多いと言っても、しかし普通の男のほとん
 どはマッドを美しいと見做しても、その身体をどうこうしようと思いはしないだろう。この世にい
 るおとこのほとんどは、マッドよりも普通に女が抱きたいはずだ。
  それは、マッドに食指を伸ばさない男も同じ事。
  別に、今更に分かった真理ではない。
  大体、賞金首が賞金稼ぎであるマッドに対して、憎みこそすれ、身体を欲しがるなんて事はまず
 有り得ない。あった場合は、それは憎しみが頂点に達した時だろう。いや、もしかしたらそれすら
 与えられないのかもしれない。
  でなければ、表情一つ変えずに、マッドの前から立ち去ったりもしないだろう。

     「それか、よほどの臆病者かだな。」

  手を出すだけの度胸はなく、端から手を出せないと諦めて、視界に入らないように眼を逸らして
 いるか。
  だとしたら、随分と馬鹿にした話だと思う。
  というか、一体マッドの何を見ているのかと。
  何処までも追いかけて、逢う為だけに荒野を横断して、なのに出来れば小奇麗な身体で逢いたい
 という非常に矛盾した感情と行為をしているのに、それに何故気づかないのか。
  気づかないほど、マッドを見る事も叶わないほど臆病になっているのならともかく。

 「まあ、あのおっさんに限ってそんな可愛らしい事はねぇか。」

  長年荒野を一人で生き抜いている、図太い男だ。
  臆病風なんてもの、あの男の周りには決して吹きはしないだろう。
  尤も、酷く諦観しているという可能性は、完全に否定できないが。
  思ってマッドは眉を顰める。同時に、水面に映っている顔も顰め面になった。
  一人でいる男が、どういう経緯でそうなったのかはともかくとしても、しかし淡々と荒野を往く
 魂が、何処かで諦めを見つめているという可能性は、決してなくはない。むしろ、諦めているから
 荒野を彷徨うのではないのか。その行程の先に、果たして希望があるようにはマッドには思えない。
 マッドには見えないだけなのかもしれないが。

 「でも、結局、俺にはそれを止める事も出来ねぇんだろう?」

  諦めを覆すほどの力が、マッドにあるとは思えなかった。
  諦観の念を押しのけて、安穏とした死の腕を払いのけるほどの楔を、マッドはあの男に撃ちこめ
 ているのだろうか。だとしたら、それだけでもマッドの道程には意味があるのだが。
  しかしそんな素振りは男の中からは見えず、マッドはそれらは所詮自分の望みでしかないという
 事実に着地する。
  そんな事は既にマッドの中では静かに収まっている事実だ。しかし、時折酷く歯噛みしたくなる
 のは、マッドが男のような諦めを未だ知らないからだろう。
  欲しい物は全て手に入れてきたマッドには、男のような諦観の念を知らない。願えば叶うという
 言葉を丸ごと信じているわけではないが、諦めれば二度と手に入らない事をマッドは知っている。
 だからこそ、手に入らない事実に納得して立ち去るのではなく、地団太踏んで噛みつきたくなるの
 だ。
    男がマッドを欲しがらないという事実は理解している。しかし、理解と納得は違うのだ。
  欲しがられない身体は、ようやく一週間分の垢を削ぎ落し、もう一度擦り寄り、手を出される時
 を待っている。
  湯船から水を纏ったまま勢いよく立ち上がり、滴を一気に払い落として、マッドは風呂場から出
 ていく。
  その時に、一つ一つランプの炎を消していく事を忘れなかった。