厳冬と啓蟄
 
 
 
 

  その日、彼は小さな鞄だけを持って家の前に立っていた。

  それは家に戻ってきた日であり、同時に家から出ていく日でもあった。
  大学の修了証書だけを薄い鞄の中から取り出し、彼はそれをエントランスに置き去りにする。
  此処には二度と帰って来ないつもりだ。幼い頃から、ずっと白い腕に囲われて閉じ込められてき
 た。そこから飛び立つ事が生きる目的になったのは、一体いつだっただろう。
  多分、と黒い髪を掻き上げながら思い出す。
  この家に引っ越してきてから数年経ったある日に眼にした、遠い西部の出来事を記事にした新聞
 を読んだ時だろう。
  西部からやってきたという男が、その地の新聞を持って帰っていた。 何の気なしにそれを読ん
 で、その片隅に掲載されていた記事で眼が止まった。 
  瞬間に身体を駆け巡ったのは何だったのだろう。
  西部のとある州で保安官を務める、銃の名手で無血逮捕を貫く男の名前。 

  俺は、この男を知っている。

  此処に引っ越す前、南北戦争の傷跡深いあの街で、この男に出会った。
  自分の父親を殺したのだという男で、母の呪詛を一身に集めていた男で、自分に唯一外界の事を
 教えて逢いに来てくれた男。
  実を言えば、彼と一緒にいた期間はそう長くない。恐らく、一年も一緒にいなかった。逢えた時
 間となれば、更に少ない。それでも、あの青い双眸も砂色の髪もその色彩は、しっかりとこの網膜
 に刻まれている。名前を見ただけでその気配の一滴さえ思い出せるくらいに。

  この記事は母親に見せられないな、と思いながら自分はどうなのだろうか、と思った。
  彼の事を憎んでいるのだろうか。彼が父親を殺していなければ、自分は母親の白い腕に閉じ込め
 られる事もなく生きて行けただろうか。
  考えて、首を横に振った。
  考えないようにしていたが、父親が戦争に行き、南部軍が劣勢に立たされ、使用人達が次々と消
 えていくうちに、母親は心の均衡を失っていったように感じた。それは父親のいるいないに関わら
 ずに起こった。父の死は、原因の一つにすぎない。
  線が細い母は、失う事に怯え、決して失われない存在として、自分を箱の中に閉じ込めたのだ。

  けれど、そうだ、約束をした。

  新聞を握り締めて、その記事に額を押し付け、思い出した。

  逢いに行く、と自分は、この男に言った。いつか母親の箱の中から抜け出して、逢いに行くと。

  いつのまにか檻に閉じ込められる事に諦観の念を抱き始めていた心に、火が灯った瞬間。
  光が差し込む部屋の中から、硝子越しに青空を見て自由を望んでいたけれど、その窓硝子が割れ
 る事ばかりを夢見て割る事は考えていなかった。

  逢いに行こう。

  まだ硝子を割るだけの力はない。けれども必ず窓硝子を叩き壊して、箱の中から飛び出して、白
 い腕を振り解いて、青空の下へ飛び立つ。そして、約束通り逢いに行こう。
  千切れるくらい新聞を握り締め、そう誓った。

  そして彼はもう空を見上げてばかりの少年ではない。予行演習と自分で銘打った大学の寮生活で、
 十分にそれ相応の力を身に着けた。だから今日、この檻から出ていく。

  扉が開いて、白い腕が広げられた。自分の手元に戻ってきた身体を、再び閉じ込めようと、彼女
 は階段を降りてくる。その姿を見て、老いたな、と思う。目尻に浮かんだ皺が、その人生の寂しさ
 を示している。そして今日、彼女は唯一自分の物と信じて疑わなかった息子まで失うのだ。
  けれどそれに心を痛める余裕はない。今は必死になってその腕から逃れる時だ。

 「ああ、やっと帰って来たのね。私の可愛い子。」

  黒髪が波打ち、黒い眼が夢見るように微笑んだ。
 
 「疲れたでしょう。さあ、こちらにいらっしゃい。今日はゆっくり休むといいわ。これからはまた
  一緒に暮らせるんだもの。」
 「………………。」

  彼女と同じ黒い眼を彼女に向けて、その顔に亀裂を入れるべく、ゆっくりと口を開いた。

 「もう、此処には帰って来ない。」

  転瞬、緩やかに動いていた白い腕が、凍りついたように固まった。表情も歪に止まっている。

 「俺は西部に行くんだ。貴女は連れていけない。」
 「何を言っているの………?」

  意味が分からないというような曖昧な笑みを浮かべる彼女に、静かに微笑みかけた。
  老いた彼女を老いていくのは確かに心苦しい。彼女は誰かに依存せねば生きていけない人だとい
 う事も知っている。父親がいなくなった後、何度も男を捕えては取り換えてきた事も、知っている。
 幼い自分を置いて男のもとに向かった事だって何度もあった。けれどもそれは彼女が弱い人だから。
 とにかく、周りに人がいて、愛されないと気が済まない人だから。
  幼い頃、自分とあの男が逢うのを極端に嫌がったのは、その所為だ。
  そう、自分は知っている。
  母親が極端にあの男と自分が逢う事を嫌がったのは、自分があの男に懐いて母を置き去りにする
 事を恐れてではない事を。
  あの男の眼線が、彼女を見ずに、彼女の息子である自分ばかりを見ていたからだ。そう、彼女は
 あの男に惹かれていた。夫を殺し、その贖罪としてそっと援助をするあの男に依存しようとして、
 失敗したのだ。自分の息子に阻まれて。

  そして今から、自分はあの男を目指してこの家を出ていく。

 「元気で。可能な事なら、幸せに。」

  広げられた腕を掻い潜り、背を向ける。その背に、彼女の嘆きの声がぶつかってきた。伸ばされ
 る手が指が、まるで死霊のように追い縋ろうとする。それを避けて走り出す。彼女の脚が自分の脚
 に追いつく事はない事を見越して。もはや呪詛に近い声を甘受しながら、かつての少年は、西部へ
 向かう列車が待つ駅へと急いだ。





  また、一発の銃声が轟いた。
 
  崩れ落ちた無法者を引き摺り上げ、検事に引き渡しながらこれで何度目かと思う。何処で自分の
 銃の腕を聞きつけたか知らないが、銃の腕に自身のあるならず者共は、数多くの仲間達に引導を渡
 したサンダウンに復讐か単に腕試しのつもりか、こうして決闘を申し込んでくる。
  決闘ならばまだいい。時には人質をとって、時には大勢で街に攻め込む事も多くなった。
  そして、何よりの問題は、検事に引き渡された彼らは伝手を使って直ぐに釈放されるという事だ。
 だから、サンダウンを襲う無法者の絶対数は増えるばかりだ。そしてそれに伴い、街には殺伐とし
 た喧騒が広がり始めている。
  街を守るはずの保安官である自分が、災いを呼び寄せている。今はまだ小さな火種であっても、
 それはあちこちに飛び火し、いつか取り返しのつかない事になるだろう。

  そして今日、遂にサンダウンは、保安官になってから初めて人を殺してしまった。
  若い娘を人質にとって、酒場に立て籠るような卑劣な人間だった。殺した人間の数と犯した女の
 数を喜んで覚えているような犯罪者だ。それだけを名誉としてサンダウンを呼び寄せた。決闘と言
 う手段ではなく、人質を立てにした卑怯な方法で、サンダウンを撃とうとした。
  普通に考えれば、人質の命や周囲の安全を鑑みても、撃ち殺す事は苦渋の決断だったとはいえ、
 決して責められるような事ではない。

  だが、それは、サンダウンの中で確実に何かが崩れた瞬間だった。

  かさついた自分の手を見下ろす。西部の乾いた風に染まった自分の身体は、放っておけば次は無
 法者達と同じ、命を奪う事に慣れた身体になるかもしれない。それは、あの南北戦争時代の時と同
 じ、自分の身体が自分の意志と異なる引き金を引いてしまう事だ。

  それだけは、と思う。
  それだけは避けねばならない、と。

  あの少年の父親を撃ち殺した時のような事が、二度とあってはならない。それは、父親を殺して
 も尚自分を責めずに慕ってくれた少年への、唯一の贖罪だ。自分が、嘆きの火種となってはならな
 い。

  ゆっくりと手を握り締め、ふっと思う。
  元気だろうか、と。
  あれから長い月日がたった。彼も十分に大きくなっただろう。どんな青年に育ったのだろうか。
 彼の家系と父親に違わぬ紳士になっただろうか。いや、それ以前に、彼はあの箱の中から出る事が
 出来たのか。嘆きの家の白い光が差し込む小箱の中から、飛び立てたのか。

  そうであればいいと思う。
  サンダウンが歩く道は泥の川に等しいが、あの少年の行く末は光り輝いていればいい。あの優し
 い指先が、血に汚れる事がなければいい。

  覚えている、逢いに行く、と言った声は幼い。その記憶の中の声に、サンダウンは首を横に振る。
 逢いたくないわけではない。保安官になってからずっと無血でいられたのは、あの少年の前で血み
 どろの手を見せられないと思っていたからだ。

  けれど、今日、それは潰えた。ここから先の道のりは、きっと血の雨が降りしきるだろう。そん
 な孤独で血の色をした行程と少年の行く末が重なってはいけない。だから、あの約束の事は忘れて
 いればいい。覚えていても、叶わなければいい。


  数日後、サンダウンは自らの首に賞金を掛け、保安官の任を返上する。