Side.Yn

 さらり、と肩に被せられたものがあった。
 山岳部の冬は寒く、板の隙間から外を覗けば、しんしんと静寂の音を立てながら、雪が降り積もっ
ている。古びた火鉢を取り出して、傾きかけた小屋の中を温めるも、なかなか思うようにはいかない。
 なんとも辛い時期だ。
 少年は、何度も息を吐いて手を温めながら、降りやまぬ雪を眺める。手の指は既に幾つもの霜焼け
が出来ており、赤く腫れ上がっている。これを直すには軟膏を塗って、丁寧に何度も何度も指をさす
る必要があるのだが、それをしている暇など、朝から晩まで働きずくめの少年にはないし、それに軟
膏を買う無駄な金もない。そもそも、仮にそうやって指を擦ったとしても、また凍えた風に曝されて、
すぐに元に戻って終わりだ。
 そんな意味のないことをしている余裕など、何処にあろうか。
 けれども、と少年は赤く腫れ上がった指を見る。そして、小屋の片隅で火鉢を抱えるようにして身
を丸くしている老婆を。
 老婆の指も、少年と同じく赤く腫れ上がっている。枯れ枝のような指が、この時ばかりは信じられ
ないくらいに腫れ上がっているのが、その対比が、心に迫るほど痛々しかった。

 だが、少年には何もしてやれない。
 蹲る少年に、老婆は小さく微笑んでいる。祖母は、いつもこうして微笑んでいるのだ。何も心配は
ないのだと言わんばかりに。そんなこと、全くないというのに。そしてそうさせているのは、紛れも
なく自分なのだ。
 俯く少年に、老婆が少女のような声で囁く。
 雪が降っていると、明るいから良いねぇ。
 凍えるような寒さの中、雪明かりだけが一抹の奇跡だった。その明かりに、些かの温もりも感じら
れないけれど。
 祖母が、不格好になった手で掛けてくれた半纏を掻き合わせながら、止まない雪を見つめた。






Side.Ak

 既に日は傾きかけていた。
 オレンジ色から闇に転じようとしているアスファルトの上には、幽霊のようにゆらゆらと長い影が
伸びて、自分の一部分であるはずなのに何か別のものに見える。まさか、影の中から何か化け物が生
み出されるわけもあるまいに、と鼻先で笑ってみても、背後にいる妹が今にも泣き出しそうに顔を歪
めているのを見ると、なけなしの負けん気も萎み気味である。
 大丈夫に決まってるだろ。
 口を尖らせて、これだから女ってのは泣き虫だから困る、と言う。
 どうせもうすぐ帰れるに決まってる。夜になりそうだからっていうくらいで、泣くんじゃねぇ。
 西日の最後の帯が途絶えそうな様子を眼で追いながら、そんなことはどうってことないという風情
で、妹と、そして自分とに言い聞かせる。だが、妹の表情は優れない。
 確かに無謀だった。
 子供二人で知らない街に背を向けて、知っている自分の家――冷静に考えれば父がいなくなった以
上そんなものは失われている――に戻ろうなど、無茶にも程がある。けれども、子供というのは無分
別なもので、妹が家に帰りたいと一言でも口にした以上、それを叶えようとするのが兄だった。
 だが、知らない街から知っている街に向かうというのは難しいもので、ましてそれが隣町であった
としても、子供に町の位置関係を把握できるはずもなく、呆気なく道に迷ってしまったのだ。
 ひたひたと忍び寄る闇の気配に、その中にはけれども実は何も忍んでいないことを知っている。父
が死んだ時から、どういうわけだか、闇の中に恐怖の種があるといった子供特有の恐れは、失われて
しまった。
 それは、妹も同じであるはず。
 だが、それでも子供の中に、いるはずもないと分かっている恐怖が、静かに息を潜めながらも、こ
ちらの隙を突こうとして見つめているような気分に陥る。
 ごめんなさい。
 妹の、か細い声が耳を打った。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す妹の眼からは、とうとう涙があふれ出ている。どうして
泣くんだ、と闇の向こうの恐怖を見据えそうになった兄に、妹は続ける。
 わたしがわがままをいわなければよかったのに。
 ぽろぽろと涙を零しながら言葉も一緒に零す妹は、ぎゅう、と手を握り締める。小さい手は、じわ
りと温かい。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 妹の声は、とうとうしゃくりあげるものに変わった。少年が、それを止める術はなく、ただそこに
立ち尽くすしかない。
 西日が潰える中、妹の手だけが闇に埋もれず、少年を繋いでいた。





Side.Ol

 ひらりひらりと降り注ぐ。
 霞んだ視界は既にほとんど映っておらず、はらはらと舞い落ちる灰の気配だけが、自分がまだ此処
に留まっていることを知らしめた。薄ぼんやりとした視界には、ただ穏やかな光だけが満ちているよ
うだ。
 うつらうつらと眠気にも似た感覚が迫りくる中、思考の片隅で、なるほどこれが死というものか、
と妙に納得していた。
 死というのは、もっと荘厳であるか、或いは恐怖に満ちたものであると思っていた。苦痛が溢れか
えったものであると思っていた。
 だが、実際はどうだ。
 恐怖に満ちていたのは彼の晩年であり、苦痛ばかりを生み出したのは自分達であった。
 今、確かに足音を立てて歩み寄る死の色は、痛みに歪んでもいなければ、目も覚めるような恐れを
纏わりつかせてもいない。
 ただただ温い、陽だまりのような緩みがあるばかりだ。
 人生の終わりがこれか。
 妙に呆気ないような、しかし穏やかであることに安堵したような、不思議な感情が、まどろんでは
消えていく。
 随分と、命が燃え尽きる間際は、目まぐるしく全てが変化し、信じていたものが粉微塵になったけ
れども、それさえも忘れてしまうような、緩い光が頭上に降りかかってくる。事実、既に己が何者で
あったかも、思い出せない。身体に降り積もる灰が、果たして何を意味していたのかも分からない。
 分かるのは、ただ自分の命の果てが、この先にあるということだけだ。
 こつこつと、足音を響かせながら、死が眠気を伴ってやって来る。
 白んだ世界の果てで、何も思い出すことはない。死の形がどんな色をしているのかも、もはや分か
らないし、分かったとしてもその意味を思い出すこともないだろう。
 ただ、眠い。
 眠ってしまいたい。
 その感情に逆らう必要性も見いだせず、光と灰に満ちた世界に眼を閉じた。
 同時に、意識はふっつりと途絶えた。













より
柔らかいもの

何?