「よし、だれもいねぇぞ。」

 マッドは柱の陰から周囲を伺い、足元にいる二匹のトカゲに向けて呟いた。マッドと同じく息を殺
している、白と茶色のトカゲは、神妙な顔をして頷く。
 トカゲが頷いたのを確認して、マッドは黒い三角の耳をぱたぱたと忙しなく動かしながら、見た目
だけは誰一人としていないように見える――しかし誰が、何が何処に潜んでいるか分からない、薄汚
れた廊下を歩き出した。
 だが、廊下を半分も渡らぬうちに、マッドの両側を歩いていたトカゲ達が、ぴたりと足を止めた。
それに従ってマッドも足を止める。白トカゲが不安そうにマッドの足元にすり寄る間、マッドの耳は
ますます忙しなく動いている。 
 人間の耳ならば到底聞き取れなかっただろう。だが、マッドの犬耳は確かに、廊下の奥から這いず
る音を捉えていた。
 ずるりずるりと、あえかな音を立てるそれは、しかしそのささやかな音とは真逆の速度で、マッド
がたった今まで踏み出そうとしていた床の上に這い出てきた。
 ほとんど無音で、しかしおそろしい勢いで現れたそれは、全体がどろどろと溶けたこげ茶の芋虫の
ような風体で、ただその先端にぽつりと人の顔のようなものが付いており、口がパクパクと開閉して
マッドのほうを向いていた。
 その口の中に、小さな無数の白い牙があるのを見るや否や、マッドは背を向けて廊下を今来たほう
へと走り出す。その後を二匹のトカゲ達が続く。
 ぱたぱたというマッドとトカゲの軽い足音の背後を、小さな音だけで、しかし芋虫のような風体か
らは到底想像もつかないような勢いで、その化け物は突き進んでいく。
 おそらく、純粋な速さだけならば、化け物のほうが速い。
 だが、化け物はマッドよりも何倍も膨れ上がった図体を持っていたため、マッドがするすると机や
椅子の下を通って逃げるたびに、その巨体で何もかもを弾き飛ばしており、その際に少しばかり速度
を落としていた。
 だから、マッドは最終的に、一つの大きな部屋を本棚や物入れで二つに仕切っている部屋の、棚と
棚の小さな隙間を通り抜け、化け物の手から逃れる事が出来たのである。その時は。




 Grand Guignol





 事の起こりは、すべてがヒゲもじゃのカボチャの所為である、とマッドは語る。
 マッドが着替え用のカボチャを収穫し、そのカボチャの中身を刳り貫いた後、外身はヒゲの着替え
にするとして、中身は何にしようかと考えるのは、この時期恒例の事であった。
 マッドが毎度頭を悩ませている物事について、その問題に一役買っているヒゲカボチャ――もとい
中身は人魂であるサンダウン・キッドは、自分が問題であるにもかかわらず一言たりとも問題解決の
提案をしないのである。
 まあ、それはいつものことなので良い。ヒゲにカボチャの中身について論じても、意味がない事は
マッドは重々承知している。所詮はヒゲである。なので、マッドは今年も自分一人でカボチャの中身
をどのように処理すべきかを考えていた。

「プリンだぜ。」

 マッドは思いついて、トカゲとヒゲの前で、そう宣言した。
 もふもふのトカゲ達はつぶらな瞳でマッドを見つめ、サンダウンは無言でマッドを見下ろしている。
そんなトカゲとカボチャに、マッドはもう一度、

「プリンだぜ。」

 と言った。

「ことしはカボチャプリンをつくるぜ。クッキーだけじゃ、しょうじきカボチャをしょうひしきれねぇ。
だから、カボチャをたいりょうにつかうひつようのある、プリンもつくるぜ。」

 その宣言に、トカゲはきゅいきゅいと鳴き、サンダウンはやはり無言であった。

「そんなわけで、プリンをつくるために、たまごとぎゅうにゅうがいるぜ。とりにいくひつようがある
ぜ。」

 プリンの為にはその二つが必要不可欠だ。ただし、カボチャを全部消費しようとなると、そのいず
れもが大量に必要になってくる。
 村には、鶏も牛もいるし、多少ならば用立てる事は出来るだろうが、大量にとなると難しいだろう。
この世には、マッド以外にも卵と牛乳を使う者は大勢いるのだ。
 では、どうすれば良いのか。

「にんげんのもっているやつを、ちょろまかしてこようぜ。」

 平然と盗んでくると言い放つ子犬に、

「駄目だ。」

 ここにきて、今まで無言であったカボチャが漸くにして口を開いた。このままだと、カボチャの置
物となんら変わりなくなってしまうところであったサンダウンは、しかしマッドを止めたのは盗みが
悪いとかそういう意味合いではなく、

「人間のところに行くのは危険だ。捕まったら売り払われてしまうぞ。」
「つかまったりしねぇよ。」

 マッドは、物言わぬ置物であったサンダウンに反論する。ただし、根拠の薄い反論であったが。な
ので、サンダウンもカボチャ頭をゆっくりと横に振る。

「だったらなにか?おまえがたまごとぎゅうにゅうをかくほできるっていうのか?できねぇだろ?そ
んなかいしょう、もってねぇだろ。」

 きゃんきゃんと吠えるマッドに、サンダウンはもう一度首を横に振る。

「駄目だ。」

 人里は恐ろしいところだ。全ての人間が、サンダウンが言ったように子犬を売り払ってしまうわけ
ではないだろうが、しかし悪意とは何処に潜んでいるか分からない。それに人間に見つからなくとも、
人間の飼っている猟犬がマッドに噛みつくかもしれないのだ。マッドはまだ子犬だ。猟犬に噛まれた
ら、ひとたまりもないだろう。

「とにかく、人里には行ってはいけない。プリンは村で手に入るものだけで作ると良いだろう。余っ
たカボチャはいつものようにペーストにして瓶に詰めておけ。」

 カボチャの処遇について、結局解決策を口にしなかったお化けカボチャはそれだけを言いおいて、
それっきりマッドを黙らせてしまった。
 だが、サンダウンもそこは知っていた。マッドがそんな容易く諦める性質ではないことを。ただし、
一方で、マッドの悪知恵を甘くも見ていた。
 だから、マッド失踪が発覚するのが遅れたのである。




 善は急げ、という言葉が、マッドやサンダウンのような魔の者にも存在するかは不明である。だが、
マッドはそれに似た考えのもと、すぐさま動いた。
 むろん、機は熟すという言葉もあるため、動きやすい時間を狙って、である。
 つまり、真夜中にこっそりと塒を抜け出したのである。
 ただ単に抜け出しただけならば、サンダウンにすぐに見つかっただろう。だが、そこは子供の悪知
恵である。マッドは寝ぼけて夜中トイレに向かったトカゲの集団に紛れて抜け出したのである。
 もふもふと群れて蠢くトカゲの群れにサンダウンが注視したのかどうかは分からない。或いは、ト
カゲの群れが出て行ったあと、マッドの寝床を見に行くくらいはしたのかもしれない。だが、その時
きちんと毛布を剥いで中身を確認しなければ、マッドがいなくなった事には気づかなかっただろう。
なぜならば、マッドの寝床にはマッドの代わりに犬耳をつけられたトカゲが放り込まれていたからだ。
 だから、結果だけを見れば、サンダウンはその瞬間にマッドが抜け出した事には気が付かなかった。
トカゲ達がトイレから戻ってきた時に、トカゲの数が少なくなっていた事に気づいていれば発覚は早
まったのだろうが、それもなかった。
 サンダウンがマッドがいなくなった事に気が付いたのは、トイレの一団からマッドと一緒に抜け、
人里へと向かったトカゲ達が、きゅいきゅいと血相を変えて戻ってきた時であった。
 そしてその時には、マッドは人里とも森の中ともつかぬ場所に生えていた屋敷の中に閉じ込められ、
得体のしれない化け物と追いかけっこをする羽目になっていたのである。