氷解と一別








 
 
 
  サンダウンは、ぬばたまをそのまま切り取って形作ったような馬を前にして、顔を顰めた。
  殺された人間の憎しみを背負い、それによって身体を燃やされて遂には人間となり悪事を働いた
 馬は、その生い立ちに相応しい混沌とした毛並みを見せていた。不吉と不幸を連想させるその姿は、
 黙示の日に泡を飛ばしながら駆けずり回るという蒼褪めた馬に近しい。
  だが、一見制御不能なかの馬は、実は凶暴な光のような男の手の中でしっかりと制御されている。
 馬のほうも男がどのような存在であるのか分かっているのか、誇らしげに男を背に乗せて大地を駆
 っている。
  憎しみの名を持つ馬を飼い慣らした男は、次はサンダウンの絶望さえ飲み下そうと言うのか、サ
 ンダウンを見つけると微かに笑んで見せた。

 「よう。また逢ったな。」

  共にO.ディオを打ち倒してから、数日経っている。しかし、この広大な荒野で再開するにはその
 時間は短い。それはサンダウンとマッドにしてみればいつもの事だ。性懲りもなくサンダウンを追
 いかけるマッドは、何処でサンダウンの情報を見つけてくるのか、別れてもすぐにサンダウンを見
 つけ出す。

  だが、今日はいつもと雰囲気が違う。
  凶暴で苛烈な鋭い光。それは変わらない。しかしその中に一筋、奇妙に薄暗い光が差し込んでい
 る。
  その微妙な変化にサンダウンが顔を顰めている間に、マッドは影の様に黒い馬から降りる。薄い
 身体が、岩と砂ばかりの色の中にぽつりと濃い色を落とす。

 「あんたが一向にその気にならねぇから、俺のほうでもちょっと考えて、趣向を変えてみた。やっ
  ぱりいつも同じってんじゃあ、あんたも飽きるだろうからな。」
  またおかしな事を言い始めた賞金稼ぎに、サンダウンは何か背中が粟立つものを感じた。
  マッドが奇を衒ったような気障な物言いをするのはいつもの事だ。何処から引用しているのか分
 からない言葉は、時としてサンダウンには難解だ。
  けれど、今しがたマッドが紡いだ台詞の意味は分からないものの、何かが酷く不吉だ。現にマッ
 ドの傍らに立つディオが、一瞬その力を取り戻したように見えた。鼓動が、終わりを告げる鐘が忙
 しなく警告するように揺れているように聞こえる。
  しかしサンダウンにはそれを遮る手段が分からない。

 「別に、人質をとったりしてあんたを脅そうってんじゃねぇ。」

  サンダウンのしかめっ面に何を思ったのか、マッドは今にも消えてしまいそうな淡い笑みを浮か
 べている。だが、放った言葉は鋼鉄の斧のようだ。

 「ただな、俺と一緒にいるってのに、あんたが他の誰かの事を考えてるのが腹立ったからな、一体
  あんたにそんなに想われてるのは誰だろうと思って、調べてみただけだ。」 

  思わず眼を見開いたサンダウンに、マッドは声を立てて笑った。止めろ、と制止する暇もなかっ
 た。マッドは切り札を見せるように嬉々として言葉を紡いでいく。

 「けっこう簡単に分かったぜ、あんたの事も、あんたの中にトラウマとなって残ってそうな奴の事
  も。何せ、あんたは俺の前で結構答えを出してたからな。」

  なあ、とマッドは首を傾げる。そして屈託なく、サンダウンが心の底に沈めていた箱を拾い上げ
 た。

 「サクセズ・タウンで見たあのピアノは、間違いなくあんたの琴線に触れたんだろう?」

  そして何の感慨もなく、箱の中身をぶちまける。マッドは既にその中身が何なのか知っているの
 だ。それが何の価値もないとでも言うように、マッドは口に出して言葉にする。

 「そんなに、自分が殺した男の子供が大切か。」

  射抜くような言葉は、視線で以ても表わされる。何の戸惑いも躊躇も、それどころか罪悪感すら
 ないのだというように、マッドは一寸たりともサンダウンの視線から己の視線を外さずにその台詞
 を言ってのけた。
  放たれた台詞にか、それともマッドの目線にか、サンダウンが息を詰めていると、マッドは、は
 と嘲笑するように息を吐いた。

 「でも大切だと言ってる割には、あんたの態度は随分と薄情じゃねぇか?あんたは、その子供のそ
  の後の人生を知らないんだろう?それとも、大切だったのはその瞬間だけで、それが壊れるのが
  怖くて逢いに行かなかったのか?」

  思いもよらぬ事を言われて、サンダウンは眼を見開いた。そしてそれは、思いもよらぬ事である
 と同時に、一旦突き付けられてしまうと腹の底に蟠る言葉でもあった。
  そんなサンダウンに向けて、マッドはバントラインの黒い銃口を突き付ける。

 「話してやろうか、俺が、あんたが硝子細工みたいに思って大切にしている瞬間の、その後の事を。」

  ガンメタルグレイの口が、荒野の強い日差しを浴びて一瞬白く光った。それは、無慈悲に何もか
 もを呑み込む男が、捕えた獲物に牙を埋めるのを見せびらかすような行為を思わせた。けれど、マ
 ッドはもっと残酷だ。

 「なあ、キッド?知りたくないって言うのなら、俺が声を出す前に撃ち落とせよ。眉間でも、心臓
  でも、なんなら喉でもいいぜ?二度と、俺が手出しできないように。」
 「………………。」

  これほどまで、酷い、と思った事はない。
  マッドはこれまで、自覚的にサンダウンの中を食い荒らしてきたのだ。サンダウンが大切に閉じ
 込めていたものに毒牙を滴らせて、全部自分で埋め尽くした。けれども今になって、これ以上荒ら
 されたくないのなら殺せと言う。しかも、サンダウンの内部を自分で満たした事には無自覚で。
  マッドが嫉妬している相手の姿など、サンダウンにはもう輪郭も思い出せないのに。そしてそこ
 まで霞ませたのは自分だというのに。

  無防備に曝された身体を見て思う。
  今この場で、その身体を撃ち抜いたなら。
  力なく横たわる身体を、きっと自分だけの物に出来る。鮮やかな世界から引き剥がして、誰の眼
 も届かない暗い淵のような場所に連れていける。未来永劫、サンダウンの為だけの白い身体が手に
 入る。
  それは、かつて、ほんとうに昔、かの少年に対してサンダウンが思った一抹の欲望に似ている。
 それは結局、銀色の懐中時計の煌めきに阻まれて出来なかったけれど、今なら。何よりも、マッド
 がそれを望んでいる。

  サンダウンの気配が変わった事に気付いたのか、マッドからすっと表情が消える。その眼に灯る
 光が、攻撃的な色に染まる。マッドが臨戦態勢に入った証拠だ。

  跳ね上がった腕は、狙点を合わせる事もしなかった。どの弾道を使えば、彼の胸を貫けるかなど、
 幾度もの対峙の末に既に分かり切っている。
  風を切る音の後に響いたのは、妙に澄んだ音だった。

 「………っ。」

  小さくマッドが息を詰める声がした。くらりと胸を押さえて跪いた彼は、軽く咳き込んだ。黒い
 眼を瞬かせ、不思議そうに胸元から手を放す。
  不思議なのはサンダウンも同じだ。
  何故、マッドは、一滴も血を流さない。
  胸元から放した掌を見た瞬間にマッドの顔が歪むのをサンダウンは見逃さず、素早く近づいて、
 その手を引き寄せた。
  白く繊細な手の中に散らばっていたのは、銀色の欠片だ。歯車や螺子や硝子に混じって、小さな
 針が三つ存在を主張している。

 「違う、これは違うんだ。いつもは右の隠しに入れてるんだ。ただ、今日は、そこが綻んでたから、

  左の胸ポケットに。だから、キッド、これは、違う。」

  逃げを打ったマッドの身体を今一度強く引き寄せて、まさか、と思いながら銃弾を受けたジャケ
 ットの左胸を見る。解れて開いた穴から覗く銀の円盤。ひしゃげたそれは、けれどそこに刻まれた
 模様を、サンダウンは知っている。

 「マッド。」
 「違う、キッド、これは、違う。俺は、そうじゃない、こんなつもりじゃ、ない。」
 「マッド!」

  否定するように逃げるマッドの名を強く呼ぶのと、マッドが大きく眼を見開くのは同時だった。
 宇宙の果てまで見通したような瞳に見惚れる暇もない。ディオが立ち込める気配に忙しなく地面を
 掻く。ぞくりと背後に広がった気配は薄く笑いサンダウンを呼ぶ。

 『誘おう………。』

  そちらに引き摺られようとするサンダウンとマッドの間に、ディオがマッドを庇うかのように身
 体を割り入れる。その間にも、みしりみしりと口を開いた絶望は近づいてくる。

 「サンダウン!」

  逃げようとしていた柔らかな訛りのある声が事態を察して、鋭く手を伸ばしてサンダウンを引き
 寄せようとした。サンダウンも白い指先を掴もうとする。
  しかし、爪先が触れ合った瞬間、それを待ちわびていたように世界は二つに分かれた。