Side.Pg

 鬱蒼と生い茂る木々の中を、得物を求めて駆け抜ける。
 音を出さず、気配を殺し、息を潜めて、それでも素早く走り抜ける。
 後ろでは、同じように気配を隠す、長年の相棒である猿が共に息を潜めている。
 地面は、長く雨が降った時のようにぬかるみ、少しでも気を取られたら、そのまま滑ってしまいそ
うだ。そうならないように、脚に力を込めて、音を立てぬように歩を進める。
 獲物は何処だ。
 長年木々が頭上を遮る森は、決して空気が乾くことはない。いつもしっとりと濡れ、酷く蒸し暑い。
だからこそ、あらゆる生命体が此処にやって来る。それを、本能で知っている。
 だが、彼の手に負える獲物がやって来るかどうかは、また別の話。
 一番良いのは、ずんぐりと太った、何の力も持たない子供の鹿や牛だ。けれどもそんな都合の良い
得物はそうそういない。良くて立派な足と角を持つ大人の草食獣だ。それも現れず、もしもやって来
たのが鋭い牙を持つ肉食獣ならば、多少の怪我は覚悟しなくてはならない――下手をしたら死に直結
する怪我をするかもしれないし、そうでなくても長らく動けない怪我も嫌なので、肉食獣はできる限
り勘弁願いたい。
 地面についた匂いを嗅ぎ分けながら、彼は獲物を捜す。だが、如何なる匂いも嗅ぎ取れない。恐る
べき、牙を持った獣でさえいない。
 そうなると、後に残る得物の選択肢は、絶望的なものだけだ。
 ばさり、と梢を打ち払う音がした。
 はっとして顔を上げれば、木の葉の間に見える青空の隙間を、優雅に飛んでいく姿がある。
 鳥。
 石を投げてみたところで届かない。
 手の届かない獲物。
 歯噛みして、その影を追うだけだ。

 


  Side.Ol

 剣を担いで道を走る。
 読み書きも計算も得意ではない自分が、唯一得意だと言い切れるもの。それが今、肩に背負う剣の
重みだ。
 昔から走るのも木に登るのも得意だった。あらあら随分と元気ね、こんなに元気なら親御さんもさ
ぞ安心でしょうね、と言われ続けてきた。病や怪我で、いつころりと人が死ぬか分からない世界では、
この頑強さは、何よりも有利だった。 
 だが、頑強なだけでは生きていけない。それでは牛や馬と同じだ。
 人は、知識がないと上には這い上がれないのだ。
 それを、嘲るように教えてくれたのは、同年代の鈍色の髪の少年だった。いつも陰鬱なローブを身
に纏っている少年は、木に登ることも走ることも苦手だったが、読み書きも計算も得意だった。聖書
の一説を諳んじて見せることなど朝飯前で、小難しい古い本を片手に、薬草を煎じていることもあっ
た。
 あれは、魔法使いなのさ。
 誰かが、彼のことをやはり嘲るように言ったけれども、そこには畏怖の念が込められていた。
 ああやって畏怖の念を与えられる存在と言えば、教会の神父様や、村の長老、あとはお城に住む王
様やお姫様くらいしか、知らない。
 身体だけ頑強な自分は、この先畏怖の念を与えられることなどないのだと。
 それが妙に悔しかった頃、まるで天啓のように与えられたのが剣だった。頑丈なだけの身体に、確
かに光が宿った。
 なるほど知識は重要だ。けれども実際に迫りくる牙を叩き伏せるのは、同じく牙だった。
 その牙を持って、毎日城の前を走って県の稽古をする。誰かに見られたなら良い。自分のこの身体
に宿った光を、誰かが見初めたなら良い。願わくば、この白い塔の真上にいるであろう、誰かが。
 森の中で、小さくも白くそそり立つ城を見上げ、いつもそう思っていた。
 そこに、手が届けば、と。

 
 
 
  Side.Re

 赤い旗が翻っている。
 金の縁飾りの付いた、緋色の旗だ。金の糸で龍が鮮やかに刺繍されている。一目見て、高価なもの
と分かる旗だ。 
 あれ一枚。
 売り飛ばせば何日食うに困らないだろうか。
 届かない、高い高い尖塔の上で、眩しいほどに閃いている旗を見ながら、思う。
 布地は分からないが、随分と重そうでもある。だが、そこに描かれている龍が、鱗を何度も閃かせ
るほどに、今日は風が強い。
 引き千切れて、此処に飛んでくるんじゃないだろうかと、思うほどに。
 風は強く、冷たい。
 ばたばた、と、旗が翻る。
 あの旗が飛んできたところで、売り飛ばす事はできないだろう。甘い考えを打ち払い、現実的に思
考を巡らせる。あの旗を、自分のような、どう見ても貧相な野党にしか見えない小娘が、店先に持っ
ていったなら、それだけで疑いの目を向けられる。売り飛ばそうものなら、そこから足がつく。逃げ
たところで意味はない。
 金持ちと言うのは、金を持っているにも関わらず、執念深く、細かな金からも眼を離さない。自分
の物を他人が持っていることを許さず、地の果てまで追いかけてくることだろう。
 ならば、せめて、あの旗で暖を取ることはできないか。
 緋色の、龍の描かれた旗。重苦しそうなその布地は、雨風を避けるには十分な役割を果たしてくれ
そうだ。一日くらい野ざらしになっても、十分に使えるほど丈夫そうだ。
 勿論分かっている。
 あの旗が、此処に、飛んできたりしないことは。
 旗はきつく根本で縛られているし、飛んでいかないように誰かが見張っているだろう。
 何処かの小娘が、手にする事など、絶対にありえない。
 だから、ただ、冷たい強い風の中で、同じように煽られている旗を見て、その旗が自分の小声を分
かってくれないかと夢想しているだけだ。

 
 
 
  Side.Ob

 少々やりすぎた。
 四角く区切られた小部屋の中で、無表情で、内心は苦笑いをしながら思った。
 ここは所謂お仕置き部屋というもので、少々素行の宜しくない者を押し込めて反省させる場所だ。
まさか自分が此処に閉じ込められるとは思わなかったが、まあ昨夜の己の行動を顧みるに、まあ仕方
のないことだと思う。
 影として生きていく事を定められた自分が、昨夜、その則を僅かばかりはみ出してしまったのだ。
 理由は特にはない。
 まだ少年の域を越えない少年が思うには、やや達観めいた思いであったが、若気の至り、というや
つである。少年はそう思っている。
 別に則を外したからといって大事はなかった。そうと分かっていたから外していたのである。大事
になるようなことなど、端からしない。そもそも大事になっていたなら、お仕置き部屋に押し込めら
れる前に、胴と首を切り離されている。
 周りの大人達も、そうと分かっていたから、こんな安穏としたお仕置きで済ませているのだろう。
 これは、影になる前の子供達が、いうことを聞かない時の仕置きと同じなのだから。
 唯一開いた、格子入りの天井窓を見上げ、自嘲する。
 そうとも、大人達は知っている。自分が、大事など成さないことを。大事にならぬ程度の、乱れし
か生み出さぬことを。
 影とは、そういうふうに、育てられ切っている。
 常に地面に留め置かれ、飛び出さぬように。飛び出したが最後、叩き斬られるのだ。
 仮に上手く飛び出したとしても、行く末は決まっている。
 部屋の中に影が落ちる。天井の窓を、雲がゆるりと横切っていく。
 そう、飛び出したとしても行先は知れている。雲と同じだ。風が進む方向にしか進めない。果ては
地面に落ちて終わりだ。
 だから、こうして地面に縫い留められることに、諾々としている。
 行方の分かる雲のように、飛び立つ勇気もない。

 
 
 
  Side.Sn

 夜道には、影も落ちない。
 新月だからだろう、己の影もないままに、道なき道を歩く。随分と危険なことだ、と思うが、それ
で心配する誰かもいない。強いて言うなら、後に付き従う愛馬だけが己の行く末を見つめていてくれ
るが、しかし彼は従順で心配するよりも先に共に死地に赴こうとするだろう。
 死地。
 ぼんやりと、その形を想像する。
 荒野に出て、長らくそれを捜していたが、いつも曖昧模糊であって、明確な形にはならなかった。
行く宛もなく彷徨っているが故に、死神の鎌さえも道に迷っているのかもしれない。
 ただ、今夜歩く、己の影の分からぬ、何処に石が落ちているかも知れぬ、胡乱な世界を見ていると、
もしかしたらこれが死の形だろうか、と思えてきた。
 ざわりざわりと遠くで聞こえる木々の葉擦れの音も、獣か鳥かも分からぬ不穏な鳴き声も、聞けば
聞くほどこの世ならざるもののようで。
 はて、もしかしたらいつの間にか自分は死んでいたのかもしれない。
 ならば、背後に付き従う、愛馬だと思っていた馬は、死を背負う馬だろうか。振り返って確かめて
見る気にはならないが、馬の顔は青ざめているかもしれない。
 いつだったか、誰かがあの世に連れ去ろうと夜道に現れる魔王の話をしていた気がする。それは、
嵐の夜の話で、こんなぬるま湯のような暗い道の出来事ではなかったが。
 だが、それにしてももしも死地がこのようなものだというのなら、随分と死と言うのは優しいもの
だ。少しも苛烈ではなく、緩やかに訪れる、風の中の甘い毒のようだ。安寧の色を伴っているのが、
死というものなのだろうか。
 もっと、銃弾が飛び交うような、鮮烈なものだと思っていたのだが。
 微かな苦笑いが口元に浮かんだ。
 すると、それを咎めるような光が、視界の端で瞬いた。
 ぎょっとして立ち止まると、視界の端で、やはり同じように光が瞬く。そちらに眼を向けると、空
に一つ、視線と同じ位置に、ぎらりと獣の眼のように煌めく星が一つ。
 睨むような、挑むようなぎらつきは、あまりにも鮮烈で。
 ああ、まだ此処は、生きる人間がいる場所のようだ。
 耳元を、鋭い風が通り過ぎていった。









より高いものは何?