追憶と感知
 
 
 
 
 
 
 

 「負けないよね。」

  鳶色の眼を真剣に見開く少年に、ふっと遠く離れて噂も聞く事がない人の面影を探した。
  けれど、心の内にある彼の残り香が薫ったのは一瞬の事。
  遠い昔に近い出来事の中にいる存在は、どれだけ大切に胸の内にしまっておいても、少しずつ色
 褪せていくものだ。
  一番最初に掠れていったのはその声で、今ではその輪郭さえ思い出せない。辛うじて覚えている
 のは、甘い色をした黒髪と黒瞳だが、それは新たに現れた超新星の前にあっさりと姿が霞んだ。

「おい、キッド!」

  その超新星は、乱暴に、しかし絶妙なまでに蟲惑的な声でサンダウンを呼ぶ。こんなふうに声に
 様々な色合いを混ぜ込む事が出来る人間を、サンダウンはこれまで見た事がなかった。
  だが今宵、小さな町を食い潰すならず者を捩じり切る為だけに手を組んだ賞金稼ぎは、その稀有
 な声音を難なく作り上げていた。

「この倉庫はもう調べたじゃねぇか。なんでまた捜す必要があるんだよ。」

  不服そうに口を尖らし、此処にはもう罠になりそうなものはないだろう、と言う。そんな様子は
 西部の屈強な男がしたら顰蹙ものだが、不思議とこの男の場合はあどけなさが広がるだけで不気味
 さはなく、ともすれば下品に見えるそれ自体も愛嬌で済んでしまう。

  けれどある日、稲妻の如く唐突に自分の前に現れたこの男は、紛れもなく西部屈指の賞金稼ぎだ。
 サンダウンの命を狙って爪を研いでいるのだ。

  性質が悪い賞金稼ぎは、悉く撃ち取ってきた。何度あしらっても噛みついてくるマッドは、性質
 が悪い賞金稼ぎではないのだろうか。誰よりもサンダウンの首の近くに死神の鎌を突きつけている
 男だ。本来ならば、直ぐにでも殺さねばならない。
  しかし、来る日も来る日も微笑んで銃を掲げるその姿に銃弾を叩き込まない理由を、サンダウン
 は延々と答えを出す事を先延ばしにしている。
  実のところ、答えはとうの昔に出ている。けれど、それを明確な形にした瞬間、本当にマッドを
 殺せなくなる事は、眼に見えていた。 

 「キッド?」

  ぶつぶつと文句を言いながらも、既に家探しした後の倉庫を再びかき回していたマッドは、手を
 止めているサンダウンを怪訝そうに振り返る。すっとサンダウンを見つめる瞳は、宇宙を溶かして
 固めたような黒。透き通ったそれは光を吸収して、時折驚くほど鋭い色を浮かべる。

  その色が、眩しすぎる事に気付いたのはいつだったか。
  受け止める事が困難を極めるほど、マッドの視線は突き抜けるように澄んでいる。そしてその澄
 んだ湖水のような底にあるのは様々な感情の坩堝だ。サンダウンに対して向ける眼差しは妥協が出
 来ぬほど明確な感情に満ちている。
  なみなみと波打つ感情は、凄まじい熱となり光となり、あちこちに飛ばされる。それを求める者
 の数は少なくない。でなければ、彼の身体にしな垂れかかる女達がいようか。その足元に身を投げ
 出す男達がいようか。魅惑的で苛烈で凶暴な熱は、津波のように人の心を攫っていく。
  そして、彼らを呑み込んだのと同じように、マッドはゆっくりとサンダウンを侵食していく。そ
 れどころか強烈な光は、サンダウンの中で大切に閉じ込められていた、同じく澄んだ、しかし穏や
 かな眼差しを、あっさりと凌駕して呑み込んでしまった。

  あの遠い少年の事が今では酷くぼやけている理由は、何も少年が遠くなったからではない。今ま
 でずっとサンダウンの中で強い刻印を残していた存在が、置き換わった所為だ。
  その事が、サンダウンを途方に暮れさせている。
  自分の最上位にあったものが、こうもあっさりと挿げ変わった事は、少なからずとも衝撃だった。
 更に、少年の事を思い出しても、それほど心が引き攣れない。むしろ、マッドの侵食がなければ思
 い出さぬくらいだ。
  何よりも、それが決して不快でない事が、一番サンダウンを戸惑わせている。
  それどころか、マッドの意識が自分にだけ注がれる瞬間が、この上なく心地良い。この世界の全
 てに跪かれている男が、自分を求めている様は優越感をそそる。

  そんな自分の心根に気付くたびに、サンダウンは愕然とする。
  自分に課したはずの血みどろの道には、マッドがばらまいた世界の欠片が敷き詰められている。
 歩き始めた時に感じていた悲嘆は、薄れてしまった。
  そして同時に、心の底で寄る辺にしていた穏やかさは少年の面影と共に薄れ、代わりにマッドと
 同じような苛烈な感情が渦巻いている。

  じわじわと自分の中で海の様に広がる男が、心底、恐ろしかった。
  今すぐにでも殺さねばならないのではないかと感じるほど。
  そしてそれが困難を極めるほど、マッドはサンダウンを侵食している。
  
 「何、ぼさっとしてんだよ。遂にボケたか、おっさん。」

  苛立ったような――けれども相変わらず艶めいた――声の直後に、カチリ、と撃鉄を上げる軽い
 音がした。銃の眼線を感じて見れば、マッドが顔を顰めて銃口をこちらに向けている。

 「随分と呑気じゃねぇか。この俺が直ぐ傍にいるってのに気を散らすなんざ、命取りだと思わねぇ
  のか。」

  視線に込められた苛立ちと、その後ろにある微かな震え。何もかもが明瞭であるマッドの感情の
 中で、その震えだけが、実はまだ掴み切れていない。

  黒い銃口を一瞥し、先程捜したばかりの倉庫の中を見回す。確かに、マッドの言うように罠とな
 りそうなものは何一つ残っていない。
  けれど。

  サンダウンは視線を巡らせて、薄暗い室内の一画で埃を被っている茶色の箱を見つめる。
  過去、あの嘆きの館の中で見たものとは格段に劣るであろう、それでもその中身はサンダウンが
 期待しているものと同じ。中に詰まっているのはサンダウンには理解できぬ器官と、辛うじて分か
 る黒と白の骨だろう。
  サンダウンは、その姿をもう一度確認する為だけに、この倉庫にやってきたのだ。

  あの少年の事を、忘れない為だけに。
  今度逢う時は、と震えながら呟いた彼の声を手繰る為だけに。

  けれどそれは長く続かない。

 「へぇ、ピアノか。こんな辺鄙な町にもあるんだな。」

  埃被ってるけど、と言ってマッドは感慨一つ見せずに茶色の箱の傍に立つ。すっきりと細身な身
 体の影がピアノにすっと落とされた様子に、サンダウンは一瞬見惚れた。
  そして、一枚の絵画のような静かな世界に、はっとした。
  また、侵食された、と。
  少年の記憶を辿る為の行為だったのに、その一瞬、完全に少年の事を忘れていた。

 「………中は綺麗だけど、音は狂ってるかもな。手入れとかしなさそうだしなあ。」

  ひょいっと蓋を開く白い指が、あまりにも想像していた通りだったので、サンダウンは思わず視
 線を逸らした。それでも、白と黒のコントラストが眼に映った。そこに、細い指が添えられるのも。

  今度こそ身体ごとマッドから逸らし、拒絶する。
  耳には、想像していた音は聞こえなかった。それに安堵し、サンダウンは何一つ手にする事もな
 いまま、倉庫から出ていく。
  その背後で、マッドが鍵盤の蓋を下ろす音が聞こえた。そして、彼が小さく笑った声が。

  けれど、その笑みが今にも泣き出しそうだった事は知らない。



  鐘がゆっくりと、共に在れる時間の終わりを告げた。