Side.Ak

 すれ違う人々の顔を見る。少しでも目線をずらし、彼らの眼を見つめれば、その心は読み取れる。
今までずっとそう思っていた。
 人の心というのは簡単だ。
 幼い頃から、彼にとって人の心というのは簡単に手に取れるものであって、眼に入る風景と同じよ
うなものだった。ドラマや漫画で、主人公やヒロインが「貴方の考えていることがわからない」とい
うような台詞を吐くたびに、鼻先で笑い飛ばした。
 彼にとって、心は風景だ。
 人の眼を見つめれば、いとも容易く手に入る。
 別に、だから誰かよりも自分が優れているだとか、優越感に浸るだとか、そういう心持になった事
はない。人の心が読み取れたからといっても、それで得をすることはあまりない。
 カードゲームでの賭け事ならともかく、競馬なんかではまるで意味がない。喧嘩をしている時に相
手に出方が分かるかといえば、喧嘩の真っ最中に心を読んでいる暇なんてない。
 そもそも人の心を読んで得をするのは、相手に悪意があった場合のみだ。
 こちらに対して好意を持っている人の心を読んだところで、ほとんど意味はない。何故なら、その
好意は何らかの形でこちらに齎されるからだ。
 齎される、という意味では、悪意もそうなのだが、しかしベクトルがまるで逆方向。それを避ける
には、人の心が読むというのはとても役に立つ。尤も、通り魔的な何かも場合は、やはり意味をなさ
ないが。
 それに、悪意というのを読み取るのは、実は結構負担がある。精神的に、わりとクルのだ。他人の
悪意に引きずられるとかではなく、ただただ、こいつ俺のこと嫌ってんのか、というのがしっかりと
分かる。初対面の人間ならともかく、実は結構気が合ってると思っていた人間からそういうふうに思
われていると知るのは、わりとダメージがあった。
 だったら、心なんか読まなければ良いだろう。
 だが、読まずにはいられないのは、腹の底では他人にどう思われているのかが気になる臆病者だか
らだ。人の心を読んで、こいつは自分の敵、味方、と分けて、自分を守る城壁を作り出したいからだ。
そうするためには、心を読むという力は確かに役に立つ。
 なのに。
 自分の味方だった人間が、実はかつては敵で、なのに最期まで味方だった。その事を、今際の際ま
で気づかなかった。
 城壁はあっさりと崩れ、けれどもすぐに立て直された。隠されていた心底は露わになり、隠すこと
もできない悲しみは今も脈々と波打っている。

 
 
 
  Side.Ol

 転がる二つの死体を、呆然と見つめる。
 それは生きている時、確かに親友と恋人と呼べる者達であった。彼らの死を目の当たりにすれば、
呆然とするのは致し方ない事だ。
 だが、見つめる眼差しはそれ以上は感情らしきものを見せず、ただただ折り重なる二つの身体を見
つめるばかりだ。
 生きている間、その二つが親友と恋人という、人生観を語る賢しらげな本では人間にとって大切な
ものの筆頭に上げられるものであるならば、今は呆然としていても、そのうちのろのろとでも動き出
し、その身体に花を惜しみなく被せて別れを告げるべきだった。
 だが、そんなことは僅かでもしようとせず、二つの死体を彩るのは彼らが流した赤い血のみだ。そ
して、その二つを見つめる眼差しが持つ剣は、同じように赤々とした彩が模様のように渦巻いている。
 それは間違いなく、斃れた彼らの血だ。いや、正確に言えば、親友の血であり、その親友の身体の 
上にある恋人の身体から流れている血は、二人を彩っている。
 彼は親友を殺し、恋人はその親友の身体の上で自害した。
 動く者のない光景の中、赤い色だけが、じわりじわりと広がっていく。
 剣の切っ先から落ちる、血の滴る音だけが、耳を打つ。
 辺りはもはや完全に闇に沈んでいる。世界からは色が失われつつある。親友と、恋人から流れ出る
血だけが赤く、世界を鮮やかにしている。
 否。
 ぎりぎりと胸を掴んだ。心の臓の真上に、爪を立てる。そうすることで何かが変わるわけではない。
生憎と、指が皮膚を貫いて肉を引き千切って、心臓を抉り出すということもない。ただ皮膚を痛めつ
けるだけだ。
 しかしそうでもしなければ、そうやって別の痛みとして置き換えなければ、ぱっくりと開いた傷口
を忘れてしまいそうだった。
 胸に、眼には見えぬが確かに開いた傷口を、自分でも忘れてしまいそうだった。忘れて、ただの闇
の淵として放り出しそうだった。
 世界を彩るのは二つの死体から零れ落ちる血などではない。
 眼に見えぬ、しかし確かに二人が彼の心臓に突き立てた刃で出来た傷口から零れ落ちる血が、鮮や
かに他の色を奪いながら流れ落ちているのだ。




Side.Re

 趣味悪く飾り立てられた部屋で、少女は身構える。
 視線の先には、顔立ちは整っているが、内心の邪悪さを隠せていない口角の吊り上がった男がいる。
少女を馬鹿にしくさった、全てを見下す嗤いを浮かべた男の手は、白く綺麗なものだった。
 確かに、確かにこの男自身の手は汚れていないかもしれない。
 しかし、少女の兄弟弟子を殺すよう部下に命じたのは、紛れもなくこの男なのだ。高みの見物をし
ていただけかもしれないが、その手は白く汚れていないかもしれないが、腹の底はどす黒さがこびり
ついている。
 こんな男に、あの二人は殺されてしまったのか。
 自分よりも、ずっとずっと優しい心根を持った二人だった。爺に拾われるまで何一つとして取り得
のなかった自分とは違って、必ず人の為に生きることができる心根を持った二人だった。
 それが、こんな悪意の塊のような、人という人を自分の踏み台とした思っていないような男に殺さ
れてしまった。
 何処にも寄る辺のない少女にとっては、彼らは生まれて初めて出来た、兄弟、家族、友人、それら
全てであったのに。
 許せるわけがない。
 こんな男に、彼らは殺されて良い人間ではなかった。
 彼らは優しかったから、きっと仇打ちなんて望まないだろうけれども、それでは彼女の気が済まな
いのだ。そうともこれは彼らの為ではなく、自分の為だ。
 そうしなければ、自分が次の道に足を踏み出せない。
 こんなことしなくったって、彼らの記憶が、彼らと紡いだ生活が、消えるわけがない。しかし、彼
らとの間に紡いだ、確かにそこに存在した絆を、ドブに放り投げられて黙っていられるほどお人好し
ではいられない。
 ドブに落ちたとしても、その絆ははっきりと輝いているだろうけれども。
 男の哄笑が、趣味の悪い部屋中に響く。
 背後で、爺が息絶える気配がする。
 だが、震えるほどに輝く絆が、確かにこの手に添えられている。
 さあ、来い。
 あたしが、心山拳の後継者が、あんたの相手だ。














深いものは何?