北と南





  その年、ようやく、泥沼の様相を見せていた争いが終わった。
  後に、世界最大の内乱と言われるアメリカ南北戦争が、4年の歳月をかけてようやく終結したの
 である。一人の奴隷解放主義者の死刑が事の発端であったこの戦いは、当初は奴隷を多数従える裕
 福な貴族達が優勢に見られた。
  農村の出の兵士が多い北部軍に対し、日頃からキツネ狩りやフェンシングで身体を鍛えている南
 部の兵士が負けるはずがない。南部の貴族達は一堂にそう思い、事実確かに南部軍は優勢を誇って
 いたのだ。
  しかし、実際に最終的に勝利を勝ち得たのは北部軍だった。
  解放奴隷達を味方につけた北部軍は、南部の町や家々に火を放ち、鉄道を分断し、そして勝利へ
 と突き進んだのだった。

  だが、歴史に名高いリンカーン大統領がこの戦いに奴隷解放という大義名分を主張し、清廉潔白
 さを謳っても、戦争に略取と強奪は付きものである。

  戦火に焼かれた貴族の家々は、それでも十分に美しいものもまだ多数残っていた。
  兵士の中にはその中に埋もれている金目の物に手を出す者もいた。或いは、あわよくば、逃げ遅
 れた貴婦人を略奪しようという不届き者が。中には、女でなくても良いという趣向の者もいたよう
 で、瓦礫と化した町を歩けば少年少女の身体がぐったりと打ち捨てられている事もある。
  北部の農村の子供に比べれば遥かに麗しい容姿をしている彼らは、性欲を持て余した英雄達にと
 っては、極上の獲物に見えたに違いない。
  かつて地上最後の貴族の楽園と言われた南部のそんな様子に眉を顰めながら、サンダウンは銃弾
 の撃ち込まれた石畳を歩いていた。

  北部軍に従軍していたサンダウンは、戦争の勝敗を決した最後の戦いの時、その瞬間、正にその
 場所にいた。そしてその時に、殺すつもりのなかった一人の南部軍の紳士を、誤って撃ち殺してし
 まっている。

  これまで、銃の扱いを誤った事などなかった。
  従軍する前に北部の森で猟銃を扱っていた時も、従軍してから人を撃つようになってからも、サ
 ンダウンの銃の腕には常に賛美の声が送られていた。
  しかし、それが最後の最後で狂ってしまった。
  投降を促すはずだった手が、まるで別の生き物であるかのようにサンダウンの意志に反して引き
 金を引いた。遠くから聞こえた銃声が、実は自分が放ったものである事に気付いた時には、茶色の
 髪を振り乱してその紳士は倒れていた。

  銃弾が飛び交う戦の最中だ。
  誰も咎めはしない。
  けれど、サンダウンは殺すつもりも撃つつもりもなかった。
  そんなつもりはなかった。

  紳士が持っていた懐中時計を遺品として遺族に持ち帰った時、サンダウンはそれ以外の言葉をど
 うやって見つけて話そうかと考えていた。殺すつもりはなかったと言ったところで、実際自分は彼
 を殺してしまっている。
  しかし、言い訳にすらならないその言葉以外に出てくるものと言えば、ひたすらの謝罪しかなく。

    だが、言い訳も、謝罪も、彼女は受け取ってくれなかった。
  サンダウンが撃ち殺した紳士の妻だという女性は、少女のような指を硬く組んで、サンダウンを
 見ようともしなかった。
  黒い髪と黒い眼だけで己を飾り立て喪に服す未亡人は、音楽家の命でもある指を痛めつけるほど
 に、強く握<り締めて呟いただけだった。br>
    二度と来ないで、と。

 「貴方は私に憎まれる事でその罪を軽くしたかったのかもしれない。けれど私はこれ以上誰かを憎
  みたくはないの。もう十分に人を憎んできたわ。この家を焼いた兵士達。あっさりと逃げ出した
  使用人達。そして親切な顔をして近づいて、見返りに私の身体を求める男達。」

  白々とした光に照らされた部屋の中で、彼女は今にも震え出しそうな声で告げた。

  これ以上誰かを憎んで醜くなりたくないから、と。

 「二度と、来ないで。」

  サンダウンに一滴の謝罪の言葉も許さずに、細い背を向けた。

  しかしそれらはサンダウンには到底許容できるものではなかった。
  確かに、サンダウンの中には謝罪をし、憎まれる事で楽になりたい気持ちがあったのかもしれな
 い。罪というのは、罰を受けてしまえば楽になるものだ。
  だが、それ以上に、いまだ瓦礫の残骸と戦争の高揚が残るこの地に、何の庇護も持たない彼女を
 放置しておくわけにはいかなかった。
  ほとんどの貴族がそうであるように、彼女もまた、戦争により奴隷を失い、防護となる使用人の
 大半を失っていたのだ。今にも根元から折れてしまいそうな細い身体は、おそらく欲望の格好の的
 だろう。いや、彼女の口ぶりからすると、既にそうなってしまったのかもしれない。日々、生きて
 いく糧の代わりに、そうせざるを得なかったのかもしれない。
  その狂った状態が、己が通う事で止める事ができれば、と思う。未だに戦争の熱気醒めやらぬ兵
 士達の歯止めになれば、と。どれだけ冷たい眼差しと嘆きの声を聞かされても、それ以外に贖罪の
 術がない。

  それに、と通いつめて何処に何があるのか大体把握した屋敷の周囲を見回す。誰一人として見張
 る者のいない荒涼とした前庭を通り抜け、白い壁に黒煙で煤けた屋敷の裏手に回る。
  そこにあるのは、爆風に煽られながらも辛うじて立ち続けた背の高い樫の木だ。炎に巻かれても
 緑を絶やさなかった枝が枝垂れ掛かる窓に眼を向けて、サンダウンは眼を見開いた。二階の白い窓
 枠に伸びた細い枝。その先に、何かがぶら下がっている。もぞもぞと動くそれが何なのか瞬時に判
 断したサンダウンは、その場で卒倒しそうになった。

 「何をしている………!」

  思わず叫んだ声に、黒い頭が枝にぶら下がったままでこちらを向いた。
  その瞬間、振り返った幼い顔に、にぱあっと笑みが広がる。

 「あ、サンダウン。」

  片手を離して手でも振りそうなその様子に、サンダウンは兎に角身振り手振りでしっかり掴まっ
 ていろと命じる。いや、掴まっていても枝が折れて今にも落ちてきそうだ。
  だが、窓から木の枝に飛び移って地面に降りるつもりらしい子供は、当初の目的を粛々と遂行し
 始めた。はらはらするサンダウンを余所に、細い枝から太い枝へと移り、幹にしがみ付いてするす
 ると降りてくる。サンダウンの手が届く位置にまで降りてきた子供を見て、サンダウンはほっと胸
 を撫で下ろし、少年の細い腰に手を添えて抱き上げた。
  少年の夜空と同じ深い黒の眼に、自分の目線を合わせると、少年の形の良い唇が柔らかい弧を描
 いた。
 「いらっしゃい。」

  丸みを帯びた頬が更にふっくらと丸みを帯びて笑みを作り上げる。その笑みはこの嘆きの屋敷に
 あって、唯一穏やかであるもの。そしてサンダウンがどれほど邪険に扱われようとも、この屋敷を
 訪れる理由。
  黒い髪と黒い眼が、この少年を屋敷の奥で嘆き続ける女の子供である事を伝えるが、しかし少年
 の眼には彼女にはない強い光が灯っている。
  細く未熟な身体を抱きかかえながら、サンダウンは少年の笑みに頬が緩みそうになるのを耐え、
 できるだけ硬い口調で言った。

 「何をしているんだ。危ないだろう。」
 「ごめんなさい。」

  返ってきた謝罪の声には、しかし笑みが溢れていた。
  少年の細く長い指がサンダウンの肩に伸ばされる。

 「なかなか来てくれないから。逢いに行こうかって。」

  きゅっとしがみつく身体からは、子供特有の甘いお菓子のような匂いが香っている。その中に上
 品に入れた紅茶の匂いが混ざっているのは、やはり彼が北部の貧しい子供達とは違うからだろうか。
  けれどどれだけ洗練された匂いを醸し出していても、中身はまだ子供だ。現にあどけない口調で
 示される言葉は、子供ながらの浅はかさ。子供の脚でサンダウンに逢いにくる事など出来はしない
 というのに。

 「…………すまなかった。」

  細い身体を支えながらそう呟くと、ふるふると首が横に触れる。

 「仕方ないよ。忙しい事は、知ってるから。」

  幼くても今の世界の現状がどういうものなのか分かっているらしい。この荒廃した町を大人達が
 必死になって復興させようとしている事を、肌で感じているようだ。そしてサンダウンがその合間
 合間を縫って此処に来<ているという事実にも、気付いているのだろう。
  でも逢いたかったんだ、と呟く声に、抱き締める腕に力を込める。
  サンダウンとしても出来ればもっと逢いに来てやりたいが、残念ながら今日はそれほど長居は出
 来ないようだ。

  サンダウンは聳え立つ屋敷を見上げ、その奥から陰鬱なピアノの音が聞こえてくるのに耳を傾け
 る。その音が途絶えるまでが此処にいられる時間だ。
  この少年を、母親が見つけ出し、連れ去るまでの。