ないものねだり
  夜も更け、天に星々がちりばめられた頃、サンダウンは忍び寄る気配に気がついた。
 風が砂を浚う音以外は静寂が支配する荒野では、生き物が気配を隠す事は困難を極める。
 ましてサンダウンは、どれほど身を堕とそうともかつては名保安官とさえ言われた銃の名手である。
 如何に賞金稼ぎが息を殺して近付こうとも、浅い夢の中にあってさえ、その動向が手に取るように
 分かる。
  こそこそと足音を忍ばせる様子に、しかしサンダウンは命の危機とかそういった事以外の理由で
 眉を顰めた。





 バルト






  くるくるとサンダウンの周囲を回りながら、じりじりとよく知った気配が近づいてくる。
  しかも、ご丁寧に息を詰めて。
  サンダウンの隙を窺う賞金稼ぎと言えば、その行動は非常に当然の事だと言えるが、何せサンダ
 ウンは普段の彼を知っている。

  いつもは賞金首相手にそれいいのかと言いたくなるくらい、その気配をだだ漏れにして――しか
 も無防備に――やってくるのだ。
  お前は本当に賞金稼ぎかと疑いたくなるくらい、殺気一つ背負わずに。
  しかし性質が悪い事に、彼はサンダウンが認めるほどにその腕は確かなのだ。
  賞金稼ぎのマッド・ドッグといえば、賞金首にとっては死神の鎌とも言える存在だ。
  彼の顎に掛かって無事だった者は――サンダウンを除けば――いないとさえ言う。
  ならば気配をわざと見せ、油断させておいてその隙に撃ち殺すのだろうとも考えられるのだが、
 残念ながら正々堂々と決闘を申し込んでくるあたりでその可能性は薄い。
  なんとも奇妙な賞金稼ぎに追われる事になってしまったものだと思うが、しかしそれにしても今
 日のこれは今までの彼の行動の中で一番奇妙だ。
  獲物を窺う狂犬というよりも、物陰に隠れて顔色を窺う猫のように、こちらを覗きこんでいる。
 息を殺して距離をじりじりと詰める様は、しかし獲物に飛びかかる寸前の殺気はない。
  しかも距離の詰め方が、横に逸れたり一歩引いたりと何かと忙しない。
  普段ならば迂遠な事などせずに一直線に自分に向かってくる男が、うろうろとこちらの様子を窺
 っている事に、サンダウンは一抹の不気味さを覚えた。
  何なのだ、一体。
  恐らく今までのうちで一番時間を掛けて、マッドはサンダウンにそろそろと近寄ってくる。
  ――というか、此処まで時間を掛けてサンダウンに近付いてきた人間はいない。
  意味もなく気配を隠して――しかも完全に隠し切れていないのは何故だ――その癖、無防備丸出
 しで、マッドはサンダウンの前に膝を着いて顔を覗き込む。
  恐る恐るといったふうに、だが腰の銃に手を掛けずに、マッドはサンダウンの顔に手を伸ばして
 きた。
  ゆっくりと、震える指先が迫ってくる。
  それが頬に触れる寸前、サンダウンは眼を開いてその指を掴んだ。
  その瞬間、マッドの喉から、ひぃ、という声が空気のように漏れた。
  本当に、何なのだ。
  だが、その手を阻まれたマッドは、先程の情けない声はどこへやら、普段の調子でぽんぽんと言
 葉を投げつけてきた。

 「何すんだ、てめぇは!」

  それはそっくりそのまま丸ごとこっちの台詞である。
  呆れを込めた眼で見やると、マッドは放せよと言い、ぶんぶんと手を不必要に振ってサンダウン
 の手を振り払った。
  そして何やら怨みがましい目でこちらを見ている。
  一体全体、この男はさっきから何なのだ。
  霜を張ったような天を頭上高くに戴く荒野で、賞金首と賞金稼ぎは半径30cm以内で地面に座り込み、
 銃を抜くでもなく睨み合う。
  先に眼を逸らしたのは、不貞腐れた表情を隠しもしないマッドだった。
  年齢を聞きたくなるくらいの脹れっ面で、そっぽを向く。
  そして、その意味を小一時間問い詰めたくなるような台詞を吐いた。

 「いいじゃねぇか、髭を触るくらい。」

  わけがわからん。
  長い人生の中、サンダウンは初めて心の底からそう思った。
  髭ってあれか。
  思い違いでも、自分が知らぬ世界の言葉でもなければ、この髭の事か。
  それを触りたいというのか、この男は。
  だとしたら、やはり―――わけがわからん。

 「なんだよ、別に減るもんじゃねぇだろ。それとも何か?大事な髭は他人に触られたくねぇってか?
  へっ、随分と髭ってのは御大層なもんなんだな。それを生やしてるあんたも良い身分だってか?
  ちくしょう、御大層な髭生やしやがって。それは俺への当て付けかよ。」

  呪詛と言うよりも、地団太踏む子供の癇癪のようなマッドの台詞は、存分に支離滅裂である。
  サンダウンは髭に触ろうとするのを止めたのではなくて、マッドがいつにない奇妙な行動を取っ
 ていたからその手を止めたのだ。別に髭なんぞ大切でも何でもない。勝手に生えてくるものをその
 ままにしているだけであって、見る者が見れば、ちゃんと整えろくらい言うかもしれないような髭
 で、立派なものではない。
  というか、何故、そんなに髭に拘る。
  そもそも髭がマッドへの当て付けになる意味が分からないのだが。

 「いいじゃねぇか、髭。」

  ぽつりと零された台詞に、サンダウンは本気で悩んだ。
  今、冗談抜きでマッドを見失いそうだ。

 「分かってるよ。どうせ、髭のある奴に、髭のない人間の気持なんか分からねぇんだ。」
 
  いや、完全に見失った。
  分かったのは、マッドが髭に並々ならぬ執着を持っている事だけである。
  一瞬、マッドが自分を追っているのは、髭に執着しているからじゃなかろうかと、馬鹿な事さえ
 考えた。

 「髭くらい、生やせばいいだろう。」

  辛うじて声に出す事が叶った言葉に、マッドはきっと睨みつける。
  なんとなく涙眼な気がするが、多分気の所為だ。そう言う事にしておこう。

 「生えたら苦労はしねぇよ。一週間髭を剃る必要のない人間の事なんか、てめぇ考えた事ねぇだろ。」

  一ヶ月頑張ったけど断念せざるを得なかったんだ、という血を吐くような叫びに、サンダウンは
 目眩を感じた。
  まあ確かにマッドの体毛が濃くない事は――あれやこれやをやってしまった身としては――知っ
  ているが、そんな悩みを聞かされても困る。
  そもそも、それ以前に髭の事自体そこまで深く考えないから。
  しかしそれを口にした時点で失敗だった。
  マッドは本気で――さっきまでも十分に本気だったが――食ってかかってきた。

 「ああそうだろうな!普段から当たり前に髭があるてめぇには無意味な思考だもんな!髭がなくて、
  童顔だとか言われたり、年齢より下に見られる事だってなかったんだろ!」

  ばんばんと地面を叩くマッドに、髭云々よりもそういう行動が年齢より下に見えるのではないか
 と思った。
  それにしても、やはり何故そんなに髭に拘るのだ。
  サンダウンにしてみれば、髭のあるマッドは想像もつかない物体なのだが。
  だが、お前に髭は似合わんだとか、髭がないほうが可愛いだとか言っても――本気でそう思って
 はいるのだが――慰めの言葉は多分、火に油を注ぐだけだろう。
  逡巡の末、口にしたのは、慰めどころか見当違いな言葉だった。

 「髭がないからといって、禿げるわけでもないだろう。」
 「はっ、写真で見たけど、親父の爺さんもお袋の爺さんも髪はふさふさだったぜ。」

  見当違いな台詞に自慢げに返すあたり、マッド自身、自分で何を言っているのか分かっていない
 可能性がある。
  だが、それなら良いだろうという台詞に対しては、良くねぇよと自分の言った事を忘れていない
 言葉が返ってきた。 
  どうしろと言うのか。
  本気で困り果てたサンダウンに、マッドはもう良いと背を向ける。

「てめぇみたいな朴念仁を頼ったの俺が馬鹿だった。他の髭に頼めば良いんだ。」

  いや、何を頼られたのか分からないのだが。
  困り果てるどころか、困惑の海に呑みこまれたサンダウンを余所に、マッドはぶつぶつと呟く。

 「へっ、髭も触らせてくれねぇ心の狭いおっさんなんか相手にしてられるか。他の、もさもさした
  おっさんだったら、髭の一つや二つ触らせてくれるだろ。あまつさえ、頬ずりくらいさせてくれ
  るかもしれねぇ。」

  ちょっと待て、お前は髭を生やしたいんじゃないのか。
  それの解決策として、髭を触らせて貰うというのはどういう意味か。
  その前に、頬ずりってなんだ頬ずりって。
  お前は髭があったら誰でも良いのか。

  去り際のマッドの腕を、咄嗟に掴んだサンダウンの胸に去来していたのは、先程まで深く心を満
 たしていた困惑ではなく、それさえも吹き飛ばす妄想の嵐だった。
  マッドが何処かの馬の骨と頬ずりしている場面をうっかり想像できた時点で、サンダウンも髭の
 魔術にやられていたのかもしれない。
  が、生憎と妄想に支配された男に、冷静な判断など出来るはずもない。
  マッドの腕を掴んで引き寄せ、サンダウンは低く言った。

 「髭ぐらい触らせてやる。」

  その瞬間、マッドはくるりとサンダウンに向き直った。
  それどころかちょこんと正座までして、眼を丸くして、しかし輝かせる。

 「本当か?」
 「ああ………。」

  思う存分触れ。
  頬ずりしても構わん。

  心の中でだけ呟き、眼をきらきらさせている賞金稼ぎを促す。
  居住まいを正した賞金首は、恐る恐る手を伸ばす賞金稼ぎに、僅かに残った理性で問い掛けた。

 「………髭を触れば髭が生えるという呪いでもあるのか?」
 「ねぇよ、そんなもん。俺はふさふさの髭に触りたかっただけだ。」

  自分じゃ生えねぇしと言うマッドに、サンダウンは、だったらさっきまでの罵りは一体何だった
 んだ、と思う。

 「髭を生やしたいのは嘘じゃねぇぜ?」
 「……………。」
 「でも、あんたの髭に触りたいんだ。」
 「触れ。」

  ふわふわしてそうだ、と呟くマッドは、期待に満ちた眼差しでサンダウンに手を伸ばす。
  だが、マッドは知らない。
  人間の髭は、実は同じ太さの銅線に匹敵する硬さがあるという事を。

  マッドの夢が打ち砕かれるまで、あと、数秒。