閉鎖と別離







  サンダウンは少年に逢えずにいた。
  逢わねばならないとずっと思っていた。逢って、別れの言葉を口にしなくてはならなかった。
  南北戦争での功績が称えられ、銃の腕を買われ西部の保安官の任を拝命したのは、今から二週間
 ほど前の事だ。

  その任に就く事は前々から想定していたし、戦争の間もずっと上官達から言われ続けてきた事だ
 った。

  治安の悪い、しかし金と欲望に塗れた西部で、その銃の腕は何よりも強い力となる。

  それはサンダウンの望むところでもあったし、何よりもう北部の穏やかな生活は出来ないだろう
 という思いがあった。それ故、その任務を謹んで承ったのだ。
  だが、唯一の心残りは、サンダウンが思っていたよりも心に大きなしこりを残していた。

  小さな白い部屋に閉じ込められた細い身体。窓から差し込む掠れた光ばかりに照らされた彼を、
 そこに置き去りにして行かねばならない。

  覚悟はしていた。
  いつかは離れなくてはならない。
  だが、せめてもう少し、この町に燻る戦火の残滓が消えるまでは、そう思っていた。
  けれどそれは叶えられない。三日後、サンダウンはこの町を去らねばならない。なのに、サンダ
 ウンは未だに少年に別れの言葉さえ言えずにいるのだ。
  西部への引っ越しの忙しさを言い訳に、あの漆黒の眼の前に出ていって、別れを告げるその瞬間
 を先延ばしにしている。

  逢いたくないわけではない。
  しかし、萎れた花のような体躯を、白い光ばかりが支配する箱の中に置き去りにして立ち去る瞬
 間の、その痛みが恐ろしい。
  伸ばされる細い白百合のような指を切り離す瞬間の、声を上げて小さく震える卵のような喉を潰
 す瞬間のその痛みに怯えている。
  その今際の際で、彼が上げる声は、どんな色に満ちているだろうか。
  それは哀しみに近いだろうか。
  それとも憎しみに近いだろうか。
  だが、どんな痛みに貫かれたとしても、別れを告げねば、後悔する事は眼に見えている。彼を閉
 じ込めた箱の中に、何らかの言葉を残していかねば、きっとこの先、言い損ねたその言葉が永劫自
 分の胸を苛むだろう。

  片付き始めた部屋の中を見回し、サンダウンは溜め息を吐く。
  今日こそ、逢いに行かねば、と。そう思い、がらんどうの部屋の中に唯一残された椅子の上に、
 投げ被せてあったコートを手に取る。
  薄っぺらいその布が、まるで楔帷子のように重い。
  甲冑でも身に着けるように、のろのろとした動きでコートを羽織るサンダウンの耳に、不意に部
 屋の外から足音が飛び込んできた。紛う事なくこちらに向かってくる足音に、サンダウンは救われ
 たようにほっとして、羽織るつもりだったコートを脱ぐ。
  来客という事態によって、少しでも気が進まない彼との別れが先延ばしにされる事は、サンダウ
 ンにとっては願ってもない事だった。
  先延ばしにしたら、した分だけ、逢いに行く事が辛くなるのだとしても。

  だが、開いた扉の前には誰もいなかった。
  いや、違う。
  自分の目線を下げる必要のある相手を招き入れた事がないから、眼線の先にいない来客に気付か
 なかっただけだ。そして気付いた瞬間、サンダウンは棒でも呑み込んだように立ち竦んだ。
  誰もいない視界が広がる眼線を下げた瞬間、飛び込んできたのは鴉の濡羽という表現以上に黒い
 髪。その下では夜色の眼が瞬いている。

 「此処にいるって聞いたから。」

  少し大きめの上着を羽織った少年は、困ったような表情でそう告げた。
  思いも寄らぬ――いや、思いの大半を占めていた相手が突如として眼の前に現れ、呆然としてい
 たサンダウンだったが、確かに耳にした足音は大人のものにしては軽すぎるものだったと思い出す。
  けれども心中はまだ乱れたままだ。一人でこんな所まできたのかだとか、なんでそんな危険な事
 をするんだとか、色々な言葉が頭の中を横切るが、それらは先延ばしにしてきた別れの言葉と同様
 に声にはならない。
  うろたえたまま、とりあえず少年を何もない部屋に招き入れようとすると、彼は小さく頭を振っ
 た。
 「あんまり、時間がないんだ。」

  緩やかな声は、今更ながら気付いた事だが、とても流暢な音をしていた。所々に残る微かな訛り
 が、柔らかい。いつもサンダウンを快活に迎えてくれていたその声が、今日はその流暢さに気付く
 ほど、普段とは異なる響きを持っていた。
  その響きは、酷く、悪い予感を告げている。

 「もう、逢えないんだ。」

  口の端に薄い笑みを、眼の縁に諦観の念を湛えて、少年は言った。

 「親戚の家に行く事になったんだ。此処では暮らしていけないから。だから、今日から、逢えない。」

  見慣れぬ上着はその為か。どうやら立ち去る間際のその隙に、此処にやってきたらしく、よくよ
 く見れば小さい肩が喘いでいる。
  その様子に、サンダウンは己を心底から嗤った。
  この子供は、わざわざサンダウンに別れの言葉を言う為だけに、あの歪んだ母親の愛情の隙を突
 いて此処までやってきたのだ。それに比べて自分はどうだ。別れの痛みに怯えるばかりで、結局動
 こうとしなかった。別れの言葉さえ投げかけられなかった。
  黙り込んだサンダウンの手を、少年の握り締めただけで潰れそうな繊細な手が、そっと撫でた。
 とても、滑らかに。

 「今日で最後だから、逢いに来たんだ。」

  外に出られたら逢いに行くって言ってたから。
  他愛のない、けれども切実な約束を守る為だけに、この子は此処に来たのか。まだ危険の残る路
 地を潜り抜けて。

 「でも、ピアノを弾く時間はないみたい。」

  淡く困ったように微笑むと、彼はサンダウンを見上げた。そこにある黒い瞳は、いつか見た夜の
 ように、そこだけ夜露が堪ったように震えている。

  どうして、と。
  どうして父親を殺した自分に、そこまでの情を傾けてくれるのか。勘違いするほどに、信を寄せ
 てくれるのか。

  ずっと胸にあって、けれども結局声にはならない言葉は、今激しく喉の奥を行き来する。だが、
 やはり声にはならない。
  そんなサンダウンの前で、まだサンダウンの腰ほどしか背丈のない子供は、それでもその眼に鋭
 く決然とした、大人達でさえたじろいでしまうような光を浮かべる。それに伴い、サンダウンの手
 に触れていた指に力が灯る。

 「だから、また、逢いに行くよ。」

  必ず。

 「ちゃんと、見つけてみせるから。」

  だから待ってて。

  心どころか魂さえ込められているのではないかと思うくらい、真直ぐとした言葉に、サンダウン
 は思わずその身体に手を伸ばしかけた。同時に湧き上がるのは、どうしようもないくらい浅はかで
 愚かな、波のような自分の、欲望に近い願望だった。

  このまま、その身を攫っていく事が出来たなら。
  誰にも見つからないように閉じ込めて、白く霞んだ光しかない世界からその身体を攫って、青い
 空が広がる荒涼とした世界に連れていく事が出来たなら。
  今、その口を閉ざして眠らせて、小さな箱の中に閉じ込めて、そのまま連れ去ってしまえば、き
 っと何の追っ手も掛からない。その身体を自分だけの物に出来る。

  だが、サンダウンの爪が少年の肌に触れる直前、少年が手にしていた懐中時計を覗きこんだ。
  サンダウンの欲望を切り捨てるように、銀色の蓋が、持ち上がる。
  そこに刻まれた模様は、紛れもなく、自分が命を奪った少年の父親が身に着けていた懐中時計の
 もの。少年をサンダウンの牙から守る護符のように、それは煌めいた。
  痛みに貫かれたように硬直したサンダウンの前で、少年は時間を確かめ、首を振る。

 「もう、行かなきゃ。」

  翻る身体に、咄嗟に悴んだ指を伸ばすも、もう届かない。
  細い背が、扉の外の白々しい世界へと戻っていく。

 「さようなら。」

  ぱたりと乾いた音を立てて、扉が閉まった。