南北戦争が終わって、森の生い茂る故郷を離れて西部の乾いた荒野に辿り着いた。
  そこで、銃の腕を見込まれて、保安官になった。
  人を守る事に意義を感じて、けれども裁きを行うのは自分ではないと感じて、無血逮捕を貫いた。
  そうしていつの間にか連邦保安官の任を受け、同時に銃の腕に引き寄せられた無法者達が街に蔓
 延るようになった。
  血を呼び込む銃の腕を封じる為に、自らの首に賞金を懸けた。
  だが、それによって眼の前に広がったのは、泥の河、血の路だった。
  そして、その道を歩む時、今まで手に入れたと思っていたものは、全て失われた。
  血濡れの道など歩きたくないと告げ、愛しい影は、何一つとして残さずに、あっさりと背を向け
 て立ち去った。 
  まるで、最初からいなかったように。





  Apprivoise-moi










  全てを捨てて荒野を彷徨うサンダウンには、失うものなど何一つとしてなかった。それは同時に
 何も得られないという事と同義だった。事実、サンダウンは何かを得たいという思いは既に失って
 いた。
  かつて、人を守る事で得られた全ては、人を守る為の術により全て失われてしまった。
  称賛が、掌を返したように呪詛に移り変わる様は、サンダウンの生き様を丸ごと否定したような
 ものだった。
  そして、そうして何もかもを失った男にとって、その失い方は、次に新たに何かを手に入れよう
 という思いを失わせるには十分だった。要するに、何かを手に入れて、そしてまた失う事を怯えさ
 せるには十分過ぎたのだ。

  そもそも、賞金首に成り下がった以上、何かを手に入れる事など出来もしない。

  虚ろな気分で荒野を彷徨って、昼夜問わず賞金稼ぎに追いかけられて、その生活に徐々に魂を蝕
 まれて自嘲気味になり、いつ行き倒れても構わないと思い始めた時、真っ黒な犬に噛みつかれた。

 「サンダウン・キッドだな?」

  微かな訛りの残る、けれども端正な声。何処となく甘さを湛えた柔らかい響きで吠えた犬は、荒
 野にいる事を自体を疑いたくなるような繊細な指を持った、秀麗な男だった。けれども、その外見
 とは裏腹に、綺麗な唇の端には皮肉げな笑みを浮かべて、思いっきり噛みついてきた。
  これまでも、こうやって多くの賞金稼ぎ達に噛みつかれた事はあった。それが、ちょっと毛色の
 違うのに噛みつかれただけの事で、だからサンダウンは度重なる銃撃の一つとして見なし、相手に
 するのも面倒で、その黒い犬を適当に撒いた。
  だが、賞金稼ぎという生き物は面倒臭さで言えば一番と言われるような生き物で、撒いたはずの
 黒い犬は面倒臭い賞金稼ぎの御多聞にもれず、何処から情報を得たのか、すぐにサンダウンに追い
 ついてきた。そして、噛みついてくる。
  引き離しては追いついてきて噛みつく犬に、本当に面倒臭くなって、一度、銃を抜いてその手元
 を撃ち落としてやった。こうすれば、大抵の賞金稼ぎは恐れを成して逃げ出すか、或いはもっと面
 倒な事に大勢の仲間を引き連れてやってくるかのどちらかの行動をとる。もしも後者の行動を取っ
 た場合は、サンダウンは容赦なくそれらを一掃せねばならない。

  だが、黒い犬は、やはり他の賞金稼ぎとは毛色が違っていた。
  銃を一度撃ち落とされたにも拘わらず、また、追いかけてきて吠えて噛みついてきた。
  たった一人で。

  変わった犬だと思った。けれども、やはりそれだけだった。  
  サンダウンは犬の事など何も知らないし、犬もサンダウンの事など何も知らなかった。互いが賞
 金首と賞金稼ぎである事しか知らなかった。
  いや、もしかしたら犬のほうはサンダウンの事を何か知っていたのかもしれない。何処で情報を
 拾ってくるのか、サンダウンの行き先に現れるのだ。サンダウンに関する何らかの情報を知ってい
 てもおかしくない。
  だが、それを知ってなおサンダウンを追いかけるのは、どういう理由か。嘲りか、憐れみか。或
 いは何も思わないのか。
  何れにせよ、サンダウンには関係ない事だった。

  そして、ある日、ぱったりと犬の追跡が止んだ。

  何があったのかは知らない。ただ、不意にぴたりとその気配が失せたのだ。昼夜問わず、何物も
 阻む事はできないと言わんばかりにやってきた黒い犬は、不意にその姿を消した。
  飽いたのか。
  サンダウンが思ったのは、それだけだった。ただ、犬がいなくなった事で、サンダウンの周りか
 らは極端に人の気配が失せた。
  既に、何人もの賞金稼ぎと対峙し、何人もがサンダウンを諦め、何人もがサンダウンに撃ち落と
 されている。何も持たず何も手に入れられない、不毛であるサンダウンの周囲から、人の気配が消
 える一方であるのは当然の事だった。
  それを哀しむべき事なのか、サンダウンには判断さえつかなかった。




  事態が急転したのは、サンダウンがとある街を訪れた時だった。
  その街では、今まさに処刑が行われようとしている最中だった。街行く人々が、あの悪魔、と処
 刑される人間を罵っているのを聞いた。どうやら、女達を襲っては次々と殺していったならず者ら
 しい。千ドルの賞金の懸けられたその男は、賞金稼ぎに捉えられ、千ドルの賞金と引き換えに絞首
 刑の階段へと引き渡されたようだ。
  広場で今にも処刑されようとしている男は、口汚く何かを罵っていた。口から唾を飛ばし、喚き
 立てるその声は、何かの名前を叫んでいる。濁った眼は野次馬達の中の一点を睨み据え、そこに向
 かって怨嗟を吐き捨てている。

  その吐き捨てられた怨嗟を受け止めているのは、最近眼にしていなかった黒い犬だった。

  金で人の命を売り渡すとか、罵りの内容は女を殺した人間が言うにはあまりにも稚拙な内容だっ
 た。どうやら、男を捕えたのは、黒い犬であるらしい。自分を捕え、絞首刑送りにした犬に、恨み
 事を吐き散らかしているのだ。
  当然の事ながら、稚拙な呪詛は黒い犬に些かの傷も付けなかったようだ。犬は、相変わらず端正
 な指先に、葉巻を挟んで甘い香りを漂わせていた。淡々とした目つきで、自分で生け捕りにして絞
 首刑送りにした男を眺めやり、そしてその命が潰える瞬間を待っている。
  そこには、一部の奢りも誇りも喜びもなかった。
  ただ、仕事の結末を見る、職人のような眼差しがあるだけだった。

  後で知った事なのだが、あの黒い犬は、実は賞金稼ぎの頂点に君臨すると言っても良い存在であ
 るらしい。若くしてそこに上り詰めた犬は、ああして獲物を生け捕りにして保安官に差し出すそう
 だ。その確率は、相手が悪どければ悪どいほど、高い。それが何を指し示すのか、そこに何の意味
 を込めているのか、サンダウンには分からないが。
  ただ、薄ぼんやりと思ったのが、あの犬にはサンダウン以外にも大勢の獲物がいるという事だっ
 た。あの犬にとって、サンダウンは大勢の賞金首の一つに過ぎない。

  悪辣な賞金首を、わざわざ絞首刑にする黒い犬。
  サンダウンを執拗に付け回すのも、その一環なのかもしれない。
  五千ドルという賞金を見て、サンダウンを悪辣なならず者だと思ったのか。
  それとも、血濡れの銃の腕を持つ保安官を唾棄すべきだと思ったのか。
  いくつもの『それとも』を繰り返してみたが、結局答えは出なかった。

  だから、問うてみた。

 「……何故、私を追いかける?」
 「ああ?」

  突然の、サンダウンからの初めての声掛けに、黒い犬が形の良い眉を顰めた。まるで言っている
 意味が分からないという表情だ。

 「賞金稼ぎが賞金首を追いかける事に、理由が必要かよ?それよりもこっちこそ聞きてぇな。てめ
  ぇこそなんで俺を殺らねぇ?」

  毎回毎回繰り返す問いを、黒い犬はもう一度サンダウンに投げかける。だが、サンダウンはそれ
 に答えない。
  そんなサンダウンの態度に、犬は舌打ちした。

 「てめぇのその態度は、言っとくけど俺に対する侮辱だぜ?殺しもしねぇなんて、俺はそんなに軽
  んじられてんのか。」
 「…………。」

  マッドの言葉に、今度はサンダウンが眉を顰めた。サンダウンは軽んじるとかそういう次元の話
 をしているわけではないのだ。賞金首を食いつくす黒い犬が、何の意図を持ってサンダウンを捕え
 ようとするのかが知りたいだけだ。そもそも、軽んじる云々の話をするならば、平気で人の過去に
 踏み込もうとする賞金稼ぎのほうが無礼ではないのか。

    「……金が欲しいのなら、他の賞金首でも追いかければ良い。」
 「はぁ?当たり前だろ、そんなの。別に俺はあんただけを追いかけてるわけじゃねぇぞ。」

  きっぱりと、お前は賞金首の中の一つに過ぎないのだ、と黒い犬は言った。

 「それよりも、てめぇこそ俺が鬱陶しいなら、さっさと撃ち殺せよ。他の賞金稼ぎ共はそうしてた
  んだろうが。」
 「…………。」

  黒い犬は、サンダウンの真を穿つ。だらだらとこんな事をしていないで、さっさと殺してしまえ
 と言う。まるで、自分が賞金稼ぎの中の一つではないと知っているかのようだ。
  いや、サンダウンの方から声を発した時点で、奇妙にな事になっているのは分かっているではな
 いか。

  何も持たず、何も手に入れられず。
  再び失う事に怯えて、それを貫き通してきた男は、弾かれたように自分の陥った状況を理解して
 一瞬、絶句した。
  その動揺は、本当に一瞬の事だった。けれども眼の前にいる黒い犬には、それが分かったらしい。
  ゆっくりと息を吸い込んで、そして吐き捨てる。

 「はっ……なんだ、てめぇ……。俺にとって、あんたが特別だとでも思ってたのかよ?」

  何を以てそんな事を思ったのか。
  嘲りは孕んでいなかったが、呆れたような声音が籠っていた。その声に微かに傷ついた自分がい
 た事に、サンダウンは再び動揺する。

   「あのな、俺とあんたの関係は、賞金稼ぎと賞金首以外の何物でもねえだろうが。それ以外の何か
  になるような素振りを、俺は一度でも見せたかよ?」
 「…………。」

  ならばさっさと殺せば良かったのだ、とサンダウンは思う。賞金稼ぎ仲間を引き連れて、大挙し
 て押し寄せれば、サンダウンを撃ち殺す事は出来ただろう。それをしなかった黒い犬に、正面切っ
 て決闘を挑む黒い犬に、違う匂いを感じて、何が悪いというのだ。

 「ついでに言うなら、あんたは俺を特別だって思うような扱い方をしたかよ?少なくとも俺は、あ
  んたに特別だって思われるような事はされてねぇぞ。」

     ふん、と鼻を鳴らした黒い犬は呆れたような声を崩さない。

 「何もしようとしねぇで、俺を手に入れられるとでも思ってたのか、てめぇは?どんだけ図々しい
  んだよ。欲しいんなら、それなりの事をしろよ。」
 「………………。」
 「なんだよ、その不満そうな顔は。つーか、てめぇはいつも何か不満そうだよな。逃げ回ってるだ
  けの癖して不満だらけとは、恐れ入るぜ。」

  無遠慮にサンダウンの内面を抉りだした黒い犬は、悪びれもせずに吠え続ける。耳に痛いほどの
 鳴き声に、サンダウンが顔を顰めても意に介さない。

 「ガキじゃあるまいし、その歳になって、無償で貰えるもんがあるわけねぇだろうが。欲しいんな
  ら、何かを犠牲にする必要がある事くらい、分かってんだろうが。それが嫌なら、止めとけよ。
  俺だって迷惑だ。それでも欲しいんなら、あんたも俺に何か寄こせよ。でなきゃ俺は尻尾一つ振
  らねえぞ。」

  命か、金か、それとももっと別の何かか。

  狂った犬は、牙を見せて笑った。
 「そうして、飼い馴らせるもんなら、飼い馴らしてみろよ。」