今にも立ち去ろうとするマッドの後姿を見て、サンダウンの中にはあまりにも様々な言葉が駆け
 巡っていて何を口にするべきか判然としなかった。
  お前のものにはならないと告げた口で、お前が取り縋る様が見たかったというその真意は、一体
 何処にあるのか。微かに嗅ぎつける事のできた焦がれが、果たして実はサンダウンと同じ色をして
 いるのか。
  それを確かめるには駆け出す直前のマッドを引き止めなくてはならない。だが、呼びとめて止ま
 らなければ。仮にマッドが立ち止ったとしても、吐き捨てられた言葉に実際は何の意味もなかった
 なら。
  醜い怯惰が、此処に来て脚を引っ張る。マッドの後姿には振り返る気配も見えない。だから、マ
 ッドの言った通り、此処で引き止めねば二度と逢う事はないだろう。そうなれば、その真意を図る
 事は二度と出来ない。
  何を口にすべきか、は、今は問題ではなかった。今問題なのは、マッドを引き止める事だった。






 Le Plus Important est Invisible









 「マッド………!」
 
  考える余地は何処にもなかった。その名を呼ばねば、マッドが立ち止らない事は分かっていた。
 黒い馬に跨って背を向けた姿に、サンダウンは今更になって声を上げる。
 
 「待ってくれ………!」
 
  叫んだ声は、自分で聞いても、みっともなかった。だから、マッドにはもっとみっともなく聞こ
 えただろう。それでも、叫ばない事にはその脚は止まらないであろう事は分かっていた。
  そのみっともない声に、憐れみを覚えたのか、黒い犬が立ち止まった。長い影法師を作って、荒
 野にぽつんと立ち尽くしている。その影法師が消えないうちにサンダウンはそれを踏み、その上を
 渡って、マッドが立ち尽くしている場所へ急ぐ。
  西日を浴びて、逆光によりいつも以上に黒色が深くなった犬は、自分と同じ黒い馬に跨って、サ
 ンダウンの近付く気配をじっと待っているようだった。その気が変わらぬ内に、サンダウンはマッ
 ドの傍に近付き、彼の馬の傍らに立ってマッドを見上げた。だが、やはり逆光の所為でマッドがど
 んな顔をしているのか分からない。
  サンダウンに見上げられても、マッドは動かなかったし、一言も何も言わなかった。まるで普段
 のお喋りが嘘のように、石になったかのように押し黙っている。

  しばらくの間、二人は彫像のように凍りついたまま、見つめ合っていた。動くのは、乾いた風に
 揺らぐ髪の毛くらいなもので、後は頭上で目まぐるしく移り変わる空の色だけだった。夕日の赤の
 帯はいつの間にか薄れ、西の端のほうから夜に向かう為の錦が広がっている。その裾――東の端は
 既に孔雀色に染まっている。
  そのピーコック・ブルーの中で一つ星が瞬いた時、ようやく時が動き始めた。
  最初に動いたのはサンダウンだった。
  サンダウンは腕を伸ばし、馬に跨っているマッドの腰を掴んだ。そして、腕に力を込めて自分の
 ほうへと引き寄せるようにして、降りてくるようにと促す。
  それに対して、マッドは思いの他従順だった。その時には空の錦は抑えられて紺色へと変貌し、
 マッドの顔を隠していた逆光も薄れている。代わりに闇がマッドを隠そうとしているが、それは西
 日の強烈さに比べれば薄い。
  サンダウンの腕に促されるまま降りてきたマッドの顔を覗きこめば、その顔は何か酷く硬かった。
 大理石のような硬さを帯びた白い頬に、思わず手を寄せそうになり、サンダウンはその手を握り潰
 す。まだ、触れても良いと決まったわけではない。

 「マッド…………。」
 「なんだよ……俺に手を出すのは怖いんじゃねぇのかよ。」
 「ああ………。」

    もしかしたら、引き止めるべきではなかったのかもしれない。一瞬、そう思った。今ここで、手
 を放してしまうべきではないのか、と。仮にマッドが手の中に転がり落ちてきたとしても、いつか
 は捨てられる事が分かっている。マッドは、いつか、サンダウンを置いて別の誰かと何処かに行っ
 てしまうだろう。そしてそうなった時、きっと、サンダウンはマッドを許せない。その脚を叩き潰
 して、何処にも行けないように縛りつける。そんな事は、サンダウンが望んでいる事ではない。
  けれども、マッドはそれが良いと言う。サンダウンが惨めったらしくマッドに縋りついてしがみ
 付いて、手放さない様が見たいと言う。その、真意は。

 「………お前は、私に飼い馴らされたいのか?」

  問い掛けに対する答えは、沈黙だった。
  ただ、黒い眼が強い光を震わせてサンダウンを睨みつけている。この眼が永遠に自分を眺めてく
 れると言うのなら、それは願ってもない事だ。けれども、永遠というものが存在しない事は良く知
 っている。いつか、この眼はサンダウンなど映さなくなる。
  そう思って見下ろしていると、不意に、マッドの形の良い唇が震えた。
 
    「………俺が、飼い馴らしてくれって言ったら、あんたはそうしたのかよ?」
 
    サンダウンは答えなかった。いや、答える事が出来なかった。
  何故なら、それに対する答えは、どう足掻いても『否』でしかないからだ。そんなサンダウンを
 見上げ、マッドは眼を歪ませた。

 「見ろよ、あんたは俺が何を言ったって、俺を飼い馴らす気なんかなかったんだ。結局、あんたは
  俺では動かす事が出来ない……それは、あんたにとって俺はどうでも良いって事さ。」
 「違う………。」
 「違わねえよ。だったら、なんであんたはさっき、俺を襲ったんだよ。本当に俺の事を想ってるん
  なら、あんな事はしねぇよ。」
 「もう、しない………。」

    いや、二度と逢わない、逢えない。

     呟いて、こんな事になるならさっさと殺してしまえば良かった、と思った。毛色の違う犬だと思
 った時に、殺しておけばよかったのだ。そうすれば、欲しいと思っている事に気付かないまま、こ
 の先も生きて行けただろうに。マッドを殺さずにいた所為で、隠されていた想いは暴かれて破綻し、
 こんな苦痛を帯びている。
  さっさと殺してしまえば良かった。いや、いっそ逢わなければ良かった。或いは誰かに殺されて
 いれば良かった。

   「それで、あんたは俺の事なんか忘れていくんだろうな。」

  聞こえたマッドの声は、独り言のようだった。

 「俺はあんたの事を思い出しても、あんたは、それさえしないんだろうな。俺が荒野の砂や空を見
  てあんたの色を思い出しても、あんたは俺の事なんか欠片も思いださねぇんだろう?」

  マッドの真っ黒な眼からは、何も読み取れなかった。それに何故か酷い焦燥を感じ、サンダウン
 も呟いた。

 「お前も、忘れたら良い……。」
 「………あんたにとっちゃ、記憶ってのは、そんなもんなんだな。」

    言葉遊びのように聞こえるマッドの言葉に、サンダウンはうろたえた。何か、大きな間違いをし
 ているような気がしたのだ。むろん、その間違いを正す必要性は、この先、道を交えない事を考え
 れば大した事ではないのかもしれない。けれども、普段は透き通るようなマッドの眼が曇っている
 のを見て、焦燥は深さを増す。
  焦るサンダウンに、マッドは表情を変えなかった。表情を変えずに、聞こえるか聞こえないかの
 声で呟く。

 「さっきあんたが呼び止めてくれてて嬉しかったけど、俺はそんな諦めたような眼で見られるのは
  ごめんだぜ。俺を簡単に諦めるような奴のものになんか、なりたくねぇよ。」

  その言葉に、サンダウンは首を横に振る。違う、ともう一度呟いて、それこそ諦めたような眼を
 しているマッドの頬に、今度こそ手を触れた。

 「手に入れたら絶対に諦められないから、最初から手を出さないだけだ………。お前を飼い馴らし
  た後、お前が何処かに行きたいと言っても、許してやれない。」

  その脚を叩き潰して縛りつけて。それでも良いと言うつもりか。誰よりも自由気ままな狂犬が、
 首輪を付けられて繋がれて、それでも良いと言うのか。

  サンダウンの懺悔のような声に、マッドはゆっくりと視線を動かして、その真っ黒な眼にサンダ
 ウンだけをはっきりと映した。そして、頬に添えられた手に、雪が溶けるのを恐れるかのような手
 つきで自分の手を重ねて、同じくらい繊細な声で呟いた。

 「……かまわねぇよ。」

  裏切りが罪である事くらい知っている。それをしたというのなら、遠慮なく躾ければ良い。野良
 であるマッドを野良のまま奪う事と、飼い馴らしたマッドを躾ける事は違う。野良のまま奪われた
 なら、そこにマッドの責任は存在しない。けれども飼い馴らされた後ならば、そこには確かにマッ
 ドの責任が存在するのだ。マッドはその責任を分かち合いたいと言う。
  マッドを飼い馴らす躊躇が、徐々に萎んでいく。マッドを手放さない為に何をしても良いと言わ
 れたなら、サンダウンには躊躇う意味がない。その事にうろたえるサンダウンを見上げ、マッドは
 あえかな声で告げた。

 「……俺を、飼い馴らしてくれよ。」