Side.Re

 手を伸ばした。
 届かなかった。
 未だ秋の始まりであるというのに、今年は冷え込むのが早い。既に雪さえ降って、冬を越す為の獣
の実りさえ望めない。
 飢えた獣が人里に降りて、人を襲うという話を他人事として聞いた。いや、人を襲った獣は、人に
恨まれ、やがては待ち伏せされて鉈や鍬で殺されるという。飢えて人を襲うのは自分も同じだ。なら
ば、いずれは返り討ちにあうという点では、他人事ではない。
 人里は、殺伐としている。
 実りのない秋は、獣に襲われるが故に、そして人にもまた飢えが襲い掛かるが故に、何処か明かり
の灯る人里でさえ、寒々しく、他人を信じない冷たさに覆われる。警備の物々しくなった路地では、
何もしていない孤児でさえ、小突かれ、里から追い払われる。追い払われなければ、甚振られて死ぬ
だけだ。
 だから、極力、里には下りない。下りたとしても、人がいない氷の張った、氷柱で囲まれた隅で息
を殺すだけだ。
 だが、里に下りないという選択をすれば、あるのは荒涼とした木々と、獲物に飢えた獣の唸り声だ
けが広がっている。事実、痩せ衰えた木々の隙間に、物乞いと思われる死体が、食い散らかされてい
るのを幾度となく見かけた。
 ああは、なりたくない。
 その思いで、一心に木の枝に手を伸ばす。木の上ならば、獣の襲撃も防げよう。
 そして。
 枝の先端。実らぬ実が、ぽつりと浮かんでいる。まだ青く、食べごろと言うには遠く、そして胃袋
を満たすには小さい。
 しかしそれでも、あれが手に入れば、やせっぽちの胃は、悲鳴を上げるのを一瞬とは言え止めるだ
ろう。
 その実が、毒を持っているのか、持っていなくとも腹を壊すのではないか、という不安は少女の中
にはない。
 ただ、ひたすらに、その日を食いつなぐためだけに、手を伸ばした。






Side.Ob

「たわけが。」

 辛辣と言うよりも、呆れを滲ませた声と共に、閉じた扇子がぺしりと額を打った。手裏剣を投げる
のと同じくらいの精密さで投じられた扇子は、己の額を打った後、ころりと畳の上に転がり落ちる。
 頭の見事な投射術に感嘆の声を上げるよりも、かっと頭に血が昇る方が先だった。
 たわけとはどういう意味にござりますか。
 たわけはたわけだ、それ以上の意味があるか。
 頭に血が昇ったまま、頭に問う。声は、やはり興奮のままに上擦っていた。
 そんな若者の様子に、海千山千の一族の長は、やれやれと声に出さんばかりの態度で、呆れを全身
から滲み出させている。

「お主の考えは、甘い。」

 羊羹を一本丸々食うた後のように、胸やけさえするほど、甘いわ。
 肘掛けに凭れながら言う様に、ますます頭がかっかする。

「そのような理想論、我等には要らぬわ。」

 若かった所為もあるだろう。いや、若いというよりも子供だったのだ。子供にしか通用せぬ道理を
振り翳すのは、普通の子供ならば許されようが、永遠に影として生きる者には年齢に関わらず不要の
もの。
 無為の長物を振り翳す若者に、頭が呆れた眼差しを向けるのも仕方がない。むしろ、呆れた程度で
済まされたのは僥倖だ。
 だが、それさえ分からぬ子供は、激高し、辛うじていきり立って怒鳴り散らしたり、よもや頭に襲
い掛かったりはしなかったが、そうそうに大人達に羽交い絞めにされ、追い出された。

「青い青い。」

 頭が放り投げた扇子を拾いながら、唄うように言ったのが、閉ざされようとしていた襖の奥から聞
こえた。






Side.Sn

 吠える犬を見て、まだ、若いな、と思う。
 怒るほどに逆立つ髪と、唸り声と共に見上げる双眸は、ぎらぎらと輝きを増して生きているとはこ
ういう事であると、正に体現している。己の手に届かぬものは何一つないと、もしもあったとしたら、
それは間違いであり、必ずや手中に納めると、信じ切っている。
 その様子を見下ろしながら、はて自分の若い頃はこうも鮮烈だっただろうか、と振り返る。
 いや、こんなふうに鋭角的に生きてはいなかった。丸みを帯びていたわけではないが、しかしもっ
と、有態に言えば、枯れていた。こんなふうに貪欲に、肥大化しようとはしていなかった。ただ、土
のあるところで、名もなく花も咲かせない雑草のように生きようとしていた。
 ところが目の前の男ときたら、荒れ果てて乾き切った荒野であるにも関わらず、とにかく果てしな
く根を張り、何処までも両手を広げて、何が何でも咲き誇ろうとしている。
 花を咲かせずとも、そこまで声を張り上げていれば、誰だって眼を落すだろうに、それでは足りな
いと地団太踏んでいる。荒野で咲き誇らねば気が済まないと唸っている。
 そうだろうとも。
 嘆息して、もう一度、見上げる黒い眼を見下ろす。
 もしも咲き誇ることができれば、それはそれは見事な大輪の花になるだろう。名もなき花なんても
のではない。野に咲く可憐な花ではない。純朴な花でもない。
 誰もが見知った、見た瞬間にそれと分かる、王者の花になることだろう。
 それが、いつの日なのかは分からないが、決して遠い未来でもない。その未来が、訪れることがで
きるかどうかは別として。
 ぎらりと眼が瞬いた。
 凄まじい勢いで根を張り、天を向く。けれども蕾はまだ膨らんだばかり。色合いさえまだ分からな
い。
 けれども、分からないが、いつの日か咲き誇る色はきっと真っ赤だろう。













より
青いもの

何?