街は大きくなって、それらを繋ぐ道路が出来た。
  その道路は馬が走る為の物ではなくて、機械を詰め込んで煙を出す車の為の物だった。
  カウボーイ達はどんどん山へと押しやられ、正義だった強さはいつの間にやら形骸化して、男ら
 しさが善であるという、田舎娘が抱く男の理想論へと挿げ変わった。それらはコチコチに保守的で、
 それから弾かれた者は徹底的に弾圧しようという気風が湧き起こっていた。
  乾いた風はただの埃っぽい風となって、男達が振りかざす強さには誇りも優しさも感じられない。

  子供の成長期のように目まぐるしく変わる時代の流れを、マッドは夜の窓辺でぼんやりと感じて
 いた。




  Childhood's End






  東から西へと一気に人が足を踏み入れてフロンティアを食い潰した19世紀は、特に劇的な幕切れ
 を迎えたわけではなかった。激動の時代ではあったけれど、しかし節目だからと言ってそこで何か
 が途切れるわけでもなく、むしろ変化は弛まなく続く。
  だだっ広い荒野は相変わらず窓の外に広がっていたけれど、聞こえる風の音は明らかに変わって
 いた。何せ、以前は馬蹄の音が響くだけだった町中に、今では車のエンジン音が混ざっている。
  そういや、電飾のクリスマス・ツリーも見たっけ、とマッドは自分の顔が映る窓硝子を覗き込み
 ながら思った。
  窓硝子に映る自分の顔は、相変わらず西部の男にあるまじき白さを保っている。だが、何時の間
 にやら刻み込まれた皺と、白いものが混じり始めた髪が、月日を感じさせた。

  俺も、年取ったよなぁ……。

  西部一の賞金稼ぎとして名を馳せた時には、この髪は全てを呑みこんだかのように黒かったのに。
 そして今では賞金稼ぎとしての職業も、カウボーイ達と同様に隅へ隅へと追いやられている。いや、
 むしろ正規の職種でない分、カウボーイよりも環境は酷いのかもしれない。
  10年前までは法整備が不完全だった西部も、今では法が整えられ、保安官や街の有力者がならず
 者と癒着する事はなくなった。広かった西部も狭くなり、賞金稼ぎの力を借りずとも、保安官や州
 の警察隊達だけでならず者達を取り締まる事が出来る。そうなれば、必然的に賞金稼ぎは職を失い、
 徐々に西部から消えていくしかない。現に、二流、三流の賞金稼ぎ達は既に別の職を求めて、街を
 去っていった。
  幸いにしてマッドは銃の腕もあって、あちこちからまだお呼びが掛かるが。
  しかしマッドの表情は浮かない。
  何故ならば、今でこそまだ賞金稼ぎとしてならず者を追いかける仕事が舞い込んでくるが、しか
 しそれは、いつかただの殺し屋に成り下がる可能性を多分に孕んでいる。
  今や西部からはかつての乾いた風は失われつつあり、それにともなって、決闘による名誉も、背
 後から人を撃つ事の不名誉も、すべてが混在していつかは消え失せるだろう。それが分からぬほど、
 マッドは鈍くはない。
  徐々に形骸化しつつある西部の『強さこそ正義』の念。きっと、それは今に、一般市民さえそれ
 に乗りかかった弾圧と差別を産むだろう。それはマッドが望んだ自由の大地ではなく、そんな土地
 にマッドは住みたいとは思わなかった。
  未熟な上に保守的な世界にいるくらいならば、遠く離れた未開の土地を目指すほうが良い。
  マッドは、この土地での生活に区切りをつけ、別の地に行く算段をしていた。アメリカ東部か北
 部か。それとも国境を越えてメキシコかカナダか。いっそ、海を渡って欧州にでも行こうか。

  不幸中の幸いは、マッドには自分以外に守るべきものがいないという事だ。賞金稼ぎである以上、
 何処かで家庭を持つという一般的な生活は望めない。だから、女は一夜限りの存在で賄ってきた。
  だからマッドは、何が何でも生活を維持しなくてはならないという切迫した状態にはない。
  何処に行くにしても身一つで行けば良いので、気は楽だ。
  まあ、人生の終わりに女っ気がないというのは、些か寂しいような気もするのだが。

  だが、残念な事に。

  マッドは頭を抱えそうなモノが一人いる事を思い出し、溜め息を吐いた。そして頭痛のタネであ
 るそれは、窓辺にいるマッドに気付くと、のそのそと近付いてきた。

 「…………どうした?」

  失われつつある乾いた風を孕む気配と低い声。それがマッドを背後から包み込む。マッドの腹の
 あたりでかさついた手が組まれ、マッドの肩に砂色の髭と髪が掛かる。その色にも白いものが混じ
 ったのを見て、この男も老いたな、とマッドは思う。
  自分よりも一回り年上なのだから、自分よりも老いるのが早いのは当然だ。しかしそれでもこう
 してマッドをがっちりとホールド出来るのは、西部一の賞金首の名は伊達ではないという事か。そ
 の賞金首も、今では無効になっているのかもしれないが。
 
  にしても、何故に自分は、今もこうしてこの男と一緒にいるのか。女ではなく、えらく背の高い、
 のっそりしたおっさんと。そういえば、先だって述べた電飾のクリスマス・ツリーを見た時も、隣
 にいたのはこの男だった。
  どう考えても自分の人生の半分はこの男で占められている事に、マッドは今更ながらに愕然とす
 る。
  出会ったのは19世紀後半だった。そして今は20世紀初頭だ。
  何故、世紀を跨いでこの男との関係が続いているのか――というか、世紀を跨いだその瞬間も、
 この男と一緒にいたな、そういえば。

  自分の人生を振り返って頭を抱えたマッドに、男は怪訝な顔をする。

 「マッド?」

  老いてはいるが、しかし結局一度としてマッドが敵わなかった男は、今でも十分に筋肉のついた
 腕でマッドを抱き竦める。その腕を見下ろして、物好きな、と思う。若い頃ならまだしも、マッド
 はかつて出会った頃の男の年齢に近付いている。別に弛んでいるわけではないけれど、それでも抱
 きたいと思う身体ではなくなっているだろう。
  思って、マッドは、きっとこの男は付いてこないだろうと確信した。
  マッドがこの地を離れても、この男は荒野を離れようとしないだろう。荒野の化身のような男だ。
 別の地には行く事など考えてもないだろうし、それにその思いを打ち砕けるほどの力が自分の中に
 あるとはマッドには思えなかった。
  だから、きっとこれが最後の夜になる。

 「なあ、キッド。」

  窓の外を見ながら、マッドは特に声音を変えずに背後から自分を抱き竦める男の名を呼んだ。す
 ると、男はマッドの声を聞き逃すまいとするかのように、マッドの頬に耳を寄せる。

 「俺は、そろそろ別の場所に行こうかと思ってんだけど。」
 「…………いつ?」
 「だらだらすんのも性じゃねぇし、明日には出ていくぜ。」
 「…………そうか。」

  低い声は、それっきり黙り込んだ。腰に回された腕も、特に強まる気配も弱まる気配も見せない。
 何の反応もない男に、マッドは耐え切れずに問うた。

 「あんたは、どうする?」

  きっと、来ない。マッドは変わらぬ男の気配から、それを確信している。そして、果たして男の
 答えは、

 「私は、此処に、残る。」

  だろうな………。
  マッドは男の言葉に、喉の奥で頷く。いくらこの男でも、老いてから新しい土地に行くのは嫌だ
 ろう。むろん、それが情婦の頼みならば頷くかもしれないが、同じく老いの影が浮かび始めた男の
 誘いでは、魅力は何処にもない。
  喉の奥で思わず吐き零しそうだった溜め息を押し殺し、マッドは腰に回されていた手を軽く叩い
 て、放すように促す。すると、それはあっさりと外れた。

 「じゃあ、俺はもう寝るぜ。明日は朝一で出ていくから。」
 「ああ。」

  引き止める言葉すら吐かない男に背を向け、マッドは別室にあるベッドへと身を投げ込む。男が
 ついて来ないのは仕方ない。男がこれから、マッドがいなくなってから、どうやって生きていくの
 か気にならないわけではないが、しかしそれ以上にこれからマッド自身がどうやって生きていくの
 かのほうが問題だ。
  これまでずっとあの男だけを追いかけて生きてきたのに、それがふっつりと途絶えた、この後は。
  ちゃんと生きていけるだろうか。
  あの男が急に恋しくなったりしないだろうか。
  この先、この土地で生きていくのは難しい。けれど、もしかしたらあの男なしで生きる事のほう
 が難しいんじゃないだろうか。
  二人で電飾クリスマス・ツリーを見た。ワシントン記念塔も自由の女神像も見た。新しい物好き
 の自分に付き合って、コーラを買った事もある。寒波の酷い年は、夜になればずっと抱き合ってい
 た。世紀を越える瞬間も、そうしていた。
  それらが、今後全部なくなるのだ。
  多分、新しい土地で新しい仲間を見つけるのは難しくないだろう。けれど、それらは、いなくな
 る腕の代わりをちゃんと果たすだろうか。

  ベッドの上で丸くなって、マッドは何か途方もない黒い液体を飲まされたような気分になった。
 何があっても何とかやっていける自信はある。死を恐れるなど今更で、何処ででも生きていけるよ
 うに、この荒野で生きる術は学んできた。
  けれど、胃の中で詰まっているかのような、この、しこりは。
  それの名前を見つけそうになって、マッドはぎゅっと眼を閉じる。これ以上は考えてはいけない。
 さっさと忘れてしまうに限る。見つけてはならない思いというのは、確かにこの世に存在するのだ。
 だからこれは、気付いてはいけない。
  マッドは毛布を被って、身を小さくしようと丸くする。
  すると、急にドアが開いて、乾いた風が吹き込んできた。のそのそと近付いてくる男の気配。

 「マッド。」

  囁かれた声には、焦がれが混ざっていた。マッドがはっとして毛布から顔を出すと、そこには黒
 々とした背の高い影が立ち昇っている。そしてその中で、青い眼がゆっくりと瞬いた。
  男の声に含まれている焦がれの意味が分からず、マッドは男の名を呼んだ。

 「キッド………?」
 「……すまない。」

  返答は謝罪だった。
  だが、それについて問い掛ける前に、男が圧し掛かってきてマッドを包む毛布を剥ぎ取り、マッ
 ドの着衣を乱し始める。

 「キッド……?!ぅあっ……!」

  硬い親指の腹が胸の尖りを押しつぶし、唇を塞がれた。その間も、男の手は着実にマッドから服
 を奪っていく。

 「あ、あ、あ、……っ!」
 「すまない、マッド………。」

  慣れた手つきでマッドを高める男は、再度、謝罪を口にした。その意味が、マッドには分からな
 い。最後の夜に、こうして触れてくる男の意図が分からない。それは、男のほうでも少なくともマ
 ッドと離れがたく思っているからなのか、それとも腐れ縁として最後の情を傾けるつもりなのか。
  だが、マッドがその考えをまとめ切る前に、マッドは快感のうねりの中に引きずり込まれていっ
 た。
 
 
 
 
  眼を覚ますとまだ辺りは暗かった。それでも身を起こそうとすると、かさついた手がそれを押し
 留め、耳朶を唇で噛まれる。

 「何すんだ、てめぇは。」

  何を考えているのか分からない男が、突然行動するのは今に始まった事ではないが、よりにもよ
 って最後の夜に何の脈絡もなく襲いかかってきたのはどういうわけか。

 「すまない。」

  詰ると、返ってきたのは情事の最中に延々と繰り返されてきた謝罪だった。
  一体何を謝るのか。マッドと一緒に行かない事だろうか。別に良いのに。むしろ謝られたら、余
 計に惨めになるだけなのに。
  惨め。マッドは思い浮かんだ言葉に、息が詰まりそうになった。そうだ、今の自分はどうしよう
 もなく惨めだ。長く住んだ土地を離れて、けれども新しい土地で、まして、若くもない自分が本当
 にちゃんとやっていけるかも分からず、しかも頼るべき存在は何処にもない。
  何とかなるだろうと思っていても、それでも不安は腹の底に広がっている。それを乗り切るだけ
 の力は、まだこの身体に残っているだろうか。
  そうだ、自分は不安だったのだ。
  ぎゅっとシーツを掴んでいると、その手に背後からかさついた手が重ねられる。

 「………すまない。」

  そして、繰り返される謝罪。
  それは、マッドを、一人遠い地に追いやる事への。

 「………どうしても、お前を、失いたくない。」
 「は?」

  別れの際の謝罪に続くには、明らかに不相応な言葉が飛び込んできた。
  いや、失いたくないって、一緒に行かないとか言ったのはあんたなんですけど。  

 「………私が一緒にいけば、足手まといになるだけだ。」
 「いや、そんな、今更、銃を撃ち合うような前人未到の地に行くわけじゃねぇから。ってかあんた
  の方が強いし。」
 「………お前は若いから、まだ、新しい相手を見つける事が出来る。」
 「俺も大概年取ったんですけど。」
 「………この前、酒場で女達に迫られていただろう。」

  ぶつぶつと、背後で、いじけたように呟くおっさん。

 「だから、お前が新しい土地で新しい生活をしたいというのなら、私はいないほうが良いと思った
  んだが………。」

  どうやら、無理のようだ。
  男は、マッドの身体を撫で回しながら囁く。

 「………お前が、他の誰かと一緒にいるのは、想像するだけでも、耐えられない。」

  だから、私も、連れていけ。
  むっつりとした声が、耳朶を打つ。

 「っ………なんで、最初にそう言わねぇんだ、てめぇは!」
 「言っただろう、私がいたら足手まといになると思ったからだ、と。」
 「じゃあ、せめて朝になるまでその思いを貫けよ!てめぇ、30分も経たねぇうちに、その発言を
  翻したぞ!」

  マッドが『此処に残る』と男から聞いて、それからベッドに横になって、30分以内に男は圧し掛
 かってきた。その直前の、マッドの荒野での生活の回想、及び、年を取った自分への嘆きは一体何
 だったのか。

 「俺の不安を返せ!」
 「………不安だったのか?」

  思わず怒鳴った台詞に、男が喜色を湛えた声を吐いた。そして、ぎゅうっと抱きついてくる。

 「安心しろ………死ぬまで傍にいてやる。」
 「年齢的に、あんたのほうがどう考えても先に死ぬだろうが!」
 「すぐに迎えにいく。」
 「恐ろしい事をさらりと言ってんじゃねぇ!」

  そうして、ひとしきり騒いだ後。
  ベッドの中で抱き合いながら、マッドは呟く。

 「………言っとくけど、生活の保障はねぇぞ。」
 「………今更だ。」
 「職もねぇかもな。」
 「………なんとでもなるだろう。」
 「馬に乗って、走り回るなんて事はできねぇ場所かもしれねぇぞ。」
 「もう私も年だからな。馬に乗らなくても良いのなら、それはそれで良い。」
 「大草原も、乾いた砂も、ないかもしれねぇ。」
 「………そんなものよりも、お前が欲しい。」
 「あんた、人たらしって言われた事ねぇか?」
 「お前こそ天然の人たらしだ。」

  今でも男も女も寄せ付ける癖に。
  そう言って、男が頬に口付ける。それに口付けを返しながら、マッドは毛布を被ると眠そうな声
 で明日の予定を並べる。

 「とにかく、明日、港に行くぞ。それで、適当な船に乗る。」
 「分かった。」

  予定とも言えない予定だが、それに、男は特に文句も言わずに頷いた。
  結局、何処に向かったとしても、問題は一緒でそれならば考えたところで仕方がない。それより
 も、『欠けたものを埋める』という一番困難な問題が解消された時点で、大概の問題は解決された
 ようなものだ。

 「………二人で、花でも売って暮らすか?」
 「………似あわねぇから止めろ。」

  サンダウンが零したプランを一語で否定し、マッドは荒野で見る最後の夢を思い描いた。