Side.Re

 耳元で、聞き苦しい喘ぎ声が聞こえる。
 耳の奥で、どんどんと大地の底から響くような何かを叩く音が聞こえる。
 頭が痛い。唾を飲み込めば、ぎゅっと何かが捻じれるような感覚が、眼の裏側でちらついた。煩悶
する視界は、その捻じれが形を伴ったからだろうか。
 いいや違う。
 少女は、泥濘に身を埋めながら、耳障りな音の向こう側に、己を捕まえようと躍起になっている大
人の足音が聞こえないかを、唾を何度も何度も飲み込みながら、確かめる。そうしてようやく、喘ぎ
声は治まった。同時に、少女の喉の奥はひたすらに苦しくなったけれども。
 冷たい石の塀に貼り付いて、出来る限り自分の姿を小さくする。喘ぎ声など一つでも零せば、奴ら
はそこから、忽ちのうちに少女を引き摺りだす事だろう。
 たった一つの饅頭くらい、いいじゃないか。
 少女は、未だに鳴りやまない胸の奥で響く深い音に顔を顰めながら、今も自分を探し回っているで
あろう大人達に毒づいた。
 盗んだ饅頭は、懐の中で潰れてしまっている。だが、食べられないわけじゃない。残飯などで糊口
を凌いでいる少女にとって、そんなことは些細なことでしかなかった。
 そして、大人にとっては、あれ程ある饅頭が、たった一つなくなったことが、まるで些細なことで
はないらしい。
 どう見ても食うに困っていない、少なくとも屋根のある場所で暮らしている彼らが、何故ああまで
して饅頭一つに拘るのか、まだまだ幼く、そして自分以外に信じるもののない少女には、分からぬこ
とだった。
 大人達にもそれぞれの事情があると言っても、今一瞬が生死の境である少女には、理解できる道理
ではない。
 少女は、生きるために、生きるために必要な息さえ殺しているのだ。
 ……………
 どれくらい、時間が経っただろうか。
 冷たい泥濘に蹲った少女は、ようやく自分の胸が、鳴りやんだのを機に、身を起こす。人の気配は
何処にも感じられない。少女は逃げ切ったのだ。
 安堵がじわりと腹の底から染み渡り、少女は寒空の下、真っ白な息を大きく吐き出した。





  Side.Cb

 あれが雪というものだ、と、地球に初めて降り立ったその年の冬、己の製作者は広がる景色を指差
してそう告げた。
 最近では豪雪地帯でもなければ、なかなか雪は降らないと彼は口にしたが、過去のデータを見る限
りでは、その言葉はあまり本当のことではないようだ。都心でも雪は積もっている。積もる量が少な
いというのも、道路状況が昔と比べて改善されたからである可能性が高い。
 だが、そのようなことは口にせず、自分よりもずっと高い位置にある視覚センサーで、所謂雪景色
というものを眺めている製作者の動きを、逐一観察する。
 彼は、今、どうやら『笑み』というものに分類される表情をしているようだ。
 地球という大地が久しぶりの所為もあるだろうし、あの宇宙船に関係する取り調べが一通り終わっ
てようやく身体を休ませることができるようになったのだ。彼の四肢からは緊張が抜け、リラックス
していることがセンサーでも感知できる。
 初めて見るだろう?
 そう、当然のことを言う彼に、水を差すような返事はしない。
 宇宙船の中で彼に作られ、まだ数か月としか経っていない人工知能には、膨大な知識がインストー
ルされているが、それらは所謂データバンクから持ってきたもので、この機体に搭載された人工知能
そのもののデータではない。
 確かに目の前に広がる光景を何であると判じることは可能だが、これは間違いなく始めてデータと
して保管された風景である。
 静かに返答をすると、彼は笑みを深めた。
 僕の故郷では、こんなに積もることはなかったからね、久しぶりにこんな銀世界を見たよ。
 遠出して良かった、と呟く彼の鼻先が少し赤いことが気にかかる。何せ、外気温は氷点下を下回っ
ている。普通の、この星で生まれた生命体であるならば、寒さを感じるのが普通だ。着込んではいる
が、しかし露出している顔は、やはり体温が低下している。
 そろそろ部屋に戻ったほうが良い。
 そう判断した時、彼が呟いた。
 お前に、この風景を見せられてよかった。
 生まれて初めての経験が、あんなものだったけれども、この風景を見て、世界には美しいものがあ
るのだと、少しでも思ってくれたら。
 こちらを見ずに何処ともつかぬ場所を見て呟く彼に倣い、青と白で二分された世界を、しばらく視
覚センサーに焼き付けた。





Side.Ak

 生まれて初めての葬式は、実の父親のものだった。
 母親は知らない。少なくとも、物心ついた時には既におらず、父親からは天国でお前達を見守って
いるんだと言われた。記憶の果てにあるアパートの一室で、小さな遺影があったから、きっとそうい
う事だったのだろう。
 そして、幼い妹がようやく幼稚園に上がるかという頃、父親もまた、天国に旅立ってしまった。
 死んだ父を見つけたのが自分であることが、今でも心の奥底に重苦しいしこりを残している。ただ、
幸いであったのは、斃れた父を見つけたのが妹ではなかったということだけだった。
 死んだ父親は、死亡解剖に回された後、荼毘にされた。
 父親も母親も、既にそれぞれの両親は他界しており、親類縁者とも疎遠であったから、それらの手
続きをしてくれたのは、おそらく警察関係者か誰かだろう。幼い兄妹では、葬式の手続きなんて出来
るはずもない。後で聞いたところによると、やはり警察の誰かが色々と手配してくれたらしい。その
誰かが、保護施設へ入る手続きもしてくれたらしいのだが、それが誰なのかは未だに知れない。
 ぼんやりと、もしかしてあの人か、と思うこともあるのだが、その人は警察関係者じゃなかったか
ら、やっぱり別の誰かだろう。
 その時、身の回りにいた大人の顔なんか見ちゃいなかったから、会ってお礼をしようにも、できは
しないのだが。
 何せ、子供だった自分達には、ただただ父親がいなくなってしまったことを、嘆くしかできなかっ
たのだ。周りで何が起きているのかなんて理解できるはずもない。保護施設に辿りついた時、ようや
く、自分と妹が、この世で二人きりなのだと思えたくらいだ。
 それまでは、ただ、火葬場の煙突からたなびく煙だけが、目の中にちらついていた。煙が消えた時
には、随分と小さくなってしまった父親の遺骨が、膝の上に乗っていた。
 父の骨は、今も墓には納められず、自分の手の届くところにある。
 だが、それもそろそろ母親と同じ墓に納めようかと思っている。自分の中で、一つの区切りが、す
っと着いたからからだろうか。それとも、別の骨を、今度こそ背負って生きていかなくてはならない
からだろうか。
 自分でも釈然としないまま、けれどもやはり、父と母は一緒にいさせてやるべきだろう、と思う。
 そして、代わりに背負うことになる骨は、しばらくは手元に置いておくことにしよう、と思う。こ
の骨は、おそらく、自分達兄妹だけのものにはならないだろうけれど。
 母の元に父を帰す前に、そっと最後に遺骨を覗いてみる。
 骨といっても既に骨としての形ではなく、触れれば灰になりそうなそれは、ただ、さらさらと白か
った。





Side.Ol

 なんて美しい。
 最初、塔の下から見下ろしたその顔を見て、真っ先に心の中に閃いたのは、それだけだった。遠い、
けれども視界が広がったのかと思うほど、その顔ははっきりと見て取れた。
 美しい、と思ったのは、正に考えることではない。
 何が美しいのかも、その顔を見た瞬間には言葉にできない。
 思ってからしばらくしてから、ようよう、その顔を隅々まで見つめることができた。
 波打つ豊かな森のような紫紺の髪。その髪と同じ色をした、そして夜空に瞬く星を飛じ込めたかの
ように輝く瞳。薔薇の花弁も色褪せるほどに鮮やかで艶やかな唇。
 そして何よりもその肌。
 以前、行商人が売り物として持ってきた、陶器のような滑らかな肌。百姓女や町娘の褐色の薄汚れ
た色ではない。ただ、光が透けるほどに、白い。触れれば、正しく陶器のように、割れてしまいそう
だ。
 共に見上げる村人達も、同じように美しいと呟いている。
 その美貌は母親譲り。
 過去、魔王を惑わしたほどの母親と同じく、彼女もまた、言葉を絶するほどの美しさに溢れている。
 百合の花のよう。
 誰かが呟いた。
 白百合が、人の姿を取れば、間違いなくその姿。聖母マリア。その人と同じ姿を象るのでは。囁き
合う人々の言葉は、教会が聞けば激怒しそうなものだが、彼はそんなことよりももっと不敬なことを
考えている。
 聖母マリア?
 そんな、古びた語り疲れた擦り切れた聖書の女よりも、今、間違いなく息づいている彼女のほうが、
ずっと美しいではないか。
 村人達の歓声に、王女がその細い手をそっと振る。硝子細工よりも繊細。同じ人間なのかと疑うほ
ど、周りにいる女達とは比べ物にはならない。
 熱気の所為か、それとも村人達の歓声に何か心動かさせるものがあったのか、真っ白だった頬に、
微かな赤味が差した。
 紅色。
 だが、それよりも。
 やはり、陶器のように白いままのほうが良いと思うのだ。











ミルクより




は何?