黄昏と夜





  少年は普段は常に屋敷の一室に閉じ込められている。彼を襲う男達を恐れて、彼の母親が閉じ込
 めているのだ。

  確かにこの南部には、未だに自分たちこそが勝者だと言い張り、敗者から搾取をしようとする勘
 違いがいる事は事実だ。それに少年は母親譲りの美しい体躯を持っている。まだ未熟でも眼鼻立ち
 は農村部の同世代の子供よりも遥かに整い、細い手足は硝子細工のような繊細さを浮かべている。
  しかし、屋敷から一歩も出さずに、明るい日差しだけが差し込む部屋に閉じ込めておくというの
 はどうなのか。それに少年の母親が、少年の世話をしているようにはとてもではないが見えなかっ
 た。
  彼らから父親というものを奪ったサンダウンが口を挟める権利はないことは分かっている。だが、
 それでもこの少年の境遇にはどうしても手出しをせざるを得なかった。
  それが、同情や憐みから来るものなのか、サンダウンにもいまいち理解できない。ただ、遺品で
 ある懐中時計を手に初めてこの屋敷を訪れた時、冷たい嘆きと拒絶の中にあって、唯一人間味のあ
 る表情を浮かべた少年を、放っておけなくなった。
  屋敷の外の事をしきりに知りたがる少年に、自分の知り得る限りの事を教え、その度に彼が微笑
 むのが、忘れられない。
  屋敷を頻繁に訪れるサンダウンは、おそらく線の細いあの未亡人目当てだと思われているだろう。
 だが、実際ほとんどは未亡人に良く似た、けれど全く異なる気配を持つ少年の為である。

  夕暮れが過ぎ去り、最後の太陽の光が残る道路をサンダウンは急ぐ。今日は逢う約束をしていた。
 母親が出かけて朝まで帰って来ないのだ、と少年は言っていた。そこには言外に、母親が男の所に
 出かけるという事が含まれていた。
  少年を閉じ込める母親の愛情は、しかし少年を屋敷に一人残す事に関しては酷く無頓着だ。
  しかしサンダウンはそれを憤るつもりはない。
  少年の母親がいない日。それは少年に逢える時間が最も長くなる日だ。
  自分の陰が闇に紛れるのを見つつ、まるで逢引きのようだと苦笑する。人目を避け、忍び逢うな
 ど、これまでどの女ともした事がない。だが今、一人の少年の為にそれを実行している。
  黒衣の未亡人はサンダウンが少年に近付く事を良しとしないだろう。自分の夫であり、少年の父
 親である男を殺したのだ。当然の話だ。けれども少年はその事について口にしない。

  母親から聞かされていないのだろうか。
  それとも、こうして通うサンダウンを憐れに思って口にしないだけか。

  どちらでも良い、と思う。あの少年が、サンダウンに調子を合わせているだけだというのなら、
 それでも良い。部屋から出る事の叶わない彼の暇つぶしの一端にでもなるというのなら。本当なら
 ば罵られ、泣き叫ばれても文句は言えないのだから。

  日の入り後の僅かな灯りは消えるのも早い。ようやく街灯が復旧し始めた街は、点々と黄色の灯
 りを落とし始めた。しかし、立ち並ぶ家の中は暗いものがほとんどだ。
  だが、家人がいるのかどうかは明りの有無だけでは分からない。貪欲な英雄達を恐れて明りを消
 している場合もあるからだ。
  その、闇に身を殺した家の一つの中に彼の屋敷もある。
  嘆きのピアノさえ聞こえない、死に絶えたような前庭を通り抜け、今日は普通に玄関へと足を向
 ける。ひっそりと静まり返り、墓石のように冷たい扉を叩いた。すると、恐る恐ると言ったふうに、
 硬く閉じていた扉に薄く隙間が出来る。そこから見える萎びた手と眼に、できるだけ優しい声で告
 げた。

 「………私だ。」

  一瞬大きく黄ばんだ眼が見開かれ、急いだように扉が開かれる。この屋敷に残る僅かな召使の内
 の一人である老婆は、サンダウンを招き入れると直ぐに扉に閂を掛けた。
  それを尻目に、サンダウンは少年が閉じ込められている部屋へと向かう。薄暗い中、一人息を殺
 しているであろう子供は、今どんな顔をしているのだろう。閂が掛かる音を背に、サンダウンは足
 早にエントランスを抜け、階段を上がる。灯りのない屋敷は広々とするだけで寒々しく、子供一人
 が背負うには酷く重苦しい。
  光のない廊下を駆け抜け、ようやく目的の部屋の前に辿りついた。
  厳重な扉は激しくサンダウンを拒んでいるが、中で身じろぎする気配の儚さがそれを打ち砕く。
  無意味に装飾されたドアノブを掴み、ゆっくりと引くと、床の上で僅かな光を受けて黒い髪が艶
 やかに光っているのが見えた。黒い瞳は、そこだけが夜露でも溜まっているかのように、その表面
 が震えている。夜の湿気た空気の中に投げ出された白く細い指の中で、滑らかな爪先がちかりと光
 った。

 「少し、遅れた………すまない。」

  床に伏した少年の前に跪き、闇の中でも仄かに白い顔を覗き込む。その中で大きな黒い眼が二、
 三回瞬き、ゆっくりと首が横に振られた。
  床に擦りつけられた白い頬を、サンダウンはそっと指でなぞると、腕に力を込めて細い身体を
 抱き上げた。

 「こんな所で寝るな、風邪を引く。」
 「うん………。」

  きゅっと白い指が肩にしがみ付き、黒い髪がことんと当たる。頼りない背中を軽く叩いてやると、
 安心したようにその身から力が抜けた。
  冷えた身体をベッドに降ろしてやると、少年はシーツに腰を沈め、闇の中でサンダウンを見上げ
 た。心なしか不安に満ちた表情をしている少年の頭を撫でてやりながら、食事は、と短く聞くと食
 べたという返事が返ってきた。細い身体に食べていないのではないかと思う時があるが、そうでは
 ないと知って安堵の息を吐く。
  シーツの上に落とされた母親譲りの細く長い指を包み込んでやりながら、サンダウンは静かに告
 げた。

 「今日は、前よりは長く居る事が出来そうだ。」
 「ん。」

  返答は短い。
  同年代の子供よりも敏い子だ。それでも母親がいない夜は流石に心細いのだろう。
  サンダウンは少年を再び抱え上げると自分の膝の上に乗せ、胸に凭せ掛けさせる。サンダウンの
 胸に顔を押し当てた少年は、小さく呟いた。

 「何か、話をして。」
 「…………ああ。」

  甘い黒髪を梳いてやりながら、少年が望むがままに取りとめのない事を話す。最近起きた事件や
 小さな噂話まで、事細かに。それを少年は何一つ聞き逃すまいと、じっと耳を傾けている。
  サンダウンに何もかもを委ねたその姿に、思わず母親から何も聞いていないのか、と問い質した
 くなる。例え過失であっても自分の父親を殺した男に、そんなに信頼を寄せていいのか、と。
  無防備に投げ出されている細い手足を潰す事など、サンダウンにとっては容易い。しかし少年の
 身体は、サンダウンがそんな事を決してしないと信じ切っているように、サンダウンの腕の中で大
 人しく閉じ込められている。

 「サンダウン?」

  不意に黙り込んでしまったサンダウンを不審に思ったのか、少年がそっと身じろぎした。

 「喋るのが、嫌になっちゃった?」
 「……いいや。」

  膝の上の身体を抱え直しながら、サンダウンは先程までの自分の考えを誤魔化すように少し苦笑  いを浮かべる。

 「いつも思うが、まるで逢引きのようだ、と思ってな。」
 「あいびきって何?」

  小首を傾げる可愛い仕草に、まだ言葉の意味を知るには早すぎた、と溜め息を吐いた。

 「そのうち、分かる。」
 「ん。」

 こくりと頷く小さい頭は、再びサンダウンの胸に凭れる。

 「………その時までには、外に出られるようになってると思う?」
 「………ああ。」

  少年が、最も望んでいる願い。
  それに対して無責任だと思いつつもサンダウンは首肯した。悪辣な意志がなくとも、ここで、分
 からない、無理だ、といった返事をする必要はないだろう。
  そしてその事に、少年も気付いているらしく、夜目に見えた笑みは微かで溶けてしまいそうな、
 とても曖昧なものだった。

「もしも外に出られたら、逢いにいくから。」

  小さく震える声で囁かれた言葉に、一瞬、返答に迷った。
  その時が果たしていつなのか分からない。そしてその時までサンダウンがこの街にいられるかも
 定かではない。何より、その他愛のない邂逅を、少年の母親が許してくれるかどうか。
  一度、たった一度、こうして二人で話をしているところを見つかって、恐ろしいほどの罵声を浴
 びた事がある。自分だけでなく、少年にまで自分を捨てるのかと泣き叫び、僅かに忠誠を誓って残
 る使用人達にまで当たり散らす様に、自分が彼女の人生を狂わせてしまった事を改めて感じさせら
 れた。

  それでも。

  サンダウンは腕の中の少年を見下ろす。見上げてくる瞳はこの夜と同じ色で、星と同じ光が瞬い
 ている。

 「その時には、ピアノを弾いてみせるよ。」
 「………ああ、楽しみにしている。」