『お願いです……止めて下さい……オルステッドを……。』

  薄暗く水の匂いのする、まるで下水のような迷宮の一番奥。亡者達が怨嗟と呪詛の声を吐き散ら
 す一番奥まった場所で、その女性は豪奢な紫紺の髪を波打たせていた。
  胸の前で硬く組まれた繊細な指先は白く、それはもしかしたら、あまりにも硬く組まれ過ぎてい
 た所為かもしれなかった。ただ、その白い指も紫紺の髪も、そして美麗な顔立ちも、一つ風が吹け
 ば掻き消されそうに、白く濁りながらも透き通っていた。
  しかし彼女は今にも消えてしまいそうでありながらも、その迷宮にその他の亡者と同様に、やは
 り魂としてそこにあったし、何よりもその悲嘆にくれた懇願が、しっかりと音となって空気を伝わ
 っていた。
  その嘆願こそが、正に彼女がそこに存在している圧倒的な証拠だった。




  Andromeda

 
 



  富の名を冠しながらも、もはや富とはかけ離れた様相を呈するこの国。自分はその王女であると、
 悲嘆を繰り返す亡者は告げる。そして、この国を、人のいない異形だけが住む土地に変貌させたの
 は自分の夫であると。
  オルステッド。
  彼女は、自分の夫であり、この国を滅ぼした魔王の名を告げる。彼はこの国で一番強い戦士であ
 ったとも。
  最も強き者であったが故に、この国の頂点に立つに相応しく。
  だからこそ、闘技大会で見事勝利を収めた彼は、王女の夫の座――言わば、次期国王の権利を与
 えられたのだ。

 「って、なんかなぁ。」

  王女の言葉を、文字通り『読み取った』アキラは、大きな溜め息と共にげっそりとした声を出す。
 人の心が読めるという彼は、確かにこの迷宮のそこかしこで響く呪いの声の影響を、一番に受けて
 いるのかもしれない。
  だが、アキラがそんな声を出したのは、別にそんな繊細な理由からではなかった。

 「ふっるいよなぁ。」
 「何が?」

    アキラの言葉を聞いたレイが、聞いていた全員が思った感想を代表して問う。
  するとアキラは、肩の横で手を広げるジェスチャーをしてみせた。

 「いやいや、だってさ。一番強かったら王女様と結婚なんて考え方、古い古い。一昔前のゲームじ
  ゃねぇんだからさ。」
 「そうかぁ?普通だと思うけどな。」

  アキラの言葉に反論したのは、アキラの時代から見れば、どう考えても一昔前の時代を生きてい
 る日勝だった。日勝の子供時代のゲームと言えば、正しく、アキラが古臭いと言っていた『一番強
 かったら王女様と結婚』、もしくは『王女様を助け出せば結婚』というゲームが流行っていた時代
 である。
  しかし、この場においては時代の先端を行く――キューブにはどう考えても勝てないのでこの際
 置いておく――アキラは、そんなの古いと切り捨てる。

 「いやいや、そんなの駄目だろ。大体、そんなの男に恋人がいたらどうすんだよ。その恋人捨てて
  王女様と結婚すんのかよ。どう考えても駄目だって。ってか、今時はさ、守られてる王女様より
  も一緒に戦う恋人のほうが良いんだって。」
 「ぬ。しかし、強い男に娘を嫁がせようというのは、普通の考えではござらんか?そのほうが家も
  富む。」
 「けっ、それこそ時代遅れだぜ。そんな考え振りかざしてみろ。人権保護団体に訴えられるぜ。」
 「じ、じんけん?」

  幕末の忍者に対して、女権を振り翳しても意味はないのだが、アキラはおぼろ丸の意見も取り合
 わない。

 「そ。今の時代、女をそんなふうに扱ってちゃ、裁判沙汰だな。つーか、闘技大会で優勝したら有
  無を言わさず王女と結婚ってのも、十分に人権問題だ。」

  時代の最先端(キューブを除く)を行くアキラは、中世ヨーロッパで、明らかにその時代の考え
 からは見当違いな事を力説する。

 「そりゃあさ、助けた女と結婚ってのはロマンかもしれねぇよ。ほら、ポゴみたいにさ。あれは一
  種の男のロマンだと思うぜ。でもやっぱり、そういうのって今は流行らねぇんだよ。男はさ、守
  られてばかりの女よりも、一緒に戦ってくれて、時には包容力のある女ってのが良いんだよ。」
 「要するに、自分が女を守ったり、闘技大会で一番になれないから僻んでんだね。」

  滔々と語るアキラの言葉を、紅一点であるレイがすっぱりと切り捨てた。

 「だから、日勝もおぼろも、アキラの言う事なんか気にしなくて良いよ。どうせ、王女様とやらを
  助け出せない男の僻みだから。」
 「おう!そうだな!」
 「そうだな、ぢゃねー!」

  レイの言葉に反射的に元気良く返事した日勝に、アキラが怒鳴る。そしてアキラは返す刀でレイ
 に――身の程知らずにも――立ち向かう。

 「ちょっと待てよ!恋人が闘技大会に勝ったはいいものの、そのまま王女様と結婚しても良いって
  のかよ!」
 「それってどういう状況なんだい、一体。大体、闘技大会なんかがあったら、あたいも出場してる
  に決まってんじゃないか。」

  明らかに優勝候補の一として繰り出しそうなレイの姿が、恐ろしいほど漢前に見えた。漢女だ。 
  一瞬呆けたアキラは、はっとして首を振り、反論する。

 「そこは自分は出場しないでおけよ!だったら、例えば恋人が悪党に攫われた王女様を助けに行っ
  て、そのまま王女様と結婚とか!」
 「あたいが助けに行くかもね。」
 「なんで自分で動こうとすんだよ!」

  アキラが望む、自分と一緒に付いてきてくれる恋人――というよりむしろその恋人が勇者――な
 事を言っているレイに、アキラは意味も無く頭を抱える。
  そんなアキラを一瞥し、レイはふんと鼻を鳴らす。

 「そんな事言って、どうせその王女様とやらが美人だったら、あんただってほいほい結婚すんじゃ
  ないのかい?っていうか、アキラは一番結婚しそうだねぇ。」
 「な!んな事!」
 「あの王女様も美人だったしね。案外、オルステッドとかいうのも、それで結婚したのかもしれな
  いよ。」

  一国の王女の申し出を断る男は、普通はいない。だが、国王の座は重いだろう。そう簡単に受け
 入れられるわけがない。思慮深ければ尚更だ。
  オルステッドはそれをしなかった。だとすれば、オルステッドは国王の座を狙うほどの野心家で
 あったか、或いは国家の重みも感じられないほど思慮浅かったか、もしくは、王女の美貌に魅せら
 れてしまったか。

 「アキラなんかは、その口じゃないのかい?美人なら良いか、とか言ってさ。」
 「お、俺はそんなじゃねぇぞ!俺の希望は、俺を包み込んでくれる強くて優しい恋人なんだからな!」

  どさくさに自分の希望する恋人を宣言し、全ての男が顔で女を選ぶなんて思うなよ!と叫ぶ。し
 かし、レイに白々しい眼で見られたアキラは、けれども美人モデルのヌード写真集の前で立ち止ま
 ったりした前科もある故に、強く言い返せない。
  なので、そういった欲があまりなさそうな――むっつりかもしれないが――中年のおっさんに話
 を振る。

 「なあ、サンダウン!あんたもそうだろ!恋人は顔じゃねぇよな!こっちが守るだけってもの嫌だ
  よな!やっぱ、一緒に付いてきてくれて、一緒に戦ってくれるのが一番だろ!」

    先程まで、青少年の主張を黙って聞いていたサンダウンは、突然の無茶ぶりにも動揺した素振り
 は見せず、葉巻を燻らせていた。ゆっくりと青少年を見渡し、そしてやはりゆっくりとした挙動で
 咥えていた葉巻を口から話す。

 「……確かに。私の恋人は私と共に戦ってくれる。」
 「だよな!やっぱそっちのほうが良いよな!」
 「……面倒見も良いだろう。」
 「ああ、そうだよな!それが良いよな!包容力っての?なんか、羨ましくて腹立つけどな!」
 「しかし、あれは私から見れば守るべき存在だ。私が守ってやらねば。」
 「おいこら!調子乗ってんじゃねぇそ、おっさん!」

     徐々に惚気の様相を呈してきたサンダウンの恋人語りに――恋人語りだから惚気になってもおか
 しくはないのだが――希望の恋人に巡り合っていないアキラは、自ら話を振った事も忘れて、サン
 ダウンの言葉を怒鳴りつける。

 「なんであんたみたいなおっさんが、そんな理想の恋人みたいなもんを持ってんたよ!強いか、包
  容力があるか、守りたい存在か、そのうちのどれか一個だけ持ってるのを恋人にしとけよ!」
 「あれが、そういう性質なのだから仕方がないだろう。」

  アキラに怒鳴られたサンダウンは、溜め息混じりに返したが、しかし、当然の事ながらめげる素
 振りはない。それどころか、それに、と指を組んで祈りを捧げている王女の亡者を一瞥して、更に
 追いうちをかける。

 「あの亡者よりも、あれのほうが、美人だ。」