「お?」

 サンダウンを欺き、数匹のトカゲ達と一緒に森を行くマッドは、ふと足を止めた。事前に切り株の
中に用意していたランタンで前を照らしていると、鬱蒼とした森の中、何者かが歩いた跡があるのだ。
獣道というには随分と幅の広い、明らかに『誰か』が繰り返し通った跡のようだ。
 しかし、マッドはこんな道がある事を知らない。マッドは魔の者達が使う道を大体は把握している。
マッドが知らなければ、トカゲが知っているだろう。
 だが、忽然と現れた道はマッドもトカゲも知らない道であった。というか、こんな道あっただろう
か。
 そうなると考えられるのは、人間の仕業、という奴である。人間ならば、ある日突然やってきて、
道を作ってもおかしくはない。
 マッドはそう検討をつけて、見知らぬ道に足を踏み入れたのだ。
 両側を高く伸びた草に囲まれた道を、ランタンで照らしながら歩く。さわささと風の音だけが聞こ
え、それ以外の生き物の気配がない事に、マッドは不審に思うべきだったのかもしれないが、所詮マ
ッドは子犬である。そこまでの考えには至らない。とにかく、マッドは、サンダウンがいたならば、
速攻で引き返したであろう道を、トカゲと一緒に突き進んでいったのだ。
 とはいえ、マッドがまるで警戒していなかったのかといえば、そうではない。マッドはしきりに耳
をぱたぱたと動かし、周囲の気配には、文字通り気を配っていたのだ。ただ、その耳に聞こえるのは
風ばかりの音で、そして道がとうとう終着を迎える時になって、ようやく微かな水音がやってきたの
だ。
 そこは、森の中にぽっかりと広がる池だった。
 湖、というには少しばかり小さい。道は池をぐるりと取り囲むように続いている。そして、マッド
がいる場所に対して、池の反対側に、ぽつりと屋敷が建っていた。
 二階建ての、横に広い屋敷である。獣人の村では、そんな広い家は見たことがなかった。そして、
こちら側を向いている部屋すべてに明かりが灯っている。
 人間の家だろうか。
 だとしたら、あそこを探せば、卵も牛乳もあるかもしれない。
 しかし。
 マッドは不愉快そうに眉を顰めた。

「こんなばしょ、おれは、しらねぇぞ。」

 森の中を人里目指して歩いて、それほど時間は経っていない。しかし、先程の畦道はまだなんとで
もできるとして、これだけの建物と池が、唐突にぽんと現れるだろうか。百歩譲って家は突貫で造っ
たとしても、池は無理だ。溜池であったとしても、水を溜めるまでに時間がかかる。
 それを、マッドが知っていなくても、それ以外の大人の獣人達も知らない、話題にしない、という
事は有り得ない。

「ようするに、おかしいぜ。」

 煌々と明かりを灯す屋敷は、周囲に流れるのが風と水の音しかないのに、そこだけがさも彩に満ち
ていますと言わんばかりだ。誘蛾灯のようなそれは、誰かが来るのを今か今かと待ち構えているよう
にしか見えない。
 もしもマッドが道に迷い疲れ果てた人間ならば、天の助けとばかりに屋敷を目指しただろうが、あ
いにくとマッドは道に迷ったわけでもないし、疲れ果ててもいなかった。なので、くるりと回れ右を
して、その場から立ち去ろうとした。
 が、獲物を逃がすまいとしたのは、屋敷の意志か、それともそれ以外の何者かの意志か。とにもか
くにも、誰かの意志が働いたのだろう。踵を返したマッドの前に、草むらの中からどばりと音を立て
て転がり出たものがあった。
 べっちゃりと水溜りのように広がったそれは、ランタンに照らされても反射する一点もないほどに
黒かった。そしてマッドが見ている前で、ぬるりと立ち上がった。溶けかけた人間というのが、それ
を表現するのに一番近いだろうか。ただし、だらりと垂れた腕は地面につくほど長く、体全体は人間
の倍近くの大きさはある。
 溶けた人間の身体はマッドが踏み出そうとしていた道を完全に塞ぎ、そして長い腕は素早くマッド
目がけて伸びてきた。

「きゅっきゅっきゅー!」

 溶解人間の手がマッドを掴む寸前、トカゲがマッドに体当たりをした。地面に転がったマッドの鼻
先を、だらりと今にも垂れてきそうな手が通り過ぎて行く。
 瞬間、マッドは身を反転させてうつ伏せになり、そこから立ち上がって溶解人間に背を向けるや、
脱兎のごとく駆け出した。犬だが兎のように逃げ出したのである。その際に、トカゲ数匹が草むらの
中に飛び込んで、溶解人間の気を一瞬逸らしたことも幸いした。
 眼が逸れている間にマッドは池を囲む道を走り出す。マッドが道を疾走するその背後では、草むら
から何やらが溢れ出し、どろりどろりと道を覆い隠しながらマッドの背を追いかける。
 そしてマッドが、とうとう屋敷の前に辿り着いてしまった時、前からもどろどろと流れ込む物体が
押し寄せてきていた。
 もはや、屋敷の中に逃げるしかないだろう、と言わんばかりに。
 もしもマッドが大人であったなら、そのような意図は鼻先で笑い飛ばし、颯爽と屋敷の屋根にでも
駆け上がっただろうが、子犬にはそれは不可能である。従って、マッドは全く以て意に添わぬ形で、
屋敷の中に入ることになってしまった。





 屋敷の中に駆け込んで、少しだけ息を整えて、状況を確認する。自分の周りにいるトカゲは、化け
物の気を逸らすために次々と草むらの中に飛び込んで、今マッドの傍にいるのは白トカゲと苦み好き
のトカゲの二匹だけである。
 白トカゲは不安そうに、苦み好きトカゲは少し緊張したような表情でマッドを見上げている。
 離脱したトカゲ達は、まあ大丈夫だろう。逃げ足は恐ろしく速いから。
 トカゲの状況を確認して、マッドはランタンの火を消す。屋敷の中は外から見た通り、明かりが灯
っていた。今、マッドがいる玄関にも、頭上高くにシャンデリアがぶら下がっており、そこから痛い
くらいの光が零れ落ちている。

「ようこそいらっしゃいました。」

 マッドがシャンデリアから目を話した瞬間、いつの間にそこにいたのか――或いは文字通り沸いて
出てきたのか――みっちりと礼装した男が、屋敷の奥へと続く扉の前に、恭しい物言いで立っていた。

「このような晩にいらっしゃったお客様は、然るべきおもてなしをしなくてはならないと主人より仰
せつかっております。どうぞ、奥へとお入りになってください。」
「おれは、いらっしゃいたくなんかないんだぜ。」

 マッドは男の蒼褪めた顔を見上げて、ふてくされたように言った。当然、男に歩み寄るつもりはな
い。

「おもてなしもされたくねぇ。そんなにおれをもてなしたいってんなら、そのくさいのをなんとかし
ろよ。」

 あんたも、あんたのむこうにあるとびらも、くさいんだぜ。
 肉の腐ったような臭いを、誤魔化せるとでも思っているのか。マッドは視界の隅で、男が立ち塞が
る扉とは別の扉を見つける。
 そちらのほうに、じり、と足を近づけながらも、マッドは男から目を逸らさない。

「主人から、おもてなすように仰せつかっております……。」

 男の紫色の唇から、同じ言葉が繰り返された。よくよく見れば、男の吐息は白味を帯びている。主
人の命令を繰り返す男の声の裏側で、ぶつぶつと音にならない声が白い呼気と一緒にあたりに散らば
っている。
 寒い、寒い、と。
 一気にあたりに寒気が流れ込み、男が一歩前に踏み出すと同時にその場に霜が張った。
 と、同時にマッドは視界の隅に映っていた扉――マッドから見て左手の扉に飛びつき、その中に駆
け込む。そちらの扉にも誰かがいる可能性を考えなかったわけではないが、少なくとも物音はしなか
ったし、あの男に触れられて氷漬けになるよりは、まだ逃げ道の余地が残っていた。
 結果、マッドは扉に鍵をかけ、扉の隙間から白い冷気がこぼれるのを見ながら、小さく息を吐いた。

「とにかく、なんとかしなけりゃならねぇぞ。」

 扉を押し破ってまでして、男はこちらにやってこないらしい。だが、こちら側にも何処に何が潜ん
でいるか分からない。

「かくれながら、どうにかしてとっぱするぞ。あさまでにげきれば、たぶんなんとかなるし、そのと
きにはあのヒゲもきづくだろ。」

 きゅい、とトカゲが返事するのを見て、マッドは玄関よりも随分と薄暗い廊下を、てくてくと歩き
始めた。そして、人の顔のついた芋虫に襲われたのである。