「今年も、遂にこの日がやってきたか。」

  しみじみと呟くアキラに、胡乱な視線が幾つも向かう。
  自称健全なる青少年であるアキラは、しかし傍目から見れば健全どころか稀におつむが弱いんじ
 ゃないかという疑惑がもたれてしまうような発言を繰り返す為、今も胡乱な眼差しで見られる事と
 なっている。

 
 
 
    ボンボン・オ・ショコラ

 

 
 
 
    そもそも、一体何がどうこの日なのか。
  あらゆる時代あらゆる場所から掻き集められた、いわば掃き溜めのような場所では、アキラの言
 っている事が通じる事のほうが少ないのだ。
  が、アキラはその事を完全に忘れているのか、勝手に一人でしみじみとしている。
  勿論、傍で聞いている人間にはさっぱりわからないので、とりあえず胡乱な眼でアキラを見て、
 また何かわけの分からない事を言い始めたな、と思っているのだ。
  だが、周囲の人間を巻き込みたがるのが、心の読める少年アキラである。心が読めるのだから、
 皆があまり関わり合いになりたくないという心情を汲み取って欲しいものであるが、何故かそのあ
 たりは斟酌されない。

 「今日こそが、恋の季節、愛を語らう日!2月14日!ヴァレンタイン・デー!」

  何かの呪文のように叫んだアキラは、何か期待に満ちた眼差しでこちらを振り返った。
  が、その瞬間、全員の胡乱な眼にぶつかって、たじろいだようだった。
  当然である。この場にいるほとんどが、アキラの言っている事など理解できていないのだ。

 「う、なんだよ、その眼は。」

  胡散臭げな眼差しが自分の所為であるとは思っていないのか、アキラは少し戸惑いつつも、しか
 し主張を繰り返す。
  そう。
  確かに、この場にいる半分はヴァレンタイン・デーなんて西洋かぶれしたものは知らないだろう。
 だが、残りの半分――ヴァレンタインというものが広まった後の日本で生活している日勝と、そも
 そもヴァレンタインを日本に輸入してきたアメリカの国民であるサンダウン、そして遠未来よりや
 ってきたキューブならば、ヴァレンタインを知っているはずであった。

 「そうだ、日勝!ヴァレンタインというのがなんなのか、こいつらに教えてやれ!」

    江戸時代の日本人と、原始人、そして中国人を指差して、アキラは叫んだ。
  それを受けた日勝は、おう!と威勢よく返事をして、

 「チョコの特売日だ!」
 「違う!」

    アキラが当初口にした、愛を語らう日だとかいう甘い言葉の欠片もない日勝の説明に、アキラが
 すかさず突っ込んだ。
  が、日勝は酷く不服そうに口を尖らせた。

 「何が違うんだよ。この日はチョコレート売りのバイトが多くなる日なんだぜ。全国でチョコ売り
  のバイトが募集されるんだぜ。」
 「やかましいわ、製菓会社の商売戦略に見事なまでにこき使われやがって。てめぇみたいなのがい
  るから、ヴァレンタインが製菓会社の手先みたいに言われるんだ。」

  ヴァレンタインとは、そもそもが聖ヴァレンチヌスが撲殺された日である。
  だが、そんな事実を一切合財忘れて、キリスト教徒でもないのに愛だの恋の日だの騒いでいるア
 キラも、十分に製菓会社の戦略に嵌っているのだ。
  そして、もう一つ。
  江戸時代の日本人と中国人、そして原始人が、チョコレートなる物を知っているわけもなかった。

    「ちょこれいとって、なんだい?」
 「はて?響きから察するに、恐らくかすていらの仲間かと。」

  ちょこれいとなるものについて、首を傾げているおぼろ丸とレイに、アキラが全く見当違いの説
 明を始める。

 「チョコレートってのは、あれだ。この時期になると製菓会社が女の子に告白用アイテムとして大
  々的に売り場を展開する菓子の事なんだぜ。それを女の子は、意中の男に向かって渡すんだ。」

  まるで、チョコレート本体の説明になっていない説明である。
  だが、それでレイは納得したのか頷いている。

 「つまり、あんたはそのちょこれいとなる物を貰った事がなくて、僻んでるんだね?」
 「違う!」

    レイのダメ出しに、アキラは悲鳴のような声を上げた。

 「あのな!チョコレートってのは、俺の国の製菓会社が勝手に女でも告白できるアイテムとしてヴ
  ァレンタインに合わせて売りに出したもんなんだぞ!確かに貰う事はロマンっちゃあロマンだ!
  けどなあ!ヴァレンタインの神髄はそこにあるんじゃねぇんだよ!」

     ではヴァレンタインの神髄とは一体なんかのかと問われると、非常に困りそうではあるが。
  そんなアキラを、先程まで我関せずと無視していたサンダウンが、ちらりと見やり呟く。

 「……ヴァレンタインに贈呈用のチョコを売り始めたのは、キャドバリーだな。」

  だから別に、チョコレートを贈る事自体は特に間違っていない。
  なお、キャドバリーとは、イギリスの製菓会社である。この会社が、贈呈用の素晴らしい箱に入
 ったチョコレートを作り上げた。チョコレートとヴァレンタインを結びつけたのは、この会社が初
 めてではあるまいか。
  そんな事をマッドが言っていたような気がする。
  ぽそりと呟かれたサンダウンの台詞に、アキラが食いついた。

 「チョコレート商戦の火付け役は、てめぇか、おっさん!」

  明らかに製菓会社に入社した事がなさそうなおっさんに向けて、火を吐くように叫んだアキラか
 らは、何気にさらりとサンダウンが自分の嫁――とアキラは思い込んでいる――の名前を出した事
 でサンダウンが嫁からチョコを貰っているに違いないという根拠のない推論による嫉妬の嵐が見え
 隠れしていた。
  要するに、やっぱりアキラはレイが察したとおり、チョコレートを貰えなくて僻んでいるのであ
 る。
    ただ、その感覚はアメリカ人なるサンダウンには全く理解できないものである。
  アメリカ人には、女だけからチョコ――チョコに限らずプレゼントを貰うという感覚が、理解で
 きない。
  そう。
  ヴァレンタインの神髄とはそこである。いや、別に神髄ではないかもしれないが。 

 「………自分から贈ろうとは思わないのか?」

  神髄ではないが、真理であった。
  サンダウンの台詞を聞いた、チョコレート商戦に毒されていない江戸時代日本人、中国人、果て
 はヴァレンタインを理解していない日勝までもが頷いている。
  意中の人間から貰えないのなら、自分からあげたら良いじゃない、と。
  つまり、傍目から見れば、何をどう取り繕おうが、アキラは意中の人間からチョコレートを貰う
 のを待つだけの、立派な負け犬であった。

 「ふああああ!なんでチョコの一つや二つ如きで、負け犬とまで呼ばれねぇとならねぇんだ!」

  自分から振っておいた話題の癖に、負け犬扱いされたアキラが吠え始める。
    しかし、その一つや二つのチョコレートを、製菓会社の陰謀としてしか反論できない辺り、やは
 り負け犬の称号から抜け出す事は出来なさそうであった。
  皆から胡乱な眼で見つめられる事となったアキラは、きー!と叫び、遂にはサンダウンに対して
 無駄な――本当に無駄な仕返しを仕掛けた。

 「じゃあ何か!おっさん!あんたは自分の嫁にチョコの一つや二つ贈った事があるんか。ああん?」

  サンダウンに嫁がいる時点で――マッドが聞けば激怒しそうであったが――色々とアキラに勝ち
 目はないのだが、そこは健全なる青少年の事、いちいち突っかからずにはいられななかったのだろ
 う。
  思えばマッドにもサンダウンに突っかかる事は多いが、けれども女の事では特に突っかかってく
 る事はなかった。おそらく、それはマッドが恋愛沙汰の面で成熟しているからであろうが。
  マッドの事を薄らと思い出したサンダウンは、しかしアキラからの質問も忘れていなかったので、 
 とりあえずアキラからの質問にさっさと答えてマッドの思い出に浸ろうと考え、適当に答える。

 「どうせ、あれが毎年くれるのだから、私がわざわざ動く必要もあるまい。」
 
     まあどうしても欲しいと言われれば、それなりの物をくれてやるが。
  しれっとそう呟いて、懐に手を伸ばして葉巻を取り出す。それに火を点けようとした辺りで、ア
 キラが、ふぎゃーっといきなり叫んだ。
  何事か。
 
    「なんだそりゃ!あれか!あんたの恒例になりつつある惚気か!一人や二人嫁がいるからって良い
  気になるんじゃねぇぞ、おっさん!」
 「………嫁はあれ一人で十分だ。」
 
     本心を言ったつもりだった。
  しかし、その瞬間、アキラがの罵声にも似た悲鳴が、あちこちに木霊した。



  なお、ルクレチアから帰還したサンダウンが、マッドから無事チョコレートを貰えたかどうかは
 定かではない。
  ただ、なんの気まぐれか珍しくサンダウンがマッドの為にと準備したのは、中にリキュールの詰
 まった丸いチョコレートであった。