自分達の息すら煩い。
  暗がりの中、息を潜めて周囲を窺う。埃っぽい町は何処にも人気がなく、小さな鼠一匹でさえ見
 当たらない。タンプル・ウィードだけが時折風に吹かれて、誰も通り過ぎ去る事のない大通りで絡
 まっている。
  砂埃がまるで雲になって空を覆い尽くしたかのような闇夜、カサカサという風の音ばかりが大き
 く響く。その音一つ一つを吟味し、それが無害なのかそれとも害あるものなのか判断する。かとい
 って、聞こえてくる音にばかり集中しているわけにもいかない。いつどこから何が襲いかかってく
 るのか分からない暗闇の中では、自分達を圧迫しようとしている気配を絶えず探さなければならな
 い。
  いつでも銃を引き抜けるように、暗闇を見つめてそこに蹲っている何かを見出そうとする。耳の
 奥で、うわんうわんと鳴り響く耳鳴りと、自分の呼吸音と、心音が、さっきからずっと聴覚のほと
 んどを占めている。そしてそれらでさえ、もしかしたら自分を裏切って襲いかかろうとしているの
 かもしれない。
  身動きする事も恐ろしい沈黙の中、僅かな衣擦れの音と一緒に、背中に固いものが当たる。ひっ
 そりと温かいそれに、詰めていた息を少しだけ吐いた。
  自分と同じように、息を殺し闇と対峙している背中合わせの熱。
  今は、それだけが何よりも信頼できるものだった。




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  職業柄、人に恨まれる事は多い。
  例え撃ち殺す相手が極悪人と謳われる賞金首であっても、彼らの親兄弟、或いは恋人、もしくは
 仲間に恨まれる事は往々にしてある。どれほど、彼らを生かしておけば今後更に被害者が増えるで
 あろう事、如何に反省の色を見せていたところで失われた命は帰って来ないのだと言ったとしても、
 それを甘受できる人間は少ない。
  だから、賞金首を撃ち殺した賞金稼ぎが恨まれる事は多分にしてあった。むしろ、法の網目を掻
 い潜り、法の隙間から零れ落ちた犯罪者を打ち取る、荒野の嘆きにとっては最後の砦である以上、
 買った恨みは保安官や検事よりも多いかもしれない。
  だが、マッドにはそれを嘆いたり怒ったりする気は微塵もない。
  人の死を食い物にしている以上、憎しみや恨みは当然の事であったし、だからといって自分一人
 が賞金稼ぎを止めたところで、犯罪者の縁者から聞こえてくる怨嗟が途絶えるわけでもない。それ
 どころか、腕利きの賞金稼ぎがいなくなる事で、今度は被害者の嘆きが深まるだけだろう。自他共
 に西部一の賞金稼ぎと認めるマッドは、紛れもなく嘆きの砦の一番奥の玉座に座って、その砦を越
 えて逃げ出そうとする犯罪者を叩き落としている。
  それ故だろう。逃げ出せると思い込んだ犯罪者が叩き落とされ、逃げ出せると安堵した彼らの家
 族は自由の目前で地に落ちる滑稽な姿に言葉を失い、そして叩き落としたマッドを恨むのだ。
  そういった事は、これまでに数え切れないくらいあった。
  あと少しで自由になれるはずだったのにお前の所為で、と喚き散らす家族やら恋人が銃を振り回
 してマッドに向かってきた事もあった。或いは、雇われた殺し屋達が向かってくる事も。
  見当違いで理不尽な怒り。それをマッドは鼻先で何度も笑い飛ばし、あまりにも過ぎるようなら
 ば、彼ら彼女ら自身を撃ち落とす事もあった。
  延々と繰り返されてきた事だから、その男がマッドの前に現れた時も、また誰かが自分に対して
 恨みを持っているんだな、くらいにしか思わなかったのだ。

 「マッド・ドッグだな。」

  既に自分の名前として定着した通り名を呼ばれ、マッドは振り返る。
  夜の足音が近づく時間帯特有の、ぼやけた闇の中に立ち尽くす男を見て、マッドはすぐにそれが
 自分の知らぬ顔である事に気付いた。同時に、自分に好意を持っている顔でない事にも。
  赤毛の短い髪と、その額を覆い隠すように巻かれたバンダナ。瞳は茶色。そしてそれらを内包す
 る顔は、どちらかと言えば端正だが、表情に欠けている。もっと的確に言うならば、人形のようだ。

 「誰だ?」

  微かに笑みを孕んだ声を掛けてやると、男はじりと近寄った。その間も表情に変化はない。それ
 どころか、何かを喋ろうともしない。つんと気取ったようにも見える表情の中では、形の良い唇が
 固く閉ざされている。ますます人形のようだ。
  かといって、人形のように完全に綺麗なわけでもない。端正な顔立ちは、綺麗というよりも、男
 臭さがある。だが、西部特有の武骨さはない。
  つまり、格好良い、という言葉が、一番的確か。

 「安心しろ、直ぐに終わる………。」

  無表情な男は、ゆっくりと手を腰にやる。そっと握られる銃把と、そしてその言い分に、マッド
 は男に対する評価を更に続ける。
  ただし、格好良いのは、見栄えだけ。
  不必要に言葉を省く癖に、無意味に言葉を残すのは、その一時はカッコ良く見えるかもしれない。
 娼婦達が見たなら、その時だけは黄色い声を上げるだろうが、次の日にはすぐに飽きて捨てられる
 だろう。
  要は、顔だけで、その他はつまらない。
  というか、

 「本気で殺すつもりなら、無意味に相手を警戒させる言葉を吐くんじゃねぇよ。」

  しかも、銃を抜くのが遅い。
  男の銃把が引き抜かれる時には、マッドは既に構えている。
  だが、

 「ち………。」

  マッドは軽く舌打ちした。背後で幾つか、自分を狙う気配が蠢いている。咄嗟に真横に飛び退り
 ながら銃を引き抜き、数の多い背後へと数発撃ち込んだ。何人かの悲鳴が、確かに聞こえた。しか
 しそれを確認する暇はない。マッドが背後に銃口を向けたそこを狙うかのように、眼の前にいた男
 が引き金を引く。

 「くっ………。」

  ただし、呻き声を上げたのはマッドではなかった。
  開いている方の手でいつの間にかナイフを引き抜いていたマッドは、そのナイフをひらりと男に
 投げつけたのだ。狙い過たず男が握る銃を捉えた刃を、男は辛うじて銃身で払いのける。
  その隙に、マッドは残る銃弾で背後で喚いていた男達を一掃している。だが、眼の前にいる赤毛
 の男を撃ち抜く為の再装填している暇はない。
  ナイフを払い落して再び銃を掲げる赤毛に、マッドは銃弾の代わりに鼻先で嗤い飛ばし、ぽいと
 硝子瓶を放り投げる。先程まで咥えていた葉巻を添えて。
  それが何なのか、を男が理解するには数秒と要さなかっただろう。
  男がそれに気を取られて引き金を引く時間が遅れている間に、硝子瓶は地面に落ちて割れている。
 砕けた硝子の破片と一緒に散らばったのは、微かに鼻を尽くオイルの臭いだ。そこに一拍遅れて葉
 巻が落ちかかる。
  一瞬漂う甘い独特の香り。
  が、それに鼻腔が楽しむ暇もなく、ぱっとオレンジ色の光が闇の中に広がった。地面に染み込ん
 だオイルを糧に広がる炎に、はっと赤毛が息を詰めたようだ。それを薄い笑みで見やり、マッドは
 身を翻す。
  あの程度の腕の人間ならば、すぐにでも撃ち落とせただろう。だが、それをしなかったのは、ま
 だ奇襲をかける存在があるかもしれないと思ったからだ。背後に迫っていた男達は全員撃ち落とし
 たが、既に良い闇から夜へと移行する中は身を潜める人間には好都合で、何処から湧いて出てくる
 か分からない。
  それに、火炎瓶の炎は、確かに足止めにはなるだろうが飽くまで足止めだ。再び再装填し、向き
 直るには、やや時間的に厳しい。
  己の銃の腕は大丈夫だろうと囁いているが、状況が無理だと判じている。主観しかない己の自信
 よりも客観のある状況のほうが正しい。だから、マッドは赤毛が息を詰めたその瞬間に身を翻し、
 路地裏に駆け込んだ。
  あの程度なら、いつでも殺せる。
  だが、その前に、あれが何者なのか、突き止めなくてはならない。
  マッドはそう思いながら、サルーンに停めていた愛馬のもとへ少しばかり遠回りしながら向かう。
  連中が追いかけて来ない事を確認し、マッドはディオに跨ると、月が霞む荒野へと駆け出した。
  これが、マッドにとっては長い、そして彼が追いかける賞金首にとっては一幕にすぎない逃避行
 の始まりだった。