斜陽と狂気











  白と黒の鮮やかなコントラストが眼の前から消え去り、直後に広がったのは寒々しい色合いの森
 だった。雪の白が深く降り積もった世界は、しかしその白はマッドが持つ色からは程遠い。
  いや、白だけではない。全ての色が、マッドが背負っていた世界には遥か及ばない。
  あまりにも冷たくくすんで霞んだ世界には、血の通った生物が一つとしていないようだった。立
 ち並ぶ木々でさえ、石のように硬い。

  足元に縋りつく手のような雪を払いのけ、サンダウンは周囲を見回した。
  異様な声の鳥達が何処かで羽ばたいている。奇妙な唸り声も聞こえる。なのに、辺りは恐ろしい
 ほど静かだ。声という声が、実は骨が喋っているのだとでも言うのか、賑やかさというものがない。
 ひたすらに静寂を圧迫するものへと転じさせている。
  だがその静寂の根底で、何者かの声が幾重にも幾重にも、ぼそぼそと囁いている。

  ――そうだ此処は絶望の都嘆きの庭此処には何もない何もない何もない有るとすればそれは人の
 醜悪邪悪それら全て寧ろなければ良いようなものばかりだから私はこの世界を滅ぼした人間達を滅
 ぼした世界はそうであるべきだ醜く矮小な彼らは消え去るべきだ。

  延々と繰り返されるそれは、耳を塞いでも、石の中から聞こえるように湧き出してくる。

 「マッド………?」

  余りの事に、思わずその残滓すら見えない男の名を呼んだ。
  彼は此処にはいない。世界の全て――くすんだ色、血の通わない物音、石のような生き物――が、
 彼は此処にいない事を示している。それでも咄嗟に、鮮やかさそのもののような男の名を呼んだの
 は、せめてもの抵抗だったのか。

 「マッド。」

  ほんの少し、呼吸が楽になった。耳鳴りの様に聞こえていた呪詛が、それでも何事か囁いている。

  ―――何故守る何故愛する何故慈しむそんな意味などないというのに彼らは望むだけだ願うだけ
 だ祈るだけだそして奪うばかりだお前達だってそうだろうお前達も自分の欲望の為に奪うそれこそ
 が人間だ汚らわしい真実から眼ばかり逸らし裏切るばかり。

  気が狂うかのように囁く声を押し切るように掌に力を込めると、硬いものが指先にぶつかった。
 はっとして手を開くと、そこにあったのはひしゃげた銀色の円盤だ。掌にすっぽりと収まってしま
 うその片面には、いつか見た模様が。そして裏面には名前が刻み込まれている。
  事実を突きつけられて、思わずよろめきそうになった所に、声が響く。

  ―――どれだけお前が英雄と嘯かれても、その裏で泣いているものが大勢いたはずだ。それに眼
  を背けて生きるお前を一体誰が許すと言うのか。なあ、どう考えてるんだ?

  沈黙の底を這うばかりだった声が、じわりと滲むように浮き上がり、そしてその声音に懐かしい
 ものが混ざる。再び伸ばされたくすんだ色は、だが、やはり見慣れた形をとった。

  ―――そんな何事にも興味がない顔したって、実は断罪されるのが怖かっただけじゃねぇのか。
  本当は罪から逃れる事に必死で、もしかして今は俺を殺したがってるんじゃねぇのか。あんた
  の一番の罪を知ってる人間だもんなぁ。

 「違う!」

  いっそ、マッドの表情まで作り始めたくすんだ色に、サンダウンは絶叫するように否定をぶつけ
 た。

  彼の胸から零れ落ちたこの銀の円盤の意味する事が、もしもサンダウンが思い描く事と寸分の狂
 いもないのなら。この響く狂気の言う通り、マッドがそうだと言うのなら。

  サンダウンは、今すぐにでもマッドの前に行き、この心臓を差し出さねばならない。

  この、おこがましくもマッドの顔と声を作り上げる、魔王の前にではなく。
  
  今にもサンダウンの心臓に絡みつこうとしていた魔王の舌を払いのけ、サンダウンは肉色の羽根
 を広げる青年を見上げた。その肩越しに見上げた空は、やはり濁り切り、この身体がマッドの振り
 をしようとしていたのかと思うと嫌悪感しか湧き立たない。
  この世界をこんなみすぼらしい色にしたのは、この青年だという。そのみすぼらしい色で、何よ
 りも鮮やかで苛烈で愛しい姿を描こうとしたのか。
  むしろその傲慢さは、凶暴な命を一度でも自分の物にしようと夢見たサンダウンと同じものだと
 いうのに。それはまるで、月に恋焦がれた水母がその光を浴びて月の真似事をしているよう。

  飛散したマッドの影になど見向きもせず、サンダウンは自分と同じ味の魂を持つ青年に銃を向け
 る。
  もしかしたら、本当はこの青年のいるこの世界こそが、自分が住まう世界なのかもしれない。
  もしも時期が時期なら、或いはサンダウンが取った選択肢如何によっては、サンダウンも望んで
 この朽ちる世界に居残ったかもしれない。
  けれど、サンダウンの絶望は今現在は眠りの内にあり、そしてサンダウンはまだ何一つとして失
 ってはいない。何よりも、サンダウンの為の断罪の刃は、この青年が手の中に垂れ下げている血を
 吸い過ぎて黒ずんだ剣ではない。自分を裁くのは黒光りする銃口から吐き出される銀の銃弾だ。

  帰らねば。

  帰って、その足元に跪いて許しを請うて、首筋に降りかかる大鎌を待ち侘びて。

  サンダウンは、いつもその瞬間を待ち望んでいた。夢に近しい事だと思っても、望まずにはいら
 れないほど。かの少年に裁かれる瞬間を待っていた。
  いつしかそれは凶暴な光によって薄れてしまった。けれど、実は本当は、マッドの爆ぜるような
 熱の籠った手によって齎されるものだと言うのならば、もはやそれは望むところだ。

  ―――キッド、キッド!何処だよ!サンダウン!

  甘く柔らかな訛りのある、けれども端正な声が悲痛に歪んで叫ぶのが、石の沈黙よりも遥かに深
 い所から確かに聞こえた。

  その声が全てを決めた。

  マッドが、それを望んでいると言うのならば、もはやサンダウンに迷う理由はない。

  怪鳥のように叫び、最期に追い縋る魔王の姿に向かって、サンダウンは吐き捨てる。

 「私は、自分のいた世界に戻りたいだけだ!」

  ―――そして、轟音。

  一瞬後に翻った光は、くすんだ世界など必要ないのだと言うように辺りを漂白し、消し去った。
  その後に残った、小さな黒い鮮やかな点だけが、全てだった。