Side.Ol

 一撃二撃と、身体に鞭が振り下ろされる。
 私を裏切り者だと罵り、魔王だと叫ぶ声がして、それらが私を絡め取り、何度も何度も責めたてる。
 何が起きたのか分からない、と言ってみたところで、彼らの耳には届かない。いつも眼先にあるも
のばかりで世界を判じてきた彼らには、何処かで陰謀が渦巻くなど想像もしていなかった。それほど
この世界は平和だったということだろうか。
 事実、私も何かおぞましい陰謀が、脚元で蠢いているだなんて想像だにしなかった。その点、彼ら
と同じ、愚か者だった。責めたてる彼らの声に、ただただ違うのだと叫び、しかし脳裏で何が起きた
のかと訝しむだけだった。
 そして、その時になっても、私は疑問だけを腹の中に納めて、私を罪人だと喚く声を聴くだけだっ
た。逃げるだとかそんな考えは、私の中には微塵も生まれなかった。ただ、私を導いた一片が、命を
かけて逃げろと言ったから、私は逃げ出したのだ。
 信じてくれる者が何処かにいるだろう、という言葉を寄る辺に、私を猟犬のように捜す衛兵の眼を
掻い潜り、冷たい岩肌も剥き出しの山を、ひたすらに登った。
 登ってどうなる。
 分からない。
 自問自答したところで答えなど出ない。いや、そもそも登ることに些かの疑いもなかった。山を登
れば、確かに何かがあると信じていたし、報われると心底から思っていた。報いが降りかからないこ
となど、考えもしなかった。
 疲れ切って、今にも萎えて崩れ落ちそうな脚は、しかし山頂に辿り着けば力が漲り返すものである
と。
 そうだ、自分は勇者であると、愚かに騒ぐ民草の言い様を、私はそれでも尚、縋って山を登り行く
糧にしていたのだ。
 けれども冷たい岩肌をよじ登る腕は、力を取り戻すどころか赤く血が滲み、脚は持ち上げることさ
え億劫で、ただただ引き摺るのみだ。傍目から見れば、一体何をしているのかと呆れ返られる状況だ。
山など登らず、とにかく森を抜けて逃げ出すべきだ、と人は言うだろう。
 だが、そんなこと私の頭の中には思い浮かべることもできなかった。
 私は、勇者だ。
 その言葉で私の思考は完全に止まっていた。
 山に登り、諸悪の根源を断たねばならぬ、と。
 身体に鞭打ち、魔王がいるであろう山を登る。魔王の首級を上げる時に、既に限界であった体力が
再び戻るであろうと、根拠もない自信だけがあった。
 しかし、そんなことが起こるはずもない。
 冷静に考えれば、そうだ。
 ただの辺鄙な片田舎である小さな国の中で、ただ武闘大会で優勝しただけで勇者と呼ばれただけの
男に、伝説の戦士如き力があるわけもない。神に選ばれたわけでもなければ、遠い祖先に英雄がいる
わけでもない。木の根元に刺さった剣を引き抜いたわけでもなければ、魔法使いから不思議な力を与
えられたわけでもなかった。
 傷を癒す魔法は知らず、闇を断つ伝説の剣もなく、あるのは疲れ切った己の身体のみ。
 それでも、停止した思考だけが生み出す根拠のない自信と盲目な無知が、私を山頂へと導く。
 そうして私を迎えたのは。
 偉大な龍の化身でも、試練の神でも、美しい妖精でも、まして宿敵たる魔王でもなく。
 私を裏切った親友の、醜い笑い声だった。





Side.Ob

 失敗とは死だ。
 彼の世界では、そういう理になっていた。
 むろん、すぐさま死に直結するわけではない。汚名を返上する機会は、余程のことがない限りは与
えられた。特別に、幕府の上層に食い込むのではない限り、失敗しても痕跡なく逃げ出せば、次の機
会を与えられた。そもそも逃げ出せねば、その場で死が齎されるのみだ。
 それを踏まえれば、自分の仕事とは逃げ足が速くなければできないのだろう。
 ただ、幸いにして逃げ足云々を抜きにしても、自分はなんとかこの仕事を続けて、生き延びている。
つまり、組織から見て、失敗らしい失敗はない、ということだ。 
 だが、果たして本当にそうなのか、と首を捻るしかない仕事が一つだけ残っている。 
 己の中で、今までの仕事を失敗と成功に切り分ける。
 ほとんどの仕事は、生き延びることができたという結果論を入れれば成功であったし、それを抜き
にしたら、成功か失敗のどちらかに切り分けられる。
 しかし、唯一、どちらにも属さぬ任務があった。
 あれは、果たして成功したのか。
 かつて、一人の要人を救い出すという任務を請け負った。それは恙なく終わり、要人は救い出され
た。
 それを以てすれば、間違いなく任務は成功だ。
 彼も何事も無く、里に戻ることができた。
 そして、その任務から幾許の月日が流れ、その間も幾つもの任務を請け負っては成功し、或いは逃
げ出して事無きを終えることもあった。その繰り返しの日々の中、彼は激動の時代から新しい夜明け
を迎えることになるのだが、その夜明けの前。
 京の都が荒れに荒れた、激動の終末。物事が一つの終わりを迎えるその直前の、喧噪の最中。
 一つの知らせを聞いた。
 かつて、あの時、自分の救い出した要人が、とある場所で暗殺された、と。
 その場には自分はおらず、誰もその要人に関する仕事は請け負っていなかった。だから、既に要人
は自分とはまるで関わりのない赤の他人となっている。
 しかし、飛び込んできた報せは、赤の他人の死を知らせる報せは、確かに彼の中に何かを深く残し
ていった。
 悲しみだとか、そういった感傷的なものではなく。
 ただの、己の任務が最後の最後で、何かを違えたかのような後味の悪さが残った。
 そしてその死は、激動の時代の幕開けの嚆矢であり、そして確かに奇妙な謎として、延々と残って
いる。





Side.Sn

   傷付く部分など、もはや何処にも残っていない。
 そう思っていた。
 かさついた手の中には何も残っておらず、眼の前に広がる大地も乾ききり、何も生み出さぬ不毛の
土地だ。そこで再び何かを掴み取るなど、この先の人生であるわけがないと思っていた。
 己を貫いたものは数多くある。
 例えば一番最初に、命を一つ奪った時。まだ幼い小鹿の眉間を猟銃で撃ち抜いた。
 例えば生まれて初めて人を殺した時。周囲に死体が転がる戦場だったが、しかし人の肉を銃弾が貫
く音は生々しく耳に残っている。
 例えば初めて捕えたならず者を縛り首にした時。恨みがましい死体の眼球が、今にも零れ落ちそう
だった。
 例えば自分の力及ばず、町人がならず者に殺された時。その時、はっきりと人々の言葉が、鋭さを
増して自分を糾弾した。
 最後に、護るべき者を護れない己の不甲斐なさが、自分を撃ち抜いた時、胸にあった銀の星を手放
すことを決めた。その背に突き刺さった人の言葉は、既に深く深くにめり込んでおり、自分と一体化
してしまっている。きっと、引き抜けば血潮が噴き出し、その時自分は死ぬのだろう。
 己を責める人々の言葉が、自分を生かしている。
 そう考えると、奇妙な気分になったが、同時に酷くしっくりときた。自分は、己の裡に向かう牙が
なければ、己を責めたてて罪を自覚させる何かがなければ、生きることさえ理解できない存在に成り
下がっているのだろう。
 責められること以外に、罪の償い方も分からないし、そうやって許しを感じているのだ。
 しかも、その事実でさえ、人に言われるまで気が付かなかった。
 どうしようもない。
 そう、切って捨てられて、初めて自分の身体を貫く言葉が、やたら甘い砂糖菓子でしかないことに
気が付いた。鋭いようでいて、実は自分にとっての養分になっている。己を責めて、許すために存在
する、甘い糾弾。
 どうしようもねぇな。
 吐き捨てられた言葉には、一切の甘さもない。
 お前が悪いのだとも、お前が悪いわけでもないとも判じず、ただひたすらの呆れを滲ませた声は、
峻烈だった。立ち竦んでいると、鼻先で嗤われた。
 大馬鹿野郎。
 まるで白刃の剣。轟音を立てる鉛玉。触れても甘味はなく、痛みさえ感じない。ただ、真っ直ぐに
心臓を貫いた。身体の何処かに留まって、傷口に蓋をする事さえ許さない。そのまま通り過ぎ、何処
かに去っていく。
 ただ、眼前に眩いばかりの白さを残して。
















鋭い
ものは何?