声と音









  どうして、と思った。
  どうして気付かなかったのだろう、と。
  何よりも心の片隅に置いて、誰よりも幸せであれと願っていた。自分の歩く血路にその道が交わ
 らないようにと願いつつ、けれども出来れば逢う事が出来たなら、と思っていた。
  その手の形から瞳の色まで、何から何まで全て刻み込んでいたつもりだったのに。
  ぼやけていく気配が、鮮烈なものにすり替わる。
  その事に酷くうろたえ、必死に抵抗し、ああけれどそれは全くの無意味で。抵抗する理性の裏側
 で、実は本能は悟っていたのだ。
  白い光の中で翻る黒い影が、ずっと求めていたものと寸分の狂いもない気配である事に。





  酷く眠い朝の様に、サンダウンは目覚める事を拒んで瞼を強く閉ざしたい気分になった。
  荒野を彷徨う己の特性を考えれば、それは決して許される事ではなく、むしろ命にかかわる事だ
 った。けれど、その心配が必要ない事を己の身体を抱き締める温もりが知らしめており、ずっと甘
 えていたかった。
  強請るように顔を擦りつければ、それに答えるように抱き締める腕に力が籠った。望んでも手に
 入り難い温もりにサンダウンは満足する。しかし同時に何か酷い焦燥を感じた。それが何なのか、
 曖昧模糊とした夢現の中では判然としなかったが、

  ―――キッド………キッド、……………サンダウン。

  今にも泣き出しそうな声が、引き攣れた焦燥が何なのかをはっきりと形作る。そんな声を出して
 欲しいわけではないのだと、その声の主の温もりに甘えて惰眠を貪っていたサンダウンは虚を突か
 れたような気がした。

  今まで一度も自分の前で涙を流した事のない少年が、泣いているような気がして。

  貼り付いて動かない瞼を無理やり抉じ開けると、眼の前に黒い影が覆い被さっていた。その背後
 には巨大な光輪が輝いており、酷く眩しい。思わず再び閉じてしまいそうになった眼をなんとか堪
 え、見上げれば、その顔はやはり逆光で良く見えなかった。
  それでも、と思い手を伸ばせば、すべらかな頬はサンダウンのかさついた掌を受け入れた。そこ
 はサンダウンの予想に反して濡れてはいなかったが、荒野の硬い砂の上で、こうして自分を抱えた
 まま凍りついたように動かない彼の姿が、その内面を強く物語っていた。
  指し伸ばした手をその眦へと動かすと、睫毛の密やかな感覚が指先に触れた。そこもやはり濡れ
 ていなかったが、

 「……………マッド。」

  眠りから覚めたばかりの声帯は酷く掠れ、一つの声を出すにも消耗が激しかったが、それでも名
 を呼ぶと、指先に触れた睫毛が微かに揺れた。同時にサンダウンの身体に立てた爪に力が籠る。し
 かし一言も声を漏らさない。

 「マッド。」

  もう一度、今度はちゃんといつも通りに声が出た。すると、逆光に隠された顔の中で、唇が動い
 た。

 「…………何考えてんだ、てめぇは。いきなり消えたかと思えば、今度は荒野のど真ん中に出てき
  やがって。」

  乱暴な口調。しかしその裏にある震えを探さずにはいられないのは、彼が何者なのか知ってしま
 ったから。そして震えを探すのは、それを期待するが故だ。もしも声に震えの一つを見つけてしま
 ったなら、きっとそこに見出す意味はサンダウンに都合の良いものばかりだろう。
  だが、分かっているのだ。そんな都合の良いものを探すよりも先に、

 「マッド。」
 「…………んだよ、何度も呼ばなくても聞こえてる。」

  言わなくてはいけない事があった。

 「マッド。」

  身を起こし、逆光に隠された顔を自分の前に曝させると、そこにあったのは繊細な星の光を湛え
 た黒い瞳だった。いつか見た夜空と同じ色の瞳の色に、もっと早く気付くべきだったと、もう一度
 後悔した。もしかしたら、もう遅いのかもしれないと一抹の不安が過ったが、

 「…………逢いたかったんだ。」

  お前に。

  マッドの過去の中でどれだけサンダウンが苦い存在になっていたとしても、寧ろ父親を殺し、母
 親の正気を奪い自由さえもを奪った存在として、忌み嫌われていたとしても。
  それでも、あの時確かに自分の存在を受け入れてくれた少年に、叶わないと知りながらも、誰よ
 りも逢いたかったのだ。もしかしたらその願いを口にする事さえも実は罪で、口にしたこの瞬間、
 身体が塩の柱になったとしてもおかしくないのかもしれない。

  腕を捕えて、罪深い事を承知で逢いたかったと囁くと、酷く苦いものが彼の顔を満たした。けれ
 ど瞳は澄んだままで。

 「俺は逢いに来たんだ、あんたに。」

  その気配だけを追いかけて。

  苦い苦い声でサンダウンを糾弾するマッドに、サンダウンは済まなかったと呟く。あらゆる物事
 を鑑みても、サンダウンには許しを請う以外に術がない。そしてマッドが今この場でその心臓を撃
 ち抜けと叫んだなら、サンダウンはそうするしかない。
  その澄んだ眼で、どのような断罪の鎌を振り下ろすのか。そしてそれが如何なる形でも、サンダ
 ウンは甘んじて受け入れる。

  マッドの裁定が、今のサンダウンには全てだった。

  そしてその裁定は、唐突だった。

  白く伸びた腕から指にかけてがサンダウンの首に巻き付き、胸元に爆ぜるような熱が投げ出され
 る。その肩越しには眩しいほどの青空が覗いている。その空を背負って、柔らかな訛りが微かに残
 る秀麗な声音が耳朶を打った。

 「あんたなんかよりも、俺のほうが、あんたに逢いたかったんだ。」

  何もかも、全部を捨てて此処にくるほどに。

  その台詞に、マッドが本来ならばこんな所に来るべき存在ではない事を思い出す。箱庭の中に閉
 じ込められ、食い違った愛情を注ぎこまれていた身体。けれども、そこから、飛び出したというの
 か。
  自分に逢う為だけに。

  それを理解すると同時に、自分の腕の中にマッドがいる事をようやく理解した。
  攫う事を夢見ながらも、二度と混じり合わないだろうと思っていた身体が、腕の中に飛びこんで
 きたのだ。
  それを抱き止めながら、何もかもを許された挙句何もかもを差し出された事に気付き、あまりの
 幸福の衝撃に、脳天がくらくらする。
  その衝撃が醒めない内に、サンダウンはマッドの顎に手を掛け、視線を固定させてから噛みつく
 ように警告する。

 「…………攫っていくぞ。」
 「攫っていけよ。」

  返ってきたのは、不敵な笑みだった。
  端正な指が肩に食い込むのを感じながら、自分も以前よりも更に強い力でその身体を抱き締める。
 するといっそうマッドは身体を擦り寄せてくる。その身体を線をなぞりながら、想像していた以上
 に遥かに端正になった身体に、甘い痺れを感じた。その感情のままに身体を引き寄せても、抵抗は
 ないし、もう邪魔するものもない。
  白い手を絡ませて、その一本一本を丹念になぞっていると、遠い日の約束を今更ながらに思い出
 した。他愛いのない、そして果たされる事がないと思っていた約束。それを甘えるような気分で強
 請る。

 「…………ピアノを、弾いてくれるんじゃなかったのか?」

  黒髪に指を差し込み問い掛けると、マッドは一瞬驚いたように眼を見開いたが、ゆっくりと口元
 に笑みを広げた。

 「あんたが望むなら、いくらでも。」

  甘い囁きと共に、マッドはその身をサンダウンの前に嫣然と曝け出した。