「……………。」

   数か月前に滅んだ国を一望できる丘に登り、青年はそこから何も見出せない事に少しだけ失望
  した。鬱蒼と生い茂る森や、岩肌覗かせる山は確かに旅人の行く手を阻むものだったが、しかし
  これといって特に珍しいものではない。
   一夜にして滅んだというから、何かとてつもない魔力なり呪いなりが働いたと思って、それを
  一目見ていこうと立ち寄ったのだが期待外れだった。
   青年は黒い髪が風に揺れるに任せていたが、ふっと思いついて木陰に一石を投じるように炎を
  投げ込んだ。途端に、ぶわり、と炎が広がって立ち木を燃やしたが、同時に人ならぬ声を吐き出
  す影も炎に呑まれて転げまわっている。
   なるほど、確かに、この土地はこうした異形が多い。彼は黒い眼でのたうつ異形を見やる。羽
  根の生えたそれはやがて動かなくなり、最後は白い牙だけを残して完全に灰になった。けれど、
  残る白い牙でさえ、残念な事に青年にこの国で起こった物事を教えるほどの記憶は持っていなか
  った。

  「仕方ねぇ、帰るか。」

   何もないのなら此処に居続けても仕方ない。新しい仕事を求めて、町に降りるか。
   そう思って足を踏み出した時、彼は眉を顰めた。足元に小さな痛みが走ったのだ。切られる痛
  みではない。締め上げる、何か。
    見下ろせば、長靴に絡みつくように、黒い影のようなものが巻き付いている。そこからは、腐
  臭のようなおぞましい気配が滲み出ている。悪鬼や死霊よりも尚醜いもの。この世の生きとし生
  ける物全ての負の感情を併せ持っている。
   尤も酷く小さく、弱っているようだったが。
   今少しでも青年が力を放てば完全に崩れ落ちそうなそれに、しかし彼は口角を持ち上げて問い
  掛けた。

  「なんだ、お前?俺についてくるのか?」

   ふるふると震えるそれに、彼は空き瓶を差し出す。差し出された硝子の入口周辺で、それは戸
  惑うように縮んだり伸びたりしている。それを引っ張って、青年は笑い含みの声で告げた。

  「ついてきたけりゃこの中に入れ。お前みたいなもんを素で持ち歩くわけにはいかねぇからな。」




   Flamberge






   てくてくと町から町を渡り歩く青年は、傭兵だった。何処の町にも属さない彼は、あちこちに
  顔見知りがいたが、けれどもその属性故に何処の町にも身を置く事はなかった。
   彼は魔術師だったのだ。
   教会が幅を利かせていたこの時代、魔術師は唾棄すべき存在として扱われていた。王侯貴族達
  の庇護があればともかく、普通の魔術師達は教会に睨まれればその場で処刑されてしまう。そん
  な時代だ。魔女狩りがまだ起こっていない事が、不幸中の幸いか。
   だが、いずれにせよ余所者の魔術師が長期間身を置ける場所などほとんどない。
   そんなわけで、青年は傭兵としてあちこちを渡り歩いていた。

  『御主人。』
  「んあ?」

   異形を小瓶に閉じ込めて、はや数週間。
   ふるふると震えるだけだった異形は、いつの間にやら言葉を発するようになり、しかも青年の
  事をそう呼ぶようになっていた。完全に使い魔の顔をしている異形に、教会関係者に見られたら
  即、処刑場贈りだな、と思いつつ、青年は返事をする。
   前の町を出て数日。街道沿いの森の中で野営の準備をしている最中に、邪魔をするように声を
  かけた使い魔もどきに、青年は少し身構える。
  この異形は決して知性が低いわけではなく、むしろ高い部類に属する。もしかしたらまだ戻っ
  ていないだけで魔力も青年を凌駕するほどなのかもしれない。そんな異形が彼の邪魔をするよう
  に声をかける時は、決まって何かが差し迫っている時だ。

  『何か、来る。』
「何かって、何だよ。」
  『人間だ。一人や二人じゃない。法力を持ってるから多分、教会関係者だ。誰かを追い掛けてる
   みたいだ。』
  「ちっ、冗談じゃねぇ。」

   魔術師で且つ傭兵など教会関係者は良い顔をしないだろう。しかも今は使い魔がいる。使い魔
  が入っている瓶の蓋をしっかりと締め、外から見えないように布で巻いて青年は立ち上がる。

  「巻き込まれねぇうちに、ずらかるぞ。」

   そう言い放って、さっき点けたばかりの炎を消した――と同時に、頭上から何か黒い影が落ち
  てくる。
   気配一つ寄こさずに現れた影に、青年は反応が一瞬遅れた。その隙に影は青年の背後に周り込
  み、背後から身体を押え込み首筋に剣を押し当てる。月明かりの乏しい森の中でも、その刀身は
  生々しいほどに煌めいた。
   それに意識を奪われている間に、ばらばらと何処からともなく湧いてくる無数の影。なるほど、
  使い魔の言った通り、法力を感じるところを見るに、教会関係者か。しかも――赤地に黒抜きの
  十字架のその服は、異端審問官。
   この世で一番厄介な相手を眼の前にして、青年は目眩がしそうになった。その気になれば魔法
  なりなんなりで逃げられなくもないが、首筋に刃を押し当てられている以上、声を発する事さえ
  憚られる。
   青年にまるで人質のように刃を突きつけている影――どう考えても男――は、散らばっている
  異端審問官と間合いを取りつつ、逃げ道を探っているようだった。その気配は酷く忙しい。
   無理もない。何せ相手は異端審問官だ。野宿をしている傭兵を人質とも思わないで、突っ込ん
  でくる可能性は多大にある。判断は、早ければ早いほうが良い。

  「………………なあ。」

   こんなところで死ぬつもりはない青年は、己の首に刀身を押し付けている男に、聞こえるか聞
  こえないか程度の声で囁いた。それだけで、刃が肌に食い込むけれど、それを気にしている場合
  ではない。

  「逃がしてやろうか………俺もこんなところで死にたかねぇし。」
  「……………。」
  「こう見えても魔術師なんでね。敵を撒く魔法の一つや二つ持ってるぜ?」

   視線だけを辛うじて動かして問うと、微かな逡巡が伝わってきた。が、それよりも早く異端審
  問官達が動く。

  「ちっ、さっさと決めろよ………!」

   舌打ちと同時に青年は押し当てられた刀身が肌を抉る事も厭わず、口の中で素早く幾つかの文
  言を作り上げると、手を閃かせた。そこにあるのは、本来ならば雲の中でとぐろを巻いているは
  ずの稲妻だ。
   一気に湧き起こった電撃の激しい光は、瞬く間に辺りを白く漂白した。地面を走る光に異端審
  問官が悲鳴を上げる。
   そしてそれが収まった時、そこには異端審問官以外の姿は何処にも残されていなかった。





   そこから少し離れた森の中。

  「アホ、てめぇの所為でいらねぇ怪我を作っちまっただろうが!」

   皮膚を抉った所為で滲み出る血を拭いながら、青年はフードを目深に被った男にそう怒鳴った。
  もしも男がもっと早く決断していればこんな些細な怪我を追う必要はなかったのに。いやいやそ
  れ以前にこの男がいなければ、異端審問官に稲妻を放り投げる事もなかったのだ。
   ふつふつと込み上げる怒りを止めもせずに、ぽんぽんと放り投げてくる青年に、男は少し躊躇
  った後、

  「すまなかった…………。」

   とだけ言った。
   あまりにも短い謝罪に、青年は更に癇癪を起こす。

  「てめぇ、それだけか!それだけしか言う事はねぇのか!人様をこんなわけのわからねぇ事に巻
   きこんでおいて、それだけか!」
  「本当にすまなかった。巻き込んだ事については言い訳のしようもない。だが、それで何を求め
   られても私にはどうする事も出来ない。」

   暗に、無一文ですと告げられて、青年はこの男を教会に突き出してやろうかと思った。そうす
  れば幾許かの謝礼が貰えるかもしれない。尤も異端審問官に稲妻をぶつけた事で、青年自身もの
  っぴきならない事になっているかもしれないが。
   諦めて、青年はフードを被ったままの男を睨みつける。

  「じゃ、何か。てめぇは命の恩人の前で顔も見せねぇってのか。」
  「………………。」

   男は、青年の言葉の意味が分からなかったのか、一瞬動きを止めた後、フードを取り払った。
  そこから零れ落ちたのは、鈍い色を放つブロンドと、青い瞳だった。
   それを見て、青年は、ふん、と鼻を鳴らす。

  「で、なんだって教会の騎士様が、異端審問官なんかに追われてるんだ?」
  「……………!」

   転瞬、男の纏う気配が変わる。今にも飛びかかる肉食獣のような様子に、青年は鼻先で笑う。

  「クルセイダーズ・ソードなんか持ってたら、自分で教会関係者ですって言ってるようなもんだ
   ろうが。そんな事もわからねぇのか。」
  「これは、一般市民が見る事が出来る剣ではない。教皇猊下がいる時の祭式で使う剣だからな…
   ……。それを見て、クルセイダーズ・ソードだと見抜いたお前こそ、何者だ?」
  「そんな大層な剣を持ってるあんたこそ、何者だよ。まさか盗めるようなもんでもねぇから、て
   めぇに下賜されたもんなんだろ?」

   互いに腹を探りあいながら見つめ合っていたが、やがて男が眼を逸らした。

  「悪いが、お前に付き合っている暇はない。」
  「待てよ。」

   背を向ける男に、青年は追い縋った。

  「あんた、これから何処に行くつもりだ?」
  「………何故お前に言わなくてはならない。」
  「あんたな、あんたの所為で俺は此処にいられなくなったんだぜ?だったら俺を安全な所まで運
   んで然るべきじゃねぇのか。」
  「…………………。」
  「どうせあんたも山を越えるんだろ?街道は異端審問官の連中がうろうろしてるだろうしな。だ
   ったら俺もそっちに行くしかねぇ。」

   そう告げて、青年はさくさくと歩き出す。それを男が呆気にとられて眺めていると、青年は振
  り返り、酷く不機嫌そうな顔をした。

  「何とろとろしてんだよ。さっさと行くぞ。あんたそんなに鈍かったら、また異端審問官に追い
   つかれるぞ。」

   早く来いと煩い青年に、男は溜め息を一つ吐いて、のろのろと歩き出した。