「キッド、愛してるぜ。」

   満面の笑みを浮かべて、両腕を広げ、サンダウンの胸にダイブしてきた賞金稼ぎの身体からは、
  えも言われぬ甘い香りが漂ってきて、サンダウンは思わずその身体を抱き返しそうになった。
   しかしそれを寸でのところで止めたのは、悲しいかな、保安官時代に培われた用心深さだった。
  それと、これまでのマッドの自分に対する態度か。
   だからサンダウンは、実を言えば待ちに待っていたマッドからの抱擁を、非常に複雑な気分で
  受け止めていた。




   Baby,do you want the truth?





   まるで、ゴロゴロと喉を鳴らす猫のように、賞金稼ぎマッド・ドッグは、賞金首サンダウン・
  キッドの胸に飛び込み、熱い抱擁をかましていた。
   普段から、マッドは口元に笑みを湛えて、本気とも冗談ともつかぬ口調で、サンダウンを自分
  の物だと言い張る。それは時に『恋人』や『運命の相手』といった言葉まで飛び出して強調され、
  そしてその言葉通り、マッドは執拗にサンダウンを追い掛けるのだ。
   だが、その言葉に惹かれてサンダウンがマッドに手を伸ばせば、まるで腫れ物に触れられたか
  のように、飛び退ってしまう。そしてこちらの様子を、遠くから窺って、サンダウンがマッドに
  興味を失くしたような素振りを見せると、再びやってくる。
   そんな天の邪鬼な身体を抱きこむのは非常に困難で、ましてや、マッドの方からサンダウンに
  抱きつく事は、まずあり得ない。何せ、誰よりもサンダウンにへばりついているように見えて、
  実はサンダウン以上にそういった距離感に敏感な男だ。
   マッドがサンダウンを追い掛けるようになって、長い時間が経つが、マッドからサンダウンに
  触れた事は、数える程度しかない。むしろ、サンダウンがマッドに触れに掛かることのほうが多
  い。
   そんなだから、マッドがサンダウンに抱き付いて、愛しているのだと言った時、その言葉に溺
  れたいと思いながらも溺れきれないのは、当然の事だった。
   身体に圧し掛かる重みは待ち望んでいたものだが、しかし今まで与えられなかった上に、変化
  が唐突過ぎて――というか、変化などあったのか――胡散臭さを感じる。これまでサンダウンが
  抱き締めようとすれば、なんやかんやと言いながら逃げ出すマッドが、急激に素直になった理由
  が分からない故に、サンダウンの中には不審が積もる。

  「なあキッド、愛してるぜ。」

   うっとりとした端正な囁きは、そのまま甘い堕落へ誘いこんでしまう響きを湛えている。毒々
  しい赤い花弁が咲き乱れる罠は、しかしそこにサンダウンが陥るには、あまりにも見え透いてい
  る。

  「あんたに、惚れてるんだ。」

   耳朶を甘噛みしながらそう囁く賞金稼ぎを首にぶら下げたまま、サンダウンはこの身に起こる
  幸運のような形をした罠が、何に起因するのかを考える。
   マッドが、なんの考えもなしに――例え遊びであったとしても、こんな事をするには理由があ
  るはずだ。例えそれが、本当にしょうもない事であっても。

   眉根を顰めて考えるサンダウンは、マッドから薫る甘い香りが、柔らかい花の匂いである事を
  知る。そしてその匂いに、もう花が咲き乱れる時期なのかと、小さな感慨を覚えた。
   季節感の乏しい荒野で、まして人目を避けて生きるサンダウンには、今がいつなのかを感じる
  のは酷く困難だ。そこにきちんと区切りをつけるのは、いつもマッドの役割だった。マッドが涼
  しげな服装をしていれば夏が近づいたのだと思い、首に温かそうなマフラーを巻いていれば冬に
  なるのだと思う。
   そして、甘い花の香りを纏っていれば、冬が終わったのだと思うのだ。蕾が綻ぶ春が来たのだ。

   思って、ようやく思いついた。

  「…………エイプリル・フール、か。」
  「ちっ………。」

   思いっきり、舌打ちが聞こえた。
   その舌打ちに、溺れる事がなかった事についての安堵感と、微かに期待した甘いものが掻き消
  された苛立ちが込み上げる。
   が、マッドはそんなサンダウンなど無視して、先程までの甘い空気など掻き消して、さっさと
  抱擁を解いて身体を離す。その隙間に吹き込む風が冷たい。

  「あんたの事だから、そんなもん覚えてなくて、絶対に引っ掛かると思ったのに。」
  「……………。」

   余所でやれ、余所で。
   苛立ち募るサンダウンは、腹の底で呻くようにそう呟く。
   確かに胡散臭さを感じていたけれど、しかしそれでも思っていた温もりが、丸ごと偽りだと知
  れたなら、やはり感じるのは痛みだ。
   だが、そんなサンダウンの心情など一向に介さず、マッドは、自分の嘘にサンダウンが引っ掛
  からなかった事に、ちぇーっとつまらなさそうにしている。それがまた、腹が立つ。
   退屈そうに口を尖らせている賞金稼ぎに、サンダウンは苛立ち紛れにその腕を掴んで引き寄せ
  る。突然のサンダウンの行為に、マッドはよろめいてサンダウンの身体に寄りかかる。その耳元
  に、サンダウンは先程のマッドと同じように、甘噛み混じりに囁く。

  「ああ、私も、愛している。」

   その瞬間、マッドの眼が大きく見開かれた。そこに映る光が、奇妙に歪む。が、それは一瞬で
  掻き消え、彼の口にはいつもと同じ笑みが浮かび、サンダウンが乗りかかってきた事にいつもと
  同じ調子で返す。

  「ああ、だったら両思いか。俺らは。」

   けらけらと笑う声に、サンダウンは胸の内で舌打ちしながら、普段は何があっても決して口に
  しない言葉を互いに言葉にし続けた。




   次の日。
   マッドと別れて、しばらく馬を走らせた時、うらぶれた町を見つけた。
   そこの酒場の隅に、ひっそりと掛けられた日捲りカレンダーを見て、眼を見開く。そこにあっ
  た日付は、4月1日だったからだ。

   では、昨日の、あれ、は。

   サンダウンが吐き出した言葉に、マッドの瞳にある光が、何かを訴えるように歪んだ意味は。
   咄嗟に身を翻して、酒場から駆け出る。慌てて荒野を見渡しても、そこには当然、誰もいない。
  何処かにいるのだろうが、あの突き抜けた影は、今のサンダウンの眼には映らない。
   乾いた風が微かに花の匂いを運ぶ中、サンダウンは自分が間違いを犯した事をはっきりと悟っ
  た。そして、それを正す時は、やはりマッドから齎されるのを待たなくてはならないのだ。
   サンダウンの歯噛みの音は、砂が零れる音に掻き消された。