飼い馴らしてみろ、と黒い犬は言った。
  野良でいる事が不思議なくらい端正な犬は、けれどもやっぱりサンダウンが見る限り、特定の飼
 い主はいないようだ。無理やり手懐けようとする輩は多いようだが、それらを黒い犬は全て叩き落
 としている。
  気紛れな黒い犬は、時に群れの戦闘に立ち、時に女の柔らかい膝の上で転寝をし、しかし大部分
 は一人で気ままにふらふらと生きているようだった。

  特定の飼い主のいない犬の様子に、微かな安堵を覚えている自分を発見し、サンダウンは自分は
 あの犬を飼い馴らしたいのだろうか、と考え込む。
  あの黒い犬の眼が全くの別方向を見ているのを見て、何故か傷ついたような気がしたのは紛れも
 ない真実だ。サンダウンを数ある賞金首の中の一としか見ていないと気付いたあの時、サンダウン
 は不快感を覚えていたのだ。

  ようやく自分の感情に理解が追いつき、納得したものの、けれどもそれでどうやって黒い犬を飼
 い馴らせば良いのかは、サンダウンには全く以て未知の領域だった。






  Creer des Liens








  マッド・ドッグという名前の黒い犬に真を穿たれた後、それではサンダウンがマッド獲得の為に
 何かをしたのかといえば、実は全く何もしていなかった。
  相変わらず逃げるように荒野を彷徨って、時折訪れるマッドの到来が過ぎ去っていくだけの日々
 だった。
  そして犬のほうも、サンダウンの真意を汲んだからと言って何を変えるわけでもなく、普段通り
 に噛みついてくるだけだった。
  何の変化も起きない関係は、もちろんそこから何かを生み出したりもしない。
  ただ、逸らしていた感情を無理やり抉じ開けられたサンダウンの中身は、微かであるとは言え、
 変容していた。マッドが他の誰か――こと賞金首であった場合、酷く薄暗い感情を持つようになっ
 た。他人の前で見せる表情が、サンダウンの前で見せる表情とは全く別物であると気付いてしまえ
 ば、その眼をこちらに向けさせてやりたいと思うようになった。 
  もしかしたら、それはマッドに良い当てられる前から感じていた事で、サンダウンが意図的に気
 付かないふりをしていただけだったのかもしれない。
  何れにせよ、マッド本人の口から特別ではないと言い聞かされた上に、自分の感情まで良い当て
 られたサンダウンは、その所為で、マッドの姿や気配に敏感に察知なった。そして敏感に察知すれ
 ばするほど、マッドが色んな人間と交流がある事を知り、やはりサンダウンはそれらの一画でしか
 ない事を思い知らされた。

    誰かと笑い合うマッドを遠くで見ながら、多分、とサンダウンは思った。多分、サンダウンはマ
 ッドを無意識のうちに視界から排除していたのだろう、と。でなければ、あんなに目立つ男に気付
 かないはずがないのだ。

  真っ黒で、騒がしい、端正な犬。

  気紛れで、飼い主を定めない黒い犬は、誰もが首輪を付けようとして失敗してきたのだろう。そ
 れが分かったからこそ、サンダウンはマッドを見ないようにしてきたのだ。見れば、サンダウンも
 その犬が欲しくなる事は眼に見えていたから。だから、マッドに言われるまで、気付かない振りを
 通してきたのだ。
  そして、欲しくなれば、何が何でも手に入れようとしてしまう。

  だが、手に入れて、それで果たして幸せを感じるだろうか。マッドを手に入れて幸せになれるの
 か、と問われれば、サンダウンははっきりと首を横に振るだろう。
  もしも、マッドがサンダウンに尻尾を振って、じゃれてきても、充足感は一時のものだろう。手
 に入れる前でも、他人の膝に乗っているところや他人に尻尾を振っているところを見るだけでも不
 機嫌になるのだ。それに、マッドは野良でも秀麗だ。だから手に入れようと画策している者は大勢
 いる。だからきっと、手に入れた後は、酷い恐怖と嫉妬と不安ばかりが連続で押し寄せてきて、手
 に入れている事すら忘れてしまうはずだ。
  失う事、奪われる事にばかり気持ちが傾き、苦痛しか生み出さないだろう。
  だから、サンダウンはマッドに真を穿たれた後も、何らかの行動を生み出せずにいる。いや、何
 かするべきではないと分かっている。





  だが、そうは思っていても、マッドが他の賞金首を撃ち殺しているところを見た時は、平静には
 なれなかった。
  生け捕りにされて絞首刑の階段を昇ったのではなく、紛れもなくマッドの銃弾によって送られた
 男が確かに存在した事で、決闘を申し込まれているサンダウンが特別ではない事が再び露呈した。
  しかも、マッドによって送られた男は、その身体の脇にマッドを跪かせ、穏やかな手つきで瞼を
 閉ざして貰う事を許してもらっていた。
  もし、マッドはサンダウンを撃ち取ったら、同じ手つきで触れるのだろうか。
  それは途方もなく羨ましい事だと思えた。しかし同時に、同じような扱いしかされないのか、と
 も思えた。
  死んだ後の身体に触れて貰える事に対する羨望と、それだけでは足りないと喚く心臓とが、サン
 ダウンにも思いもよらぬ行動を取らせた。未だに男の傍らに跪いて弔いを続ける黒い犬へと足早に
 近付くと、男の瞼に当てていた端正な手を掴んだのだ。
  突然湧いて出たサンダウンの気配に、マッドもぎくりとしたようだった。はっとした表情は、マ
 ッドがサンダウンの気配に気付いていなかった事を示し、それがまたサンダウンの心臓を刺激する。
  腕を掴んで容赦なく引き摺り立たせると、その身体を今度は地面に叩きつけた。撃ち殺した賞金
 首とは逆方向に倒れこんだマッドは、一瞬息を詰まらせたが、すぐに起き上がり吠えようとする。
 その身体に圧し掛かって、開いた唇にサンダウンの方から噛みついた。
  口付けと言うにはあまりにも乱暴なそれに、マッドの黒い眼が零れ落ちそうなくらい見開かれた。
 まるで、宇宙を丸ごと飲み込んだかのようなその眼を、この上なく間近で見た事に、サンダウンの
 中で蹲っていた溜飲が、微かに下がる。
  だが、それだけでは飽き足らず、サンダウンの手はマッドの身体を押え込み、その身体の線をま
 さぐる。思っていた以上に細い線に一瞬戸惑ったが、けれども逆にそれに煽られた。死体がすぐ傍
 にある事も忘れて、眼の前にある身体を蹂躙する優越感に浸る。マッドが身を捩り、何かを叫ぼう
 とするたびにその身体を捕えて、サンダウンのもとに引き摺り落とす。

 「っ……ッド……!」

  口付けの合間に声が聞こえて、サンダウンはようやく口付けを解いた。すると、黒い眼をきつく
 して犬が睨みつけてくる。

 「何しやがるんだ……てめぇは!」

  身体中をまさぐるサンダウンの腕を押え込み苦々しく吐き捨てるマッドは、サンダウンが何を求
 めているのか知っている。

 「てめぇの飼い馴らし方ってのは、こういう方法なのかよ!そうやって女にもしてきたってのか?!」
 「女は関係ない………。」

  かつて自分を捨てて行った人間達の事を思い出させられて、サンダウンは微かに不機嫌になった。
 それに、サンダウンはマッドを飼い馴らそうなどとは思っていない。飼い馴らしたところで、いつ
 何処に行ってしまうか――サンダウンを見捨てるか誰かに奪われるか――分からないのだ。苦痛し
 か齎さないのに、手に入れるなど愚か者のする事だ。

 「言っとくけどなぁ!こんな事しても俺はあんたのものになんかならねぇぞ!それとも、まさか俺
  があんたに飼い馴らされたとか思ってんじゃねぇだろうなぁ!だとしたら大きな勘違いにもほど
  があるぞ!あんた俺に特別な事もしてぇねぇよなぁ!俺を飼い馴らすような事しねぇよな!」
 「ああ…………。」

  サンダウンは、黒い犬を飼い馴らしたつもりになど、なっていない。むしろ、これから先も飼い
 馴らす事などないだろう。サンダウンは、単にマッドから奪って、それで終わらせるだけだ。だか
 ら、吐き捨てるよう――自分に言い聞かせるように――に呟いた。

 「……賞金首が、賞金稼ぎを蹂躙して、何が悪い……。」
 「ああ?!そんな情けない面して、なに悪ぶった台詞吐いてやがるんだ、てめぇは!」

  ぎろり、と睨み上げたマッドの眼を見て、サンダウンは微かに動揺した。マッドの黒い眼には、
 マッドの言う通り情けない顔をしたサンダウンがいたからだ。

 「はっ、そんな嫉妬丸出しの顔でそんな台詞吐かれても、説得力ねぇよ。」

  再び真を穿つマッドに、サンダウンは口を噤んだ。自分が、あまりにも憐れになったからだ。そ
 して眼の前にいる男が、本当に残酷に思えてきた。そこまで分かっているのなら、と腹の底で、何
 度も繰り返す。
  だが、その声は当然の事ながらマッドには届かない。

 「嫉妬するくれぇなら、さっさと何かしろよ。全然何もしねぇくせに。かと思ったら、これかよ。
  てめぇ、どっか湧いてんじゃねぇのか?」
 「………お前を飼い馴らすつもりはない。」

  サンダウンの言葉に、マッドの形の良い眉が顰められた。その表情の変化はまるで空のようだ。
 それを見下ろしながら、呟いた。

 「どうせ、飼い馴らしても、お前はすぐにいなくなる………。」

  サンダウンが英雄から堕ちた時に、まるで最初からいなかったように、手の中から滑り落ちてい
 った者達のように。それなら、最初からいなかったほうが、まだましだ。
  その言葉に、マッドの眼に灯る光に鋭さが増した。

 「てめぇ、どんだけおめでたい頭してやがるんだ。手に入れる前から失くす事を考えるなんて、改
  めて恐れ入ったぜ。」
 「………なんとでも言え。お前は、失う事の恐怖を知らない。信じていた者の反転ほど、恐ろしい
  ものはない。」
 「は、だから、俺を飼い馴らさねぇって……?なんだ、そりゃ。そりゃあ飼い馴らすつもりがない
  んじゃなくて、飼い馴らす意地がねぇんだろうが。」

  きっぱりと放たれたマッドの台詞に、サンダウンは微かに瞠目したが、すぐに頷いた。

 「ああ………。お前を手懐けて、そして失う瞬間、おそらく私は醜くお前に取り縋るだろう。そん
  な無様な姿になるのは、ごめんだ。」

  みっともなく取り縋るだけなら、まだ良い。もしもそのまま衝動に任せて、マッドを壊してしま
 ったら。そんな事だけは、何が何でも避けねばならない。
  意気地のないサンダウンの声に、マッドは本気で呆れたようだった。

 「くだらねぇ………こんな意気地なしを俺は追いかけてたってのかよ。冗談じゃねぇ……。」
 「そう思うなら、もう、止めろ。」
 「ああ、そうする。」

  あっさりと引き下がったマッドに、やはりサンダウンは獲物の中の一つでしかなかったのだと思
 い知らされた。だが、もはやそれに傷つく権利はない。何故なら、そうある事を望んだのは、サン
 ダウン自身だからだ。
  何も言えないサンダウンの腕の中から抜け出し、マッドは転がった死体から証となるものを手に
 取ると、さっさとサンダウンに背を向けた。ざくざくと遠ざかる足音に、サンダウンは途方もない
 喪失感と同時に安堵感を覚えていた。
  そこに、不意にマッドが立ち止まり、吐き捨てるように言った。

 「あんたはみっともない姿は見せられねぇっつったけど、俺は俺の所為であんたがそうなるところ、
  見てみたかったよ。」

  何か一つでも聞き逃してしまえば、それはただの嘲りに聞こえただろう。だが、一瞬の間を置い
 て、それが微かに焦がれを孕んでいた事に気が付いたサンダウンは、はっとしてマッドを振り返っ
 た。
  だが、既にマッドは愛馬に跨って踵を返していた。