それはあまりにも寒い夜だった。

  長年使われていないと思われる暖炉に、何本もの薪を入れて炎を高くしようとも、その炎が肌を
 焦がすくらい近くに寄ってみても、どこからか流れ込んでくる隙間風が背筋を撫でて全身を総毛立
 たせる。
  吸い込む空気は暖炉の炎など何処吹く風で、外の空気と同じように澄んだ夜空の匂いがそのまま
 した。
  それでも、こうして壊れかけているとはいえ屋根のある場所に潜り込めたのは幸いだ。曲がりな
 りにも暖炉もあり、そこにオレンジの光が灯っているだけでも気分的に大分違う。
  己の幸運にほっと息を吐いて、毛布で身体を包み直したマッドは、図らずとも視界の隅に映った、
 概ね茶色の物体に感じたばかりの幸運を微かに疑った。
  こんな寒波の酷い夜に、放浪する者達が屋根のある場所を探すのは至って当然の事。広い荒野で
 鉢合わせになる事は珍しくとも、一様に数少ない屋根を捜せばそういう事もあるかもしれない。
  むろん、賞金首と賞金稼ぎが、鉢合わせする事も。
  
  マッドは自分の眼の前で、同じように毛布に包まる概ね茶色の物体――賞金首サンダウン・キッ
 ドを見て、今度は憮然とした意味の溜息を吐いた。





  宝瓶宮





  いつの間にか、眠っていたようだ。
  暖炉の炎は当然消えていて、辺りは辛うじて輪郭が分かるような暗闇に満たされている。それで
 も思っていた以上に温かいのは、毛布にみっちりと包まっているからだ。

  そう夢見心地で思いながら、マッドはもう少し毛布を身体に巻きつけようと身じろぎした。
  いや、正確にはしようとした。
  だが、それは結果的に何者かに阻まれ不発に終わった。
  阻まれた、という言い方はおかしい。もっと正鵠を射るならば、マッドの身体自体がピクリとも
 動かなかったのだ。何やら重苦しい物に身体を完全に固められてしまっている。マッドよりも一回
 り大きく、なんだか生温かい――火が消えているのに温かいと感じたのはこの所為か――重苦しい
 物体。
  あまり、良い予感はしなかった。
  正直なところ、思い浮かぶものは一つしかないからだ。
  それでも念の為に、そして一抹の淡い期待を抱いて、マッドは辛うじて自由に動く首を捻って、
 背後から自分に圧し掛かっている、概ね茶色いであろう物体を確認した。
  果たして、そこには、概ね茶色い物体――サンダウンがいた。
  眼をしっかりと閉じて呼吸音も規則正しく、そして御丁寧にマッドの身体に手足を絡めて。予想
 通りの光景にマッドは軽く眩暈を起こしそうになった。ここまで己の予想通りである状態に、しか
 もまったく望んでいない状態に、涙が出そうだ。
  何故、髭面のおっさん、しかも犬猿の仲であるはずの賞金首に、背後から抱きつかれて動きを封
 じられなければならないのか。確かにぴったりとひっついていれば温かくもなるだろうが、だから
 と言って男二人がひっついている光景など見苦しい以外の何物でもない。
  とにかく、その見苦しい光景から一刻も早く自分を取り去りたくて、マッドはふぬっと力を込め
 てサンダウンの腕の中から抜け出そうとする。
  が、サンダウンの腕は、鋼鉄の鎖もかくやと言わんばかりに、みっちりとマッドに巻きついてい
 る。要するに外れない。しかも抜け出そうにも身体に食い込んでいるらしく、一ミリたりとも動け
 ず、かといって脚をばたつかせて抗議しようにも、マッドの脚はサンダウンの脚によって絡め取ら
 れている状態である。
  見ようによれば、非常に情熱的な抱擁と思えるかもしれないが、マッドとしてはそんな情熱はい
 らない。
  不幸中の幸いと言えば、毛布に包まったまま固められているので、寒くはないという事だけだ。
  がっちりホールドされたマッドは、それでも悪足掻きと知りつつも、むぎっ、とか、ふぎっ、と
 か変な声を上げつつサンダウンの拘束から逃れようと身体をもぞもぞと動かす。変に気合の入って
 空回った声に対して、身体はもぞもぞとしか動かないのが非常に恨めしい。
  それでも諦めずにもぞもぞっしていると、マッドの身体にマッドのもぞもぞ以外のもぞもぞが伝
 わってきた。
  どうやらサンダウンも身じろぎしているらしい。
  もしや起きたのかと思い、マッドが怒鳴りつける準備をしてその機会を伺っていると、サンダウ
 ンはマッドのそんな心境には気づかずに、マッドのもぞもぞを押さえ込めんとするかのようにホー
 ルドする腕と脚の力を更に強める。ふぎゃーっと声なき声で叫ぶマッドなど、お構いなしに。

  そして、

  お?

  がっちり固められたマッドの顔に、サンダウンの髭が近づく。

  お、おおお?

  あれよあれよという間に近づいてきた髭が、マッドの頬に当たった。そしてその後、一拍も経た
 ないうちに、髭の感触の中に何だか柔らかい感触が当たった。

  ほわーっ?!

  一瞬でそれが何か理解したマッドは、あまりにも想定外の展開に、意識が飛んだ。
  このおっさん、一体、この俺を何処の誰と勘違いしてやがるんだ。
  というか寝ぼけてやがるのか。
  一体、どんな夢を見てこんな事をしてくれやがるんだ。
  真っ白になった思考の中で、辛うじてそう思い、意識を取り戻す。しかし意識を取り戻したとこ
 ろで、現状を打破するには程遠い。とにかく、更に強くなった拘束のもと、無駄な抵抗を試みるし
 か手だてがない。全身に力を込め、もはやもぞもぞと動く事も出来ない中、必死にサンダウンの両
 手両足を解こうともがく。
  そこへ、元凶である寝ぼけたおっさんが再び顔を近づけてきて、規則正しい寝息の合間合間に、
 ぼそぼそと呟いた。

 「もう少し…………こっちに来い。」

  いや、もう十分にひっつかれてるんですけど。
  身動き一つ取れない状態なのに、まだ何を言うのかこのおっさん。
  マッドがその台詞にむかっ腹を立てるべきなのか呆れるべきなのか判断しかねていると、サンダ
 ウンはマッドの身体を抱えたまま寝返りをうった。
  のではなくて。
  マッドを身体の下に組み敷いた。

  ふぎゅ。

  マッドの口から潰される蛙のような声が漏れる。
  というか重い。その上、身体を完全に固められている所為で苦しい。このままだと、圧死するか
 窒息死する。
  そう思っていると、拘束が若干和らいだ。ただし、今度は両手をサンダウンの両手によって押さ
 え込まれるという状態で。そして背中にはサンダウンがやっぱり張りついていて。しかも今はサン
 ダウンの身体の下にいるわけで。
  マッドは自分の現状が、結果的にあんまり変わっていない事に死にそうになる。
  そんなマッドの心境をよそに、サンダウンはもぞもぞと首を動かし、ちょうど良い位置を見つけ
 るとそこに顔を収めてそのまま動きを止める。
  その、サンダウンが顔を収めた位置というのが、マッドの項の部分なわけで。
  ふさふさと髭が、ふんふんと息が、当たって、気色悪い。
  寒くはないから凍死する可能性はないが、別の意味で肝が冷えて、それを通り越してある意味憤
 死しそうである。

  一体、俺に、どうしろと?!

  悶絶するマッドの上を、サンダウンの寝息と夜の空気が、何事もないように通り過ぎていく。