思考は酷くおぼろげだった。いくつもの言葉や風景が思い浮かんでは、とりとめなく流れて消え
 ていく。それらに対して何らかの感情や感想を抱こうと手を伸ばせば、手が届く前に遠ざかってい
 く。
  だが、マッドはそれについて不思議に思う事無く、ただぼんやりと遠ざかる景色を眺めていた。
  普段の彼ならば、意に反して手の中から零れ落ちて行くなど我慢できない事なのだが、しかし目
 の前の風景が流れ去っていくと理解しているからこそ、なにも言わずにマッドは、ただただぼんや
 りとしていた。
  断片的なそれらについて文句も言わず、マッドは少しの肌寒さを感じて身を丸めようとする。
  マッドは、眼の前の出来事が眠りの縁で繰り広げられる風景である事を薄っすらと理解していた。
 だからそれらに特に何も言わず、それよりも現実世界で感じているらしい寒気のほうを何とかしよ
 うと、すぐ傍にあるはずの毛布を手さぐりで探す。
  もぞもぞと覚束なく手探りで毛布を探していると、突然背後から、やや過剰すぎる温もりに包み
 込まれた。
  毛布の柔らかさを伴っているが、けれどもそれ以上の質量と、葉巻やら酒やら色々なものが混ざ
 り合った臭いがする。その臭いが良く知ったものである事をはっきりと認識し、マッドは眠りの縁
 にいたところから、一気に現実世界に立ち戻った。




  シディムの谷
  




  賞金首サンダウン・キッドと賞金稼ぎマッド・ドッグが身体を重ねるようになった理由は、実を
 言えば当の本人達もよく分かっていない。
  少なくとも、マッドはサンダウンが自分を抱く理由を知らない。せいぜい、賞金首であるが故に
 なかなか女を抱く事が出来ずに欲を持て余して、偶々近くにいた賞金稼ぎに手を出したというのが
 妥当な線だろうと思っている。
  ではマッド自身はどうかといえば、これがまた良く分からない。自分の事に良く分からないなん
 て、とマッドは憮然とするが、けれども分からないのだから仕方ない。
  強いて言うなれば、興味があったから、だろうか。
  いつでも何処でも無表情な顔を保つ男。何が起きても表情一つ変えず、淡々と通り過ぎていく。
 それはマッドが眼の前に現れても同じ事だった。どれだけマッドが声を荒げようとも、サンダウン
 の表情は微塵も変わらない。それを少しでも変えてやろうと、鉄壁とも言える無表情の裏側を知っ
 てやろうと思って、マッドはサンダウンに抱かれる状況に甘んじている。
  という事は、マッドがサンダウンを誘ったのだろうか。
  思ってはみるが、そうだっただろうかとマッドは首を傾げる。既に最初が分からなくなるほど長
 くいる。もはや、どちらが最初の切欠を作ったのかも分からない。それに、別にそんな事はもう些
 細な事だ。どちらが切欠であったのであれ、もう片方もそれに同意した事に間違いはなく、今も二
 人はこうして抱き合っている。
  ただ、相手の心根が分からないだけで。
  外気に触れて冷たくなったマッドの肌を、優しく毛布で隠して温めようとするサンダウンの意図
 は、マッドには分からない。
  サンダウンとマッドの間に横たわっているのは、身体だけの関係で、それ以外のところで繋がる
 ものと言えば賞金首と賞金稼ぎという敵対関係くらいのものだ。だからマッドはサンダウンが自分
 の知らない所で誰を抱いているのかなど知らないし、誰を抱こうと口出しはしない。それは、サン
 ダウンも同じ事だ。マッドが前日に誰を抱いて香水の匂いを付けていようが、サンダウンは黙りこ
 くっている。
  けれども、サンダウンがマッドを抱く時は、信じられないほど丁寧だ。確かに、マッドが男であ
 る事を考えれば女以上に丁寧にせねばならない事は分かるし、女相手にするようにしているという
 のなら丁寧である事も理解できる。
  だが、普段のサンダウンからは、欠片も女の匂いがしないから、マッドは良く分からなくなって
 いる。普段のサンダウンからは、女の香水の匂いやらそれに類するものは何処からも嗅ぎ取れない。
 マッドのように前日の女の匂いを引き摺っているという事もない。
  それは、それだけ飢えているという事なのだろうか。それ故に、マッドの身体を丁寧に扱って、
 欲を満たす相手を逃さないようにしているだけなのか。
  しかし、それにしては情事の最中だけではなく、情事の後もサンダウンは丁寧に触れてくる。今
 こうして、マッドの肌を温めようとしているように。
  その手つきは、勘違いするほど優しい。
  ゆっくりとマッドを毛布で包み上げるサンダウンの手を、マッドは思わず押し留めた。途端に、
 サンダウンの手が止まる。そこから、なにか臆病な気配がしたのは気の所為だろう。
  サンダウンが動きを止めた所為で、先程まで静かにあちこちに散らばっていた沈黙が、気まずさ
 を帯び始める。それを無視して、マッドはゆっくりと身を起こした。サンダウンの顔は見ないよう
 にしたので、今、サンダウンの表情がどんなふうなのかは分からなかった。
  気まずさを打ち払う為にも葉巻が吸いたいとも思ったが、目覚めてすぐに葉巻を吸って辺りを汚
 すのは、マッドの好みではなかった。
  結局、重苦しい沈黙を持て余し、マッドは小さく呟いた。

 「………キッド。」

  名前を呟いてから、何を言えば良いのか、と戸惑った。
  まさか、今更どうして自分を抱くのか、なんて聞く事はできない。しかし、このまま沈黙してし
 まおうにも、サンダウンはマッドが自分の名を呼んだ事に気付いており、その後に続けられる言葉
 を律儀に待っている。
  それを無視してしまうわけにもいかず、マッドはしばらくの間口籠っていたが、やがて諦めたよ
 うに、けれども決意を秘めた声で呟き続けた。

 「………止めてぇんだけどよ。」

  その声に、サンダウンが怪訝な気配を浮かべた。表情はきっと変わっていないだろう。だから、
 マッドはサンダウンの気配を読む事に長けたのだ。

 「別に、ずっとってわけじゃねぇ。しばらく、こういうのを止めてぇんだ。」

  次に漂ってきたのは、困惑だった。ただし、言葉はない。

 「あんたが嫌になったとか、そんなんじゃねぇぜ。ただ、ちょっとの間、こういう事はしたくねぇ
  んだよ。」
 「………分かった。」

  ようやく返ってきた男の言葉は短く簡潔だった。マッドに対して理由を求めもせずに、あっさり
 と手を離す。それを喜ぶべき事なのか、マッドには判断できなかった。
  だが、次に零れた台詞で、頭の中がかっとなった。

 「………お前が、そう、望むなら。」

  まるで、マッドの望みを叶えてやったのだと言わんばかりの台詞。
  何様だ、と思って睨み上げて、呆気にとられた。そこにあったのは、いつもの無表情ではなく、
 何処かうら寂しい表情を浮かべたサンダウンの顔だった。
  なんて顔をしているのか。
  だから、思わず、呟いた。

    「なんて顔してんだ、あんた。」
 「…………。」

  そう呟いた瞬間に、サンダウンの表情が歪められた。何か、言い当てられたくない物事を言い当
 てられてしまったかのような困ったような表情だ。
  その表情のまま、ゆっくりと何かを掬うような形をした大きなかさついた手をマッドに伸ばす。
 ただし、その手はマッドの頬に触れる寸前で、やはり困ったように止まってしまった。

 「キッド?」
 「……………。」

  サンダウンの青い眼に、幾つもの斑紋が生まれてそれが瞬いた。
  と思った瞬間、サンダウンの手が閃いて、マッドを引き寄せた。信じられないほど力強く抱き締
 められ息が詰まる。しかしそこに追い打ちを駆けるように、唇を塞がれた。そのまま、情事に雪崩
 れ込む時のような、深い口付け。
  だが、それだけだった。
  サンダウンはすぐにマッドから身を離す。

 「………これで、止める。」

  低く呟いてマッドを解放すると、それでもマッドの肌が外気に曝されている事が気になるのか、
 そっと毛布で包む。
  丁寧に丁寧に包んで、サンダウンはようやくマッドから離れた。まずは胴を離し、次に顔を遠ざ
 け、最後に腕を離す。指一本一本がゆっくりと時間をかけて離れて行く仕草は、皮膚一枚が離れて
 行く事が耐えがたいと言わんばかり。

 「これ以上は、しない………。」

  呟く声は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。じっとマッドを見つめる青い眼は、振り
 払うように眼線を逸らした。

 「キッ……。」
 「マッド。」

  思わず声を上げたマッドの声を遮るようにして、サンダウンが問うた。

    「………次、は、あるのか?」

  お前はしばらくと言ったけれど。
  果たして次があるのか。

  それは、はっきりと求めの言葉だった。それが一体何を求めているのかはマッドには分からなか
 った。マッドを求めている事は分かっても、マッドの何を求めているのかは分からなかった。
  そして、サンダウンもそれ以上を口にしようとはしなかった。
  最後に一度マッドの頬に触れ、小さく何事かを呟いたようだった。しかしそれはマッドの耳には
 聞こえない。
  毛布て柔らかく包まれたマッドを置いて、サンダウンはいつもと同じ密やかな気配さえも消し去
 って、何処かに消えていった。




  それから、マッドはサンダウンと逢う事はなかった。
  いつも通りに賞金首を撃ち取って、賞金稼ぎ仲間達と飲んで騒いで。けれども娼婦を買って抱く
 気にはなれなかった。女が嫌いになったわけではない。ただ、最後の夜に見たサンダウンの表情が
 いつまでたっても網膜に焼き付いて離れない。
  マッドから離れる事が耐えがたいと言わんばかりに、時間をかけて離れていった男。今までそん
 な素振り一度だって見せた事はなかったというのに、何故あの時に限って、あんな表情でマッドに
 触れたのか。
  それとも、あれは一時の気の迷いだったのだろうか。
  もしかしたら、あんなに動揺してみせたのは、マッドの言葉が唐突過ぎた所為かもしれない。我
 に返って、そんなに動揺する事はなかったと思っているのではないだろうか。そして、今頃、何処
 かで女を見つけて、抱いているのかもしれない。
  女の香水の匂いを付けて。
  この次に逢う時は、らしくもなく、そんな事になっているかもしれない。
  もともと、身体だけの関係で縛りつけるような関係ではない。マッドがサンダウンを縛る時と言
 えば、それはサンダウンを賞金稼ぎとして捕える時だ。間違っても、マッドはサンダウンを身体で
 籠絡したつもりはないし、マッドもサンダウンに籠絡された事はないと思っている。
  けれども、サンダウンが他の誰かを抱いているという事は、信じられない。それは最後の夜にサ
 ンダウンが見せた表情の所為だ。まるで、マッドを求めているかのような。
  そんな事はあるはずがない。マッドだってサンダウンに抱かれているのはただの興味本位だ。だ
 から、サンダウンがマッドを求めるなんて事あるはずがないのに。

 「マッド。」

  唐突に路地裏から現れた男に抱き締められて、一瞬抵抗を忘れた。
  夜の暗がりから湧いて出てきたサンダウンは、マッドの名を呼ぶと耐えかねたように抱きついて
 きたのだ。強く掻き抱いて口付けを求めてくる男は、マッドが慌てて抵抗を開始せねば、その場で
 押し倒していたかもしれない。
  マッドの抵抗に思い出したかのように腕の力を落とし、だが抱擁を解く気はないらしい。未練が
 ましく見えるのは、マッドの願望だろうか。

 「……まだ、か?」

  くぐもった声で問うサンダウンに、マッドは殊更硬い声を出した。

 「なんだよ、そりゃあ。俺があんたを恋しがって、またすぐに戻ってくるとでも思ったのかよ。」

  恋しかったのだろうか。
  言ってみてマッドは思う。
  そして、サンダウンも恋しかったのだろうか。

 「俺は別に、あんたに惚れてたわけじゃねぇんだぜ。俺があんたに抱かれたのは、あんたのクール
  ぶった顔を壊してやりたかっただけだ。」
 「………それでも、良い。」

  私も、同じようなものだ。
  サンダウンの声は、低かった。
  が、何かに焦がれているようだった。

 「私も、お前を知りたい………。」

    その囁きは、天使を知りたいと告げたソドムの都市の住人の声と同じ意味を孕んでいた。けれど
 も、硫黄に焼かれた都市と同じくらいの焦がれは、同時に微かな甘さを伴っている。

 「……あんたが、俺の何を知りたいってんだ。」

  堕天に逆らおうとするかのように、辛うじて吐き捨てれば、サンダウンの唇がマッドの耳朶を捕
 えた。

 「…………全部、だ。」

  何が好きで、何を持っているのか。
  それら全部が知りたい。
  貪欲な都市全ての住民の全てを繋ぎ合わせても、まだ足りないほど貪欲な男は、十字の前で懺悔
 するかのように、そう希った。