秋も深まり、森の木々が色づく頃。夏の鮮やかな熱が地表から失われ、次第に深い眠りを示す冬へ
と大地が変貌する、生から死へと季節が移り変わるこの時期は、物事の境界があやふやになる時期で
もある。
 赤や黄に染め抜かれた木々は艶やかであったが、しかしそれは死化粧にも通ずるように。熱と凍え
が激しく振れて炎が震えるように。
 対立する二つの間というのは、必ずや何処かで亀裂を生じる。
 それは何かを打ち破る力であったり、或いは堰き止めていた何かが雪崩落ちる力であったり。
 とにかく物事の輪を突き破る力というのは、今までそこにはなかったものを、表に露見させる力を
持っているのだ。
 眠る直前の木々の燃え盛るような色合いの只中に、生と死と、聖と魔の狭間が浮き上がってもなん
らおかしくはない。
 それはただ単純に、人々の眼にはこれまで見えなかっただけで、実はそこにあったものが顕在化し
ただけのことだ。
 夏の間は深く生い茂って何物も寄せ付けなかった木々が、今わの際に美しく着飾ったことで、少し
ばかりその奥深くを見渡せるようにしただけのこと。実際に、その深みは何一つ変わっておらず、見
る側が浅くなったと思い込んだだけ。
 だが、深みを浅瀬であると勘違いしただけのことであっても、見えるものは見えるのだ。夏場は藻
で淀んでいた湖底が、すっきりと見渡せることに、深みも浅瀬も関係ない。
 見えなかった湖底に沈む貝殻に、実際に手が伸ばせるか伸ばせないかの話だけだ。
 勿論、目に見えるよりも遥か底に落ちている貝殻には、手は届かない。
 いや、届くことは許されていない。手を伸ばす前に、その腕がばっさりと斬り落とされている。人
間が、そこに辿り着くことは、許されていない。
 仮に誰かが許したのだとしても。


 サンダウンは、ずるりと大鎌を引いて、言いつけに背いて森の奥深くに入ろうとしていた子供を見
下ろす。
 突然ぬるりと現れた巨大な影に、粋がっていた子供は泡を吹いて気絶した。その身体を、大鎌にひ
っかけてぽーんと遠くに飛ばす。
 どさりと落ちる音がした。
 何かが折れる音はしなかったから、精々打ち身程度だろう。
 子供の様子などそれ以上気にもかけず、サンダウンは来た道を引き返す。これ以上、人間の子供に
関われば、サンダウン自身に碌なことが起こらない。 
 元々は人間であった身の上なので、子供をあんなところに放置しておいて大丈夫なのか、という思
いもちらりと頭の片隅を掠めたが、けれどもだからといってサンダウンが子供を町まで連れていくわ
けにもいかない。
 何せサンダウンは鬼火。
 異形の者からも、人間からも恐れられる存在なのだ。子供が再び目を覚まし、その時にサンダウン
の姿を見ようものならば、今度こそ泡を吹いて倒れるどころか、その命丸ごと持っていきかねない。
 鬼火とは、そういうものだ。
 燃え盛る命の炎を、己の火種としようとせんとする、浅ましい残り火だ。驚き、恐怖する魂を、一
瞬で引き摺り込む、底無しの沼だ。
 だから、子供をああして放置したことは仕方のないことなのだ。
 それに。

「どこほっつきあるいてやがったんだ!」

 木々の間を抜けきって、人間の誰も踏み入れたことのない森の奥深く、洞のある巨大な老木の前に
やって来た時、きゃんきゃんと足元で鳴き声がした。
 サンダウンが見下ろすと、そこには黒い子犬が一匹。
 耳をつんと立てて、尻尾もぴんと立てて、腰に手を当てて、サンダウンを睨み上げている。そして
その周りには茶色いトカゲが何重にも円陣を組んでいる。

「もうすぐ、ひるめしにするっていっただろ!それなのにふらっとどこかにいきやがって!せっかく
のオムライスがさめちまったじゃねぇか!」

 子犬が吼える。
 すると、周りにいるトカゲ達もサンダウンが悪いと言わんばかりに、きゅいきゅいと鳴く。
 サンダウンが養い親となっている黒い犬の獣人の子供と、その子供の友人であるトカゲ達である。
親を流行り病で亡くした子犬は、そういうわけだか鬼火であるサンダウンに懐き、他の獣人達の反対
を押し切って、サンダウンと一緒に木の洞で暮らしている。
 そしてその子犬が何処からか拾ってきたトカゲ。ふかふかというトカゲにはあるまじき肌触りのト
カゲは、自分が巨大になると森の更に奥深くに姿を消すのだが、その前に子供達を残していく。で、
その子供達もまた自分の子供達を残していくので、年々、倍々ゲームのように増えていって、最近で
は、サンダウンの家の周りはトカゲに占拠されている状態になっている。
 そして、そんな子犬とトカゲに責めたてられている鬼火であるサンダウン。
 これが、サンダウンの今現在の家族構成である。

「オムライス、か………。」
「そうだぜ!いきのいいたまごが手にはいったからな!」
「…………。」

 玉子に生きが良いとかあるのか。
 疑問はあったが、サンダウンは口にしない。
 サンダウンは無口である。鬼火である故に誰とも会話してこなかったからなのか、それとも人間だ
った頃の名残なのか、それは分からない。分からないが、とにかく今現在の事実として、サンダウン
は無口なのだ。
 それに対して、黒い子犬と言えば、

「かんしゃしろ、てめぇのために、たまごを三つもつかってオムライスをつくってやったんだからな!
おれのぶんは、一つしかつかってねぇんだ!もしも、のこしたらしょうちしねぇぞ!それとトカゲが
さかなをとってきたんだぞ!ばんめしは、さかなのバターつつみやきだぜ!バターはこのまえ、てめぇ 
がもらってきてたからな!そいつをごうせいにつかってやろうじゃねぇか!それに、こうそうをそえ
るからな!やさいがきらいだとか、としがいもないこというんじゃねぇぜ!」

 物凄い勢いで話し始めた。
 サンダウンが口を挟む暇もない。サンダウンは時折頷くことしかできない。下手に口を出したら、
子犬の機嫌が悪くなって、話も明後日の方向にすっ飛んで行くことは間違いがないので、サンダウン
は、黙っておくことにしている。こうして、サンダウンの無口には、ますます磨きがかかるわけであ
る。
 サンダウンが歩く間も、足元をうろちょろと歩き回って何事か喋っている子犬。気を付けないと、
脚をひっかけてしまいそうである。
 幸いにして今までそんなへまをやらかしたことはないが。

「なんだ!きゅうにだっこしやがって!」

 へまを仕出かす前に、抱っこしてやるのが無難である。子犬を抱っこする時に、トカゲも何匹が釣
れたが、まあそれは良いとしよう。

「さては、おれさまをだっこしたくなったんだな。しかたねぇ、だっこされてやるぜ。」

 ぱったぱったと黒い尻尾を揺らしながら、得意げに子犬が言う。上から目線な台詞に、鷹揚に頷き
ながら、サンダウンは家の中へと向かう。周りをトカゲ達が囲うように歩き、一緒に家の中に入って
くる。
 家の中に入ると、米の炊けた匂いと、卵の匂いがふわりと鼻に付いた。
 鬼火だから食欲も何もないのに、おかしなものである。だが、おいしそうな匂いであることに変わ
りはない。
 木でできた小さなテーブルの上に、皿が二つ置いてある。そこには大きいオムライスと、ちょっと
小さなオムライスが、それぞれ乗せられていた。床には、トカゲ達の胃袋に入るのであろう、豆ご飯
が。
 これが、鬼火であるサンダウンの、日常の風景である。


 頭の片隅を、放り投げた人間の子供のことが横切っていく。
 きっと昔なら――人間であった頃なら――あの子供のことを、もっと思いやっていただろう。確証
はないが、そういう気がする。
 だが、今はサンダウンは人間ではない。行く宛なく彷徨う、哀れで浅ましい鬼火である。人間も誰
も、忌避するだろう。サンダウンがどれだけ人間に対して、何らかの情を持ち得たとしても、それは
人間にとってはおぞましいものでしかない。 
 サンダウンを忌避しないのは、今やこの空間だけしか残されていない。
 だから。
 夏から冬へ、生から死へ。
 移ろいゆく瞬間の、頼りなく不安定なこの時期、全ての境が曖昧になる、全ての死者の日に近づく
この頃。
 森は木々を赤らめて、死の間際に己の奥まった部分をひっそりと見せる。それは人間を招き寄せる
ことも多々ある。聖と魔の狭間に、彼らが転がり落ちてくることも、無きにしも非ず。だがそれは、
決して良いことではない。
 聖にとっても、魔にとっても。
 人間の、何者よりも残虐になれるその性質は、我らの生活を脅かすかもしれない。
 それを、元々人間であったが故に知っているサンダウンは、だから人間を払い除けるのだ。時には、
その両腕を切り落としてでも。
 眼の前で、子犬が黄色い卵をスプーンで掬っている。
 はむ、と真剣な顔で頬張る姿を見つめつつ、誰が脅かすことを許したとしても、この自分が決して 許さない、と誰にも聞こえぬ篝火の奥底で呟いた。